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ふうん…やっと気づいたって訳か」
NORIKOは、顎をしゃくった。
「雪路くん、後ろを見てごらんなさいよ」
僕は振り返った。
「雪路くん…」
そこには、制服姿のノリコが立っていた。二人の則子…。
「やはり、そうか」
僕は低い声で言った。
「雪路くんって、やっぱり鈍感」
NORIKOが、くすくす笑った。
「今頃になって気づくなんて」
「ああ、自分でもそう思うよ。もっと早くに気づくべきだったって」
ノリコに向き合い、僕は尋ねてみた。確かめてみたいことがあったのだ。
「覚えてる? 学生の頃、放課後の図書室であったこと」
ノリコは首を傾げただけだった。
「無駄よ」
NORIKOが、せせら笑った。
「彼女は知らない」
そのとき、僕は背後に視線を感じた。微かな物音。振り返ると、あの美しい神獣が、蒼い眼で僕を見つめていた。
「やだやだ。嫌な奴が来ちゃったな」
NORIKOは、露骨に嫌な顔をした。
「苦手なのよね。口うるさい女って」
「口うるさい女?」
僕はNORIKOに聞き返した。
「そうよ。見ててごらんなさい」
次の瞬間、僕は目を見張った。神獣の身体が輝き始めたのだ。金色の光を放ちながら、神獣は大きな鳴き声をあげた。僕は愕然として、それを見つめていた。神獣の身体は、みるみるうちに、眩い光の粒子に包まれていった。光の粒子は、激しく点滅を繰り返しながら、形態を変化させ、急速に人の姿をとり始めた。現れたのは、またもう一人の則子だった。
「NORIKO」や「ノリコ」と区別する為に、僕は彼女のことを仮に〈のりこ〉と呼ぶことにする。
「ごめんなさい、雪路くん。あなたを巻き込んでしまって」
申し訳なさそうに〈のりこ〉は言った。
「だけど、こんなふうにバラバラでいるのは、則子の本来あるべき姿ではないわ。あなたの助けを借りたかったの」
則子は統合失調症ではなかった。解離性同一性障害。つまり多重人格だったのだ。ここにいる〈のりこ〉は、則子の主人格そのものではなく、自分はこうあるべきだと考えている理知的な交代人格。たぶんラルフ・アリソンが「内的自己救済者」と呼んだ存在なのであろう。
彼女は全ての記憶を保持している。オカルト的な考えをする人間のなかには「内的自己救済者」を、自分の「守護霊」であると信じている者もいる。そもそも「内的自己救済者」を提唱したラルフ・アリソン自身が「神というのは内的自己救済者のことかもしれない」と述べているのである。
そして、主人格の則子の背後には、更にノリコとNORIKO。二人の交代人格が隠れていた。
たぶん「親に口答えをしない」のがノリコで、「強い自己主張をする」のがNORIKOだ。
主人格の則子は、母親からの矛盾した命令に対応する為、ノリコとNORIKOに、役割を分担させたのである。ダブルバインドが、多重人格を生み出していた。
「きみは内的自己救済者だね。主人格の則子はどこにいる?」
「あなたの後ろを見て」と〈のりこ〉は言った。振り返ると、雪に半分埋もれかけた則子が、静かに横たわって、瞼を閉じていた。
「主人格の則子は、いま深い眠りについている」
〈のりこ〉は言った。
僕は主人格である「則子」に出会ったことがあるのだろうか。僕はふと疑問に思った。僕が会っていたのは、交代人格である「NORIKO」か「ノリコ」で、主人格である「則子」には会ったことがないのではなかろうか。
交代人格に役割を分担させた主人格は、逆に陰が薄くなる、との報告もある。主人格が存在しなくなってしまい場合すらあるらしい。
いや、精神病棟に入院する直前の混乱した則子。あの則子は少なくとも主人格の「則子」であったはずだ。
「きみは気づいていたんだろう? 自分の中に複数の自分がいることを」
僕は〈のりこ〉に尋ねた。ここにいる〈のりこ〉は、主人格の則子ではなく、内的自己救済者の〈のりこ〉だが、主人格の則子の記憶も保持しているはずである。
「ごめんなさい」
〈のりこ〉は目を伏せた。
