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第2章 霧の中の足音
第12話 記録が触れた場所
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床板の下にある取っ手を、翔はゆっくりと握った。
冷たい金属の感触。そこに触れた瞬間、胸の奥に何かが沈むような、鈍い緊張が走った。
「……開けるよ」
囁くように言って、彼は力を込める。床板がミシ、とわずかに軋みを上げて浮き上がり、その下に、小さな空間が姿を現した。
中は木箱のようになっていた。防湿処理が施されているのか、空気は意外なほど澄んでいる。その中央に、一冊の黒い手帳と、古びたICレコーダーが並べて置かれていた。
「これが……“記録”?」
翔が手帳を手に取ると、革表紙はしっかりとした質感を保っていたが、留め具は時間の経過でほんのわずかに錆びていた。
結衣と水沢が息を詰めて見守る中、彼は慎重に留め具を外し、表紙を開いた。
一ページ目の冒頭に、達筆な筆跡でこう記されていた。
『これは、私が最後に残すべき“言葉”である。誰に向けてかは、記さない。だが、私がこの館で見たこと、知ったことは、誰かの中で繰り返されるだろう。』
そして――
『この記録を読む者がいるなら、どうか“名前”を探すな。それが、すべての始まりになる』
それを読んだ瞬間、結衣が小さく息を呑んだ。
「……名前を、探すな……?」
翔は手帳をめくる手を止めた。その文字は、まるで“封じ”のようにも見えた。
「名前……?」
森が、後ろからゆっくりと歩み寄ってきた。
「つまり、誰かの実名。あるいは、それに類する“象徴”。それが引き金になる、と……」
「言霊的な考え?」と水沢が呟いた。
「あるいは、“記憶と存在が繋がる鍵”なんじゃないか」と翔が答える。
中川は、部屋の隅で静かに聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「……その言葉。私も一度だけ、先生から直接聞かされたことがあります」
全員の視線が中川に集まった。
「“名前を記すな。呼べば戻る。忘れなければ還る”――先生は、そう言って、何かを封じるようにこの手帳を閉じていた」
翔が尋ねた。
「先生は、いったい何を恐れていたんですか?」
中川は少しだけ口元を引き結び、そしてそっと言葉を選ぶように答えた。
「“存在の再演”……だと思います。記録は記憶と違って、他者に再現される。その時、過去が過去でなくなることを、先生は恐れていた」
室内は、誰も息を吐かぬまま、沈黙に支配された。
翔は、再びページをめくった。二枚目、三枚目。そこには、館に集まる前の人物たちの情報が断片的に記されていた。
“編集者・水沢葵、某社を退社し、再編集の依頼を受けた際に館の設計資料に関与”
“俳優・相川達也、その父親が関与していたとされる劇団が、かつてこの館で舞台を準備していた可能性”
“元教授・森涼太郎、刑事法学の分野にて、過去に館と関わりのある“事件記録”を追跡”
「……これ、全員の“縁”が、偶然じゃないことを示してる」
結衣が呟くように言った。
「じゃあ……この館に、呼ばれたってこと?」水沢が続けた。
「呼ばれたのか、あるいは――仕組まれていたのか」
翔がレコーダーに手を伸ばす。そっと再生ボタンを押すと、かすかなノイズの後、男の低い声が流れた。
『この記録は、私自身が正気を保っているうちに残すものだ。もし、これを聞いている者がいるのなら……どうか、“扉”のことは探るな。それは、二度目の崩壊に繋がる』
そこで録音は唐突に終わっていた。
「……扉?」
森が眉をひそめる。
「この館のどこかに、“もうひとつの空間”があるのか……」
「“崩壊”って、まさか以前にも何かあったってこと……?」
水沢の言葉に、翔はわずかに首を振る。
「まだわからない。でも、すべてが“演出”じゃないのは確かだ」
そのとき、通路の向こうから、足音が近づいてきた。
だが、誰の足音なのかは、わからなかった。
それが、今ここにいる誰か――なのか。
それとも、もう“いないはずの誰か”――なのか。
部屋の空気が、またひとつ、変わった。
冷たい金属の感触。そこに触れた瞬間、胸の奥に何かが沈むような、鈍い緊張が走った。
「……開けるよ」
囁くように言って、彼は力を込める。床板がミシ、とわずかに軋みを上げて浮き上がり、その下に、小さな空間が姿を現した。
中は木箱のようになっていた。防湿処理が施されているのか、空気は意外なほど澄んでいる。その中央に、一冊の黒い手帳と、古びたICレコーダーが並べて置かれていた。
「これが……“記録”?」
翔が手帳を手に取ると、革表紙はしっかりとした質感を保っていたが、留め具は時間の経過でほんのわずかに錆びていた。
結衣と水沢が息を詰めて見守る中、彼は慎重に留め具を外し、表紙を開いた。
一ページ目の冒頭に、達筆な筆跡でこう記されていた。
『これは、私が最後に残すべき“言葉”である。誰に向けてかは、記さない。だが、私がこの館で見たこと、知ったことは、誰かの中で繰り返されるだろう。』
そして――
『この記録を読む者がいるなら、どうか“名前”を探すな。それが、すべての始まりになる』
それを読んだ瞬間、結衣が小さく息を呑んだ。
「……名前を、探すな……?」
翔は手帳をめくる手を止めた。その文字は、まるで“封じ”のようにも見えた。
「名前……?」
森が、後ろからゆっくりと歩み寄ってきた。
「つまり、誰かの実名。あるいは、それに類する“象徴”。それが引き金になる、と……」
「言霊的な考え?」と水沢が呟いた。
「あるいは、“記憶と存在が繋がる鍵”なんじゃないか」と翔が答える。
中川は、部屋の隅で静かに聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「……その言葉。私も一度だけ、先生から直接聞かされたことがあります」
全員の視線が中川に集まった。
「“名前を記すな。呼べば戻る。忘れなければ還る”――先生は、そう言って、何かを封じるようにこの手帳を閉じていた」
翔が尋ねた。
「先生は、いったい何を恐れていたんですか?」
中川は少しだけ口元を引き結び、そしてそっと言葉を選ぶように答えた。
「“存在の再演”……だと思います。記録は記憶と違って、他者に再現される。その時、過去が過去でなくなることを、先生は恐れていた」
室内は、誰も息を吐かぬまま、沈黙に支配された。
翔は、再びページをめくった。二枚目、三枚目。そこには、館に集まる前の人物たちの情報が断片的に記されていた。
“編集者・水沢葵、某社を退社し、再編集の依頼を受けた際に館の設計資料に関与”
“俳優・相川達也、その父親が関与していたとされる劇団が、かつてこの館で舞台を準備していた可能性”
“元教授・森涼太郎、刑事法学の分野にて、過去に館と関わりのある“事件記録”を追跡”
「……これ、全員の“縁”が、偶然じゃないことを示してる」
結衣が呟くように言った。
「じゃあ……この館に、呼ばれたってこと?」水沢が続けた。
「呼ばれたのか、あるいは――仕組まれていたのか」
翔がレコーダーに手を伸ばす。そっと再生ボタンを押すと、かすかなノイズの後、男の低い声が流れた。
『この記録は、私自身が正気を保っているうちに残すものだ。もし、これを聞いている者がいるのなら……どうか、“扉”のことは探るな。それは、二度目の崩壊に繋がる』
そこで録音は唐突に終わっていた。
「……扉?」
森が眉をひそめる。
「この館のどこかに、“もうひとつの空間”があるのか……」
「“崩壊”って、まさか以前にも何かあったってこと……?」
水沢の言葉に、翔はわずかに首を振る。
「まだわからない。でも、すべてが“演出”じゃないのは確かだ」
そのとき、通路の向こうから、足音が近づいてきた。
だが、誰の足音なのかは、わからなかった。
それが、今ここにいる誰か――なのか。
それとも、もう“いないはずの誰か”――なのか。
部屋の空気が、またひとつ、変わった。
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