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54話

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「夢路に逢いたい」
 夢路の体調が悪くなってから、甲蔵は夢路に会っていなかった。葛葉からそれが夢路からの望みだと言われれば、不満を持ちながらも承諾するしかなかった。
「まだ、夢路は身体が悪いの? 俺には、なんで会ってくれないの?」
 葛葉は困り
「夢路の病はあまり思わしくなくてな、お前はまだ幼いから病が移るといけない」
 と、言って聞かせた。
 が、ある日、甲蔵は葛葉の目を盗んで夢路の居る離れにこっそり入った。どうしても、ひと目でよいから夢路に会いたくて仕方なかったのだ。葛葉に怒られるのは承知の上だった。
 離へは、母屋と繋がる長い長い廊下を歩いて行く。その間には池があり、廊下の下を錦鯉がゆるゆると泳いでいた。
 離に行くには、廊下を渡るしかないのだが、そうすると葛葉に見つかってしまう。その為、甲蔵は池を泳いで渡ることにした。
 泳ぐと言っても、まだ春先で朝と夜は肌寒い。そして、昼間はぽかぽかと暖かい程度である。冷たい池に入るのは、流石に辛い季節でもあった。それでも、どうしても夢路に逢いたい甲蔵は、早朝の日も登りかけた程度の暗闇の中、服を頭の上に乗せると池の中に足を入れた。
 想像以上の突き刺すような冷たさが全身に走り、思わず声を上げそうになったが、それを必死に抑えた。
 池は思っていたより浅かったのが幸いで、入りきっても胸まで届かない程度だった。
 池の底は、ぬるぬるして気持ちが悪い。そして、気を抜けば滑りそうだった。それをゆっくり慎重に歩いて渡りきる頃には、夜が完全に開けようとしていた。
 池から上がったところで、雨戸が動く音がした。
 冷えきった身体は思うように動かず、ただ驚いた拍子に肩が動いたところで、雨戸の向こうの夢路と目が合った。
「あ」
 甲蔵が小さく声を上げた。
「甲ちゃん!」
 怒るより先に驚き、心配になった夢路は庭に飛び降りて甲蔵を抱きしめた。少年の震える身体が夢路に伝わった。
「甲ちゃん、何があったの?」
 意味が分からず、真っ青で震える甲蔵を夢路が抱きしめた。
 甲蔵は、大好きな温もりに包まれ、急に眠気に襲われた。
「夢路……暖かい」
 ぽつりと呟いて、甲蔵は深い眠りに落ちてしまった。

 甲蔵が目を覚ました時、見慣れたようで見慣れない天井があった。
 ふと周りを見渡すと、縁側に夢路がぼんやりと座りながらこっちを見ていた。
 相変わらず、彼の目にはモノクロの景色が映っていた。モノクロの背景の中、灰色の空に白い光を背にして、夢路の影が動いた。
「起きた? 大丈夫?」
 夢路は甲蔵に近付くと、甲蔵の額の手拭いを冷やし直した。
「池の中を渡ってきたの?」
「母上に見つかったら、怒られるから」
「無茶ね」
「だって、どうしても夢路に会いたかったんだもん」
 無性に涙が溢れてきた。やっと会えた嬉しさと……他には何かよく分からない不安にも似た感情が、胸の中にこみ上げてきた。
「母上には、内緒にして」
「そうだね」
「夢路、ずっとここにいたいよ」
「でも夜には戻らないと、母上に見つかるよ」
「それは困る」
 夢路も辛かった。出来れば甲蔵に会いたくなかった。この純粋な心で自分を慕う大好きな少年を、傷付けたくなかったから。汚したくなかったから。けれど、子を失った今の夢路の元に現れた甲蔵を前にして、気持ちはもう止められなかった。
「甲ちゃん、一緒にここで暮らそうか。私と2人だけで、ずっとずっと死ぬまで」
 甲蔵は、うんっと嗚咽の中答えた。