内的自己救済者である〈のりこ〉や、交代人格である「NORIKO」は、他の人格であったときの記憶も全て保持している。それに対して、もう一つの交代人格である「ノリコ」は「ノリコ」であったときの記憶しかない。では、主人格である「則子」はどうか。「NORIKO」や「ノリコ」であったときの記憶はなくとも、つまり自分が多重人格であることの自覚はなくとも、記憶の分断には気づいていたはずだ。けれども、則子はそれを口にしなかった。
「自分からはどうしても言い出せなかったの。私はあなたに気づいてほしかったの」
「カウンセリングで気づくべきだったよ。迂闊だった」
「本当にごめんなさい」
〈のりこ〉は繰り返した。
「私のせいで、雪路くんをこんな所にまで来させてしまった」
「それはいいんだよ。学生の頃、言ったことがあっただろう? きみの願いだったら何でもきくよって。きみの為なら何でもするつもりさ。きみはどうしたい?」
僕は尋ねた。
「ひとつになりたい」
〈のりこ〉は目をあげた。
「引き裂かれてしまった心を元に戻したい」
「そうだね。僕もそれがいいと思う」
僕は頷いた。
「選択肢は二つある。親に口答えをしない従順なきみ。強い自己主張をするきみ。矛盾する二つのきみのうち、どちらかを選べばいい。そうすれば、人格の分裂は回避される」
主人格である則子が眠りについているいま、決定権は内的自己救済者である〈のりこ〉にあるはずだった。自分はこうありたい、という答えを握っているのは〈のりこ〉なのだ。
「私に消えろって言うの!」
NORIKOが横から口をはさんだ。
「私を殺すつもり! 雪路くんが記憶を取り戻せるようにしてあげたのは、私じゃないの!」
「そうじゃない! そうじゃないよ!」
僕は何度も首を振った。
「僕にとっては、きみたちみんなが則子なんだ!」
「消えるのなんて嫌!」
僕はノリコに向き直った。
「きみはどう?」
「私は〈のりこ〉の決めた通りにするわ」
ノリコはか細い声で言った
「どうやら決まりのようね」
NORIKOはそう断言した。
「残るのは私の方だわ。雪路くん、言ったわよね。あなたは私のものだって」
「ピアノを弾きなさい。ノリコ、いや則子かもしれないが、彼女に母親の声を聞かせていたのは、きみだね」
僕はNORIKOを向き直った。
「そうよ」
NORIKOは悪戯っぽく笑った。
「ノリコは何でも言いなりなんだもの。混乱するのを見るのは面白かった」
「どうする? どちらを選ぶ?」
僕は〈のりこ〉に向き直った。
「私はどちらも選ばないわ」
〈のりこ〉が言った。
「えっ」
「あなたが言ったとおり、NORIKOもノリコも則子なの。私もそう。則子の一部を捨て去ることはしたくないの。私たちは全て溶け合ってひとつになる。それが本当の則子になることでもあるの」
「本当のきみは、どんなきみなの?」
僕は尋ねた。
「風のように自由なピアノ弾き…従順でもなければ、強い自己主張をするでもない…私は私の為にピアノを弾くの…風のように自由にピアノを弾くの…ピアノが好きだから…それだけじゃ駄目?」
「いや…それで十分だよ。これまでで一番素敵なきみだ」
またNORIKOに向き直って、僕は言った。
「わかったかい? きみは消え去る訳じゃないんだよ。則子の一部として生き続けるんだ」
「ふん、気にくわないけど…まあ、いいわ。雪路くんが一番素敵だと言うんだもの。仕方ないわね」
NORIKOは、渋々ながら納得したようだ。
「きみもいいかな?」
僕はノリコに尋ねた。
「ええ、その通りにするわ」
「じゃあ、始めよう。きみたちは溶け合ってひとつになる…引き裂かれた心がひとつになる…本当の自分に戻っていく…」
三人の姿は次第に輪郭が曖昧になり、溶け合っていった。三人の姿は重なり合い、眩い光の粒子となり、やがて雪に横たわる則子に吸い込まれていった。
雪に埋もれていた則子が目を開いた。そして、立ち上がると、僕に向き直った。
「ありがとう。雪路くん」と則子は言った。新しい則子がそこにいた。
「まだ聞こえるかい? お母さんの声」
僕は則子に尋ねた。則子はしばらく耳を澄ましていたが、
「いいえ、もう聞こえないわ」
