11 / 45
第2章 霧の中の足音
第5話 紙片は語らず
しおりを挟む
翔と結衣、それに水沢は、音のした東棟の廊下へと足を向けた。ロビーの重苦しい空気から逃れるようにして、慎重な足取りで絨毯を踏む。
午後の光はすでに翳り始め、廊下の壁にかかる絵画の輪郭も曖昧になっていた。建物の東端にある、使用されていないとされる“空室”の前で、彼らは立ち止まった。
「……この部屋、昨日の時点では鍵がかかっていたはずよね?」結衣が言う。
翔は頷き、そっとノブに手をかける。ほんのわずかに抵抗を感じたが、鍵は――かかっていなかった。
きぃ……と、古びた蝶番の音とともに扉が開く。
部屋の中は、想像以上に整っていた。
カーテンは半分だけ閉められ、床には塵ひとつない。ベッドは手つかずのままで、窓際のテーブルにはコップと瓶入りの水が置かれていた。その隣には、小さなメモ用紙。
「……これ、昨日までは絶対に無かったわよ」
結衣が、ささやくように言った。
水沢がそっとメモ用紙を覗き込む。そこには、几帳面な文字でこう書かれていた。
『思い出すな、気づくな。ここに残された者の記録は、触れてはならない。』
紙は時間が経っているのか、わずかに茶色く変色していた。だが、埃はかぶっておらず、最近になって置かれた痕跡を強く残している。
「誰かが、“ここに残されたもの”を、わざわざ見せてる……」翔が呟く。
その言葉に、結衣が軽く眉を寄せた。
「誘導よ。私たちに、何かを見せるために準備された空間。偶然、じゃない」
水沢が部屋の隅に歩を進め、ふと壁に手を触れた。
「ここだけ……妙に冷たい。まるで、この部屋だけが時間から切り離されているような……」
そのとき、背後から気配を感じ、三人は一斉に振り返る。
扉の前に、森涼太郎が立っていた。彼は落ち着いた表情で、ゆっくりと中に入ってくる。
「この部屋……本来、使われていないはずだった。だが、見たところ……昨日誰かが滞在していた形跡があるな」
「森川さん、でしょうか」水沢が問う。
「それは分からん。だが……」森は言葉を切ったあと、机の引き出しに手をかけた。「もしかすると、“痕跡”はまだ、残っているかもしれん」
カチ、と乾いた音を立てて引き出しが開く。
中には、何もなかった――ように見えた。
だが、底板をそっと持ち上げると、そこには黒い小型のICレコーダーが押し込まれていた。
翔が慎重に取り上げる。
「これ、再生できるかな……」
結衣が頷き、部屋の中の静けさを確認してから、スイッチを押す。
ジジ……というノイズに続いて、かすれた声が再生された。
『……やっぱり、誰かいる。この館には、もう誰もいないはずなのに……夜になると、扉の外に“気配”が……』
音声はそこで途切れた。
沈黙が、再び部屋に降りた。
誰もが、言葉を失っていた。
そのとき、外の廊下から足音が聞こえた。ヒールの硬い音。軽やかだが、ためらいを含んだリズムだった。
ふと扉がノックされ、続いて現れたのは――中川響子だった。
「……皆さん、お揃いでしたか」
彼女は視線を下に落としながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「その部屋は、管理上“空室”とされておりますが……実のところ、数日前まで、ある方が仮滞在されていたと聞いています。ですが、詳しい情報は、私も共有されておらず……」
結衣が問い返す。「“ある方”って、森川亮太さんですか?」
中川は、ほんの一瞬だけ返答を迷った。
そのわずかな間が、答え以上の真実を物語っていた。
彼女は、黙って一礼し、廊下へと戻っていった。
「……何かを、私たちに見せている」
翔が静かに言った。
「でも、“全部”は見せていない。わざと、欠けた状態で」
誰かが、何かを操作している。
そうとしか思えなかった。
廊下に戻った彼らの背中に、部屋の扉がゆっくりと閉じる。
重たい音だった。
そしてその音は――まるで、この部屋に“過去”が封じ込められていくようでもあった。
午後の光はすでに翳り始め、廊下の壁にかかる絵画の輪郭も曖昧になっていた。建物の東端にある、使用されていないとされる“空室”の前で、彼らは立ち止まった。
「……この部屋、昨日の時点では鍵がかかっていたはずよね?」結衣が言う。
翔は頷き、そっとノブに手をかける。ほんのわずかに抵抗を感じたが、鍵は――かかっていなかった。
きぃ……と、古びた蝶番の音とともに扉が開く。
部屋の中は、想像以上に整っていた。
カーテンは半分だけ閉められ、床には塵ひとつない。ベッドは手つかずのままで、窓際のテーブルにはコップと瓶入りの水が置かれていた。その隣には、小さなメモ用紙。
