蒼月館の招待状

天音 翔杜

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第2章 霧の中の足音

第5話 紙片は語らず

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 翔と結衣、それに水沢は、音のした東棟の廊下へと足を向けた。ロビーの重苦しい空気から逃れるようにして、慎重な足取りで絨毯を踏む。

 午後の光はすでに翳り始め、廊下の壁にかかる絵画の輪郭も曖昧になっていた。建物の東端にある、使用されていないとされる“空室”の前で、彼らは立ち止まった。

「……この部屋、昨日の時点では鍵がかかっていたはずよね?」結衣が言う。

 翔は頷き、そっとノブに手をかける。ほんのわずかに抵抗を感じたが、鍵は――かかっていなかった。

 きぃ……と、古びた蝶番の音とともに扉が開く。

 部屋の中は、想像以上に整っていた。

 カーテンは半分だけ閉められ、床には塵ひとつない。ベッドは手つかずのままで、窓際のテーブルにはコップと瓶入りの水が置かれていた。その隣には、小さなメモ用紙。

「……これ、昨日までは絶対に無かったわよ」

 結衣が、ささやくように言った。

 水沢がそっとメモ用紙を覗き込む。そこには、几帳面な文字でこう書かれていた。

『思い出すな、気づくな。ここに残された者の記録は、触れてはならない。』

 紙は時間が経っているのか、わずかに茶色く変色していた。だが、埃はかぶっておらず、最近になって置かれた痕跡を強く残している。

「誰かが、“ここに残されたもの”を、わざわざ見せてる……」翔が呟く。

 その言葉に、結衣が軽く眉を寄せた。

「誘導よ。私たちに、何かを見せるために準備された空間。偶然、じゃない」

 水沢が部屋の隅に歩を進め、ふと壁に手を触れた。

「ここだけ……妙に冷たい。まるで、この部屋だけが時間から切り離されているような……」

 そのとき、背後から気配を感じ、三人は一斉に振り返る。

 扉の前に、森涼太郎が立っていた。彼は落ち着いた表情で、ゆっくりと中に入ってくる。

「この部屋……本来、使われていないはずだった。だが、見たところ……昨日誰かが滞在していた形跡があるな」

「森川さん、でしょうか」水沢が問う。

「それは分からん。だが……」森は言葉を切ったあと、机の引き出しに手をかけた。「もしかすると、“痕跡”はまだ、残っているかもしれん」

 カチ、と乾いた音を立てて引き出しが開く。

 中には、何もなかった――ように見えた。

 だが、底板をそっと持ち上げると、そこには黒い小型のICレコーダーが押し込まれていた。

 翔が慎重に取り上げる。

「これ、再生できるかな……」

 結衣が頷き、部屋の中の静けさを確認してから、スイッチを押す。

 ジジ……というノイズに続いて、かすれた声が再生された。

『……やっぱり、誰かいる。この館には、もう誰もいないはずなのに……夜になると、扉の外に“気配”が……』

 音声はそこで途切れた。

 沈黙が、再び部屋に降りた。

 誰もが、言葉を失っていた。

 そのとき、外の廊下から足音が聞こえた。ヒールの硬い音。軽やかだが、ためらいを含んだリズムだった。

 ふと扉がノックされ、続いて現れたのは――中川響子だった。

「……皆さん、お揃いでしたか」

 彼女は視線を下に落としながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「その部屋は、管理上“空室”とされておりますが……実のところ、数日前まで、ある方が仮滞在されていたと聞いています。ですが、詳しい情報は、私も共有されておらず……」

 結衣が問い返す。「“ある方”って、森川亮太さんですか?」

 中川は、ほんの一瞬だけ返答を迷った。

 そのわずかな間が、答え以上の真実を物語っていた。

 彼女は、黙って一礼し、廊下へと戻っていった。

「……何かを、私たちに見せている」

 翔が静かに言った。

「でも、“全部”は見せていない。わざと、欠けた状態で」

 誰かが、何かを操作している。

 そうとしか思えなかった。

 廊下に戻った彼らの背中に、部屋の扉がゆっくりと閉じる。

 重たい音だった。

 そしてその音は――まるで、この部屋に“過去”が封じ込められていくようでもあった。
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