首を横に振った。
NORIKOは、顎をしゃくった。
「雪路くん、後ろを見てごらんなさいよ」
僕は振り返った。
「雪路くん…」
そこには、制服姿のノリコが立っていた。二人の則子…。
「やはり、そうか」
僕は低い声で言った。
「雪路くんって、やっぱり鈍感」
NORIKOが、くすくす笑った。
「今頃になって気づくなんて」
「ああ、自分でもそう思うよ。もっと早くに気づくべきだったって」
ノリコに向き合い、僕は尋ねてみた。確かめてみたいことがあったのだ。
「覚えてる? 学生の頃、放課後の図書室であったこと」
ノリコは首を傾げただけだった。
「無駄よ」
NORIKOが、せせら笑った。
「彼女は知らない」
そのとき、僕は背後に視線を感じた。微かな物音。振り返ると、あの美しい神獣が、蒼い眼で僕を見つめていた。
「やだやだ。嫌な奴が来ちゃったな」
NORIKOは、露骨に嫌な顔をした。
「苦手なのよね。口うるさい女って」
「口うるさい女?」
僕はNORIKOに聞き返した。
「そうよ。見ててごらんなさい」
次の瞬間、僕は目を見張った。神獣の身体が輝き始めたのだ。金色の光を放ちながら、神獣は大きな鳴き声をあげた。僕は愕然として、それを見つめていた。神獣の身体は、みるみるうちに、眩い光の粒子に包まれていった。光の粒子は、激しく点滅を繰り返しながら、形態を変化させ、急速に人の姿をとり始めた。現れたのは、またもう一人の則子だった。
「NORIKO」や「ノリコ」と区別する為に、僕は彼女のことを仮に〈のりこ〉と呼ぶことにする。
「ごめんなさい、雪路くん。あなたを巻き込んでしまって」
申し訳なさそうに〈のりこ〉は言った。
「だけど、こんなふうにバラバラでいるのは、則子の本来あるべき姿ではないわ。あなたの助けを借りたかったの」
則子は統合失調症ではなかった。解離性同一性障害。つまり多重人格だったのだ。ここにいる〈のりこ〉は、則子の主人格そのものではなく、自分はこうあるべきだと考えている理知的な交代人格。たぶんラルフ・アリソンが「内的自己救済者」と呼んだ存在なのであろう。
彼女は全ての記憶を保持している。オカルト的な考えをする人間のなかには「内的自己救済者」を、自分の「守護霊」であると信じている者もいる。そもそも「内的自己救済者」を提唱したラルフ・アリソン自身が「神というのは内的自己救済者のことかもしれない」と述べているのである。
そして、主人格の則子の背後には、更にノリコとNORIKO。二人の交代人格が隠れていた。
たぶん「親に口答えをしない」のがノリコで、「強い自己主張をする」のがNORIKOだ。
主人格の則子は、母親からの矛盾した命令に対応する為、ノリコとNORIKOに、役割を分担させたのである。ダブルバインドが、多重人格を生み出していた。
「きみは内的自己救済者だね。主人格の則子はどこにいる?」
「あなたの後ろを見て」と〈のりこ〉は言った。振り返ると、雪に半分埋もれかけた則子が、静かに横たわって、瞼を閉じていた。
「主人格の則子は、いま深い眠りについている」
〈のりこ〉は言った。
僕は主人格である「則子」に出会ったことがあるのだろうか。僕はふと疑問に思った。僕が会っていたのは、交代人格である「NORIKO」か「ノリコ」で、主人格である「則子」には会ったことがないのではなかろうか。
交代人格に役割を分担させた主人格は、逆に陰が薄くなる、との報告もある。主人格が存在しなくなってしまい場合すらあるらしい。
いや、精神病棟に入院する直前の混乱した則子。あの則子は少なくとも主人格の「則子」であったはずだ。
「きみは気づいていたんだろう? 自分の中に複数の自分がいることを」
僕は〈のりこ〉に尋ねた。ここにいる〈のりこ〉は、主人格の則子ではなく、内的自己救済者の〈のりこ〉だが、主人格の則子の記憶も保持しているはずである。
「ごめんなさい」
〈のりこ〉は目を伏せた。