 朝から姿が見えない甲蔵を探しつつ、もしやと夢路の元へ来た葛葉はその情景に驚いた。だが、2人のうちどちらも咎める事は出来なかった。それまでに、2人の絆を強く感じていたから。夫婦でもない、兄弟でもない、何か強い絆を感じた。
 当時の見た目だけで言えば、どちらも異色である。決して受け入れられるはずの無い容姿をもつ2人。甲蔵も化け物だの、祟だのと罵られた白子である。
「母上。私は甲ちゃんと2人で、ここで生きていきます」
 葛葉は、複雑な表情を浮かべた。内心、複雑な感情であったのは間違いがない。というのも、幸せと言うより、2人で不幸に落ちていく。そんな気がしたのだ。
「夢路。それで、2人共幸せになれるのだな?」
 葛葉の問い掛けに、夢路は答えなかった。代わりに
「母上、我が子を間引いてくださいましたか?」
 と問うた。ので
「まだ」
 と葛葉は答えた。
「では、私が自ら間引きます。3日後の晩、あの子をここに連れてきてください」
「大丈夫なのか?」
「もう、大丈夫」
「何故、3日後なのだ?」
 と葛葉が聞くと
「心の準備が欲しいので」
 と夢路は言った。その顔は、恐ろしいほど無表情に思えた。
 妙な胸騒ぎはしたが、葛葉は夢路に従うしかなかった。葛葉には、夢路の子を殺せる程の度胸はなかったし、満足そうな甲蔵の顔を見るとそれを止めることなど出来なかった。
『全てが幸せに……。とは、難しいものだな。晴明殿なら、どうする?』
 決して答えなど返ってこない問いかけをして、葛葉は大きく溜め息をついた。
 夢路の子である鼬の子供は、葛葉の部屋で過ごしていた。
 鼬と変わらぬ容姿でありながら人間から産まれたその子は不思議なことに、日に日に人の姿へと姿を変えていった。
 数週間経った今では、葛葉の部屋の小さな布団の上で、人間の子と変わらない赤子の姿で眠っていた。人間のように泣きわめかず、腹が減れば分かるように訴えて重湯を啜った。
 旬介に続いて、甲蔵と赤子を育てた葛葉である。懐かしい気持ちで、その子を妖鼬の子と知りながらも愛情を注いでいた。
「お前は、本当に大人しく賢いの。もっと、赤子らしく泣いてもよいのだぞ」
 笑いながら呟くと、子はにんまりと笑って答えた。
「お前に名前を付けてやりたいのだが、お前の母がなあ」
 葛葉は困ったように笑いかけた。 そして、切なくなると、この子をぎゅっと抱きしめた。
『私には、この子を間引くことなどできぬ。あの子に、間引かせてよいものか……全ての原因は夢路にも、この子にもないというのに』
 今の葛葉には、どうしようもなかった。心の弱さが招いた過ちだといえ、妖と関係を持ち、子まで産んでしまったその罪を、自らの手で消し去ることが自分への罰だと夢路は考えていた。
 今ここには、本当の悪者など存在しない。
 強いて言うならば、運命が悪いと言えようか。

 3日間。
 葛葉と甲蔵は、2人だけで過ごした。食事も、夢路がこさえた。
 2人にとって、この3日間は何より幸せだった。
 そして、3日目の晩。甲蔵は何も知らされず、夢路に今晩は母屋に戻っているように言われた。翌日から、また共に暮らすという約束があったから、この晩、甲蔵は大人しく従った。
 甲蔵が寝静まったのを確認すると、葛葉は赤子を連れて夢路の前に現れた。赤子の姿を見て、夢路は目を丸くした。
「これは、どういう事なのでしょう、母上?」
 無理もない。最後に見た姿は、鼬だったのだから。
「あれから、日に日に人の姿になっていってな。今ではすっかり、人の子と変わらんよ」
 葛葉に渡され抱いた我が子は温かく、安らかな寝息を立てている。
「うう……」
 夢路は静かに、涙を流した。無理もない。
「これでも、この子を間引くか?」
 葛葉が問うた。
「けれど、この子の父は妖鼬」
「名前を付けてはやらんのか?」
「名など付けては、情が湧きまする」
「やはり、育ててやる事は叶わぬか」
 夢路は泣きながら、うんと返事をした。
「そうか」
 葛葉はそれ以上、何も言えなかった。
 その代わり、昔話を始めた。
「かつて私は、殺される身だった」
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