冬迷宮

関谷俊博

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 空に風花が舞い始めた。本格的な冬が到来したのだ。森番の男は暖炉に薪をくべて、暖をとった。ロッキングチェアに座り、静かにパイプを燻らせた。暖炉の炎は揺らぎなから、柔らかい光を放っていた。
「冬は全てを忘れさせてくれる。みんな雪が覆い隠してくれる」
 森番の男は呟いた。
「案山子。あんたもピアノ弾きのことなんか、もう忘れたほうがいい」
 僕は黙っていた。暖炉の薪が、パチっとはぜるような音を立てた。
「そんなに気掛かりなのかい? ピアノ弾きのことが」
「はい」
 僕は答えた。
「それだけは忘れてはいけないような気がするんです」
「そうか」
 森番の男は頷いた。
「他のことは忘れてしまっても、そのことだけは覚えている…あんたの思ひ人なのかな…そのピアノ弾きは」

 瑠璃色の冬鳥は、いつも突如として出現した。空や地面、あるいは木の幹の一部が、突然、輝きを放ち始める。まるで噴水のように光は溢れだし、眩いばかりに輝きを強める。すると、その輝きの中から、瑠璃色の冬鳥が跳び出してくるのだった。僕がいるこの場所と、何処か他の場所を、冬鳥はきっと往き来しているのだろう。それは僕がもと居た場所かもしれなかったが、そこがどこだか僕にはわからなかったし、まだすべきこともあった。ピアノ弾きを捜すこと。けれども僕に残されている記憶は、唯それだけでもあった。僕は縋るような思いで、呟いてみた。
「ピアノ弾きを捜すこと」

 ある夜。ふと窓の外を見ると、僕は目を奪われるような光景に声を失った。夢幻的で、僕にとっては、一度見ただけで、心を持っていかれてしまうような光景だった。丸太小屋の柱時計の針は九時五十七分を指しており、森番の男はロッキングチェアで居眠りをしていた。
 僕は丸太小屋の扉を開けて、外へとびだした。突き刺すような寒気が襲ってきた。足が前に出なくなった。僕は、ただ圧倒されて、そこに立ち尽くした。
 雪野原に据えられたグランドピアノ。夜空にはオーロラが舞っていた。オーロラは、赤や青や緑に色を変え、めまぐるしく形状も変化させていた。あるときは滝のように流れ、あるときは波のように寄せては返し、あるときは巨大な竜巻のように渦を巻いていた。
 そして、静止しているのは、雪野原のグランドピアノだけだった。神秘的で荘厳な光景だった。けれどもそこにピアノ弾きはいなかった。グランドピアノは、沈黙して、主人を待っていた。まだそのときではないのだ。僕はそう思った。

 翌朝、雪野原のグランドピアノは、跡形もなく消え失せていた。
 僕がその話をすると、
「そんなこともあるものさ」
 森番の男はあっさりと言った。
「ここでは何だって起こるんだ」

 冬はますます深まりをみせた。地表をなめる白い炎のように、窓の外は吹雪いていた。
「冬は全てを忘れさせてくれる」
 森番の男の言葉を僕は理解した。
 吹きあがる純白の雪煙は、何もかもを白く覆い隠し、忘却の彼方へと連れ去ろうとしていた。通り過ぎた後には何も残らないだろう、と僕は思った。丸太小屋はときおり軋むように揺れた。
「ピアノ弾きを捜すこと」
 僕はもう一度呟いてみた。ただ一つの大切な記憶を、決して冬に奪われることがないように。僕はピアノ弾きが現れるのを待った。叢に身を潜める獣のように辛抱強く時を待った。

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