内的自己救済者である〈のりこ〉や、交代人格である「NORIKO」は、他の人格であったときの記憶も全て保持している。それに対して、もう一つの交代人格である「ノリコ」は「ノリコ」であったときの記憶しかない。では、主人格である「則子」はどうか。「NORIKO」や「ノリコ」であったときの記憶はなくとも、つまり自分が多重人格であることの自覚はなくとも、記憶の分断には気づいていたはずだ。けれども、則子はそれを口にしなかった。
「自分からはどうしても言い出せなかったの。私はあなたに気づいてほしかったの」
「カウンセリングで気づくべきだったよ。迂闊だった」
「本当にごめんなさい」
〈のりこ〉は繰り返した。
「私のせいで、雪路くんをこんな所にまで来させてしまった」
「それはいいんだよ。学生の頃、言ったことがあっただろう? きみの願いだったら何でもきくよって。きみの為なら何でもするつもりさ。きみはどうしたい?」
僕は尋ねた。
「ひとつになりたい」
〈のりこ〉は目をあげた。
「引き裂かれてしまった心を元に戻したい」
「そうだね。僕もそれがいいと思う」
僕は頷いた。
「選択肢は二つある。親に口答えをしない従順なきみ。強い自己主張をするきみ。矛盾する二つのきみのうち、どちらかを選べばいい。そうすれば、人格の分裂は回避される」
主人格である則子が眠りについているいま、決定権は内的自己救済者である〈のりこ〉にあるはずだった。自分はこうありたい、という答えを握っているのは〈のりこ〉なのだ。
「私に消えろって言うの!」
NORIKOが横から口をはさんだ。
「私を殺すつもり! 雪路くんが記憶を取り戻せるようにしてあげたのは、私じゃないの!」
「そうじゃない! そうじゃないよ!」
僕は何度も首を振った。
「僕にとっては、きみたちみんなが則子なんだ!」
「消えるのなんて嫌!」
僕はノリコに向き直った。
「きみはどう?」
「私は〈のりこ〉の決めた通りにするわ」
ノリコはか細い声で言った
「どうやら決まりのようね」
NORIKOはそう断言した。
「残るのは私の方だわ。雪路くん、言ったわよね。あなたは私のものだって」
「ピアノを弾きなさい。ノリコ、いや則子かもしれないが、彼女に母親の声を聞かせていたのは、きみだね」
僕はNORIKOを向き直った。
「そうよ」
NORIKOは悪戯っぽく笑った。
「ノリコは何でも言いなりなんだもの。混乱するのを見るのは面白かった」
「どうする? どちらを選ぶ?」
僕は〈のりこ〉に向き直った。
「私はどちらも選ばないわ」
〈のりこ〉が言った。
「えっ」
「あなたが言ったとおり、NORIKOもノリコも則子なの。私もそう。則子の一部を捨て去ることはしたくないの。私たちは全て溶け合ってひとつになる。それが本当の則子になることでもあるの」
「本当のきみは、どんなきみなの?」
僕は尋ねた。
「風のように自由なピアノ弾き…従順でもなければ、強い自己主張をするでもない…私は私の為にピアノを弾くの…風のように自由にピアノを弾くの…ピアノが好きだから…それだけじゃ駄目?」
「いや…それで十分だよ。これまでで一番素敵なきみだ」
またNORIKOに向き直って、僕は言った。
「わかったかい? きみは消え去る訳じゃないんだよ。則子の一部として生き続けるんだ」
「ふん、気にくわないけど…まあ、いいわ。雪路くんが一番素敵だと言うんだもの。仕方ないわね」
NORIKOは、渋々ながら納得したようだ。
「きみもいいかな?」
僕はノリコに尋ねた。
「ええ、その通りにするわ」
「じゃあ、始めよう。きみたちは溶け合ってひとつになる…引き裂かれた心がひとつになる…本当の自分に戻っていく…」
三人の姿は次第に輪郭が曖昧になり、溶け合っていった。三人の姿は重なり合い、眩い光の粒子となり、やがて雪に横たわる則子に吸い込まれていった。
雪に埋もれていた則子が目を開いた。そして、立ち上がると、僕に向き直った。
「ありがとう。雪路くん」と則子は言った。新しい則子がそこにいた。
「まだ聞こえるかい? お母さんの声」
僕は則子に尋ねた。則子はしばらく耳を澄ましていたが、
「いいえ、もう聞こえないわ」
首を横に振った。
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