「……これ、昨日までは絶対に無かったわよ」
結衣が、ささやくように言った。
水沢がそっとメモ用紙を覗き込む。そこには、几帳面な文字でこう書かれていた。
『思い出すな、気づくな。ここに残された者の記録は、触れてはならない。』
紙は時間が経っているのか、わずかに茶色く変色していた。だが、埃はかぶっておらず、最近になって置かれた痕跡を強く残している。
「誰かが、“ここに残されたもの”を、わざわざ見せてる……」翔が呟く。
その言葉に、結衣が軽く眉を寄せた。
「誘導よ。私たちに、何かを見せるために準備された空間。偶然、じゃない」
水沢が部屋の隅に歩を進め、ふと壁に手を触れた。
「ここだけ……妙に冷たい。まるで、この部屋だけが時間から切り離されているような……」
そのとき、背後から気配を感じ、三人は一斉に振り返る。
扉の前に、森涼太郎が立っていた。彼は落ち着いた表情で、ゆっくりと中に入ってくる。
「この部屋……本来、使われていないはずだった。だが、見たところ……昨日誰かが滞在していた形跡があるな」
「森川さん、でしょうか」水沢が問う。
「それは分からん。だが……」森は言葉を切ったあと、机の引き出しに手をかけた。「もしかすると、“痕跡”はまだ、残っているかもしれん」
カチ、と乾いた音を立てて引き出しが開く。
中には、何もなかった――ように見えた。
だが、底板をそっと持ち上げると、そこには黒い小型のICレコーダーが押し込まれていた。
翔が慎重に取り上げる。
「これ、再生できるかな……」
結衣が頷き、部屋の中の静けさを確認してから、スイッチを押す。
ジジ……というノイズに続いて、かすれた声が再生された。
『……やっぱり、誰かいる。この館には、もう誰もいないはずなのに……夜になると、扉の外に“気配”が……』
音声はそこで途切れた。
沈黙が、再び部屋に降りた。
誰もが、言葉を失っていた。
そのとき、外の廊下から足音が聞こえた。ヒールの硬い音。軽やかだが、ためらいを含んだリズムだった。
ふと扉がノックされ、続いて現れたのは――中川響子だった。
「……皆さん、お揃いでしたか」
彼女は視線を下に落としながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「その部屋は、管理上“空室”とされておりますが……実のところ、数日前まで、ある方が仮滞在されていたと聞いています。ですが、詳しい情報は、私も共有されておらず……」
結衣が問い返す。「“ある方”って、森川亮太さんですか?」
中川は、ほんの一瞬だけ返答を迷った。
そのわずかな間が、答え以上の真実を物語っていた。
彼女は、黙って一礼し、廊下へと戻っていった。
「……何かを、私たちに見せている」
翔が静かに言った。
「でも、“全部”は見せていない。わざと、欠けた状態で」
誰かが、何かを操作している。
そうとしか思えなかった。
廊下に戻った彼らの背中に、部屋の扉がゆっくりと閉じる。
重たい音だった。
そしてその音は――まるで、この部屋に“過去”が封じ込められていくようでもあった。
0
あなたにおすすめの小説
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛する夫が目の前で別の女性と恋に落ちました。
ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のアンジェは公爵家の嫡男であるアランに嫁いだ。
子はなかなかできなかったが、それでも仲の良い夫婦だった。
――彼女が現れるまでは。
二人が結婚して五年を迎えた記念パーティーでアランは若く美しい令嬢と恋に落ちてしまう。
それからアランは変わり、何かと彼女のことを優先するようになり……
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
私の優しいお父さん
有箱
ミステリー
昔、何かがあって、目の見えなくなった私。そんな私を、お父さんは守ってくれる。
少し過保護だと思うこともあるけれど、全部、私の為なんだって。
昔、私に何があったんだろう。
お母さんは、どうしちゃったんだろう。
お父さんは教えてくれない。でも、それも私の為だって言う。
いつか、思い出す日が来るのかな。
思い出したら、私はどうなっちゃうのかな。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる