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第2章 霧の中の足音
第15話 隙間に沈むもの
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黒く開いた隙間を前に、翔の喉がごくりと鳴った。
照明の届かないその空間は、ただの影とは思えなかった。そこには、何かが“在る”という確かな予感があったのだ。
「……見に行くつもり?」
結衣の声は落ち着いていたが、微かに揺れていた。翔は頷いた。
「俺たちが、ここに呼ばれた理由……その答えが、あの奥にある気がする」
静かに、歩を進める。
隙間は、書棚の裏に隠された、もう一つの扉だった。板張りの壁が歪み、わずかに浮いている。その奥に、幅の狭い空間が続いているように見えた。
翔が手を伸ばすと、かすかに軋む音とともに板が動いた。
風が吹き抜けたわけではないのに、冷たい空気が頬を撫でた。
その瞬間、何かが確かに抜けていったような感覚があった。音も匂いもない。ただ、存在の痕跡だけを置き去りにして、何かがすれ違っていった気がした。
狭い通路の奥には、小さな階段があった。足元を照らす光は乏しく、壁には配線のむき出しになった古い照明がいくつか残されているだけだった。
ゆっくりと、足を踏み入れる。
結衣が後に続き、水沢、相川、森、中川も続いた。全員が無言だった。足音が木材を踏むたびに、微かに軋む音が響く。
階段を降りきった先には、狭い地下室のような空間が広がっていた。
鉄の棚、木箱、カビ臭い布。過去の記録が放置されたような空気が漂っていた。
そして部屋の一角、薄いカーテンのようなものがかけられた台の上に、一冊のノートと録音媒体が置かれていた。
翔がノートを開くと、そこには日付とともに手書きの記録が並んでいた。
『〇月〇日――来館者が五名。表面上の自己紹介を終える。記録には残らないが、一人が……気づいている』
『〇月〇日――音。カチリ。記録の上に重なった何か。見落とすな。残したいのは、在ったことそのものではなく、感じたこと』
記録は続いていた。
『〇月〇日――森川、失われる。痕跡に触れた。記録の中から名前が薄れていく感覚。だが私はまだ、彼を“覚えている”』
その文面に、誰もが言葉を失った。
「……誰が、これを?」
水沢の問いに、中川が静かに答える。
「これは……先生が、最後まで残していた個人記録です。公式な記録ではなく、誰にも見せず、鍵のかかる引き出しに入れてあったものです」
翔は、ノートの一番最後のページに目を落とした。
『記録が残らなければ、出来事は消える。だが、思い出す者がいれば、それは“在り続ける”。記録が消えても、記憶は、残る』
そこに書かれていたのは、それだけだった。
短く、静かで、しかし何より強い言葉だった。
「俺たちは……この館に残された、“思い出す者”なのかもしれない」
翔の言葉に、誰も異論を唱えなかった。
それぞれの胸の奥に、微かな熱が生まれていた。
それは恐れでも希望でもなく、ただひとつの問いだった。
(俺たちは、ここに何をしに来たのか?)
まだ、その答えは見えていない。
だが確かに、何かが始まっていた。
その始まりは――記録ではなく、誰かの心に、静かに宿り始めていた。
照明の届かないその空間は、ただの影とは思えなかった。そこには、何かが“在る”という確かな予感があったのだ。
「……見に行くつもり?」
結衣の声は落ち着いていたが、微かに揺れていた。翔は頷いた。
「俺たちが、ここに呼ばれた理由……その答えが、あの奥にある気がする」
静かに、歩を進める。
隙間は、書棚の裏に隠された、もう一つの扉だった。板張りの壁が歪み、わずかに浮いている。その奥に、幅の狭い空間が続いているように見えた。
翔が手を伸ばすと、かすかに軋む音とともに板が動いた。
風が吹き抜けたわけではないのに、冷たい空気が頬を撫でた。
その瞬間、何かが確かに抜けていったような感覚があった。音も匂いもない。ただ、存在の痕跡だけを置き去りにして、何かがすれ違っていった気がした。
狭い通路の奥には、小さな階段があった。足元を照らす光は乏しく、壁には配線のむき出しになった古い照明がいくつか残されているだけだった。
ゆっくりと、足を踏み入れる。
結衣が後に続き、水沢、相川、森、中川も続いた。全員が無言だった。足音が木材を踏むたびに、微かに軋む音が響く。
階段を降りきった先には、狭い地下室のような空間が広がっていた。
鉄の棚、木箱、カビ臭い布。過去の記録が放置されたような空気が漂っていた。
そして部屋の一角、薄いカーテンのようなものがかけられた台の上に、一冊のノートと録音媒体が置かれていた。
翔がノートを開くと、そこには日付とともに手書きの記録が並んでいた。
『〇月〇日――来館者が五名。表面上の自己紹介を終える。記録には残らないが、一人が……気づいている』
『〇月〇日――音。カチリ。記録の上に重なった何か。見落とすな。残したいのは、在ったことそのものではなく、感じたこと』
記録は続いていた。
『〇月〇日――森川、失われる。痕跡に触れた。記録の中から名前が薄れていく感覚。だが私はまだ、彼を“覚えている”』
その文面に、誰もが言葉を失った。
「……誰が、これを?」
水沢の問いに、中川が静かに答える。
「これは……先生が、最後まで残していた個人記録です。公式な記録ではなく、誰にも見せず、鍵のかかる引き出しに入れてあったものです」
翔は、ノートの一番最後のページに目を落とした。
『記録が残らなければ、出来事は消える。だが、思い出す者がいれば、それは“在り続ける”。記録が消えても、記憶は、残る』
そこに書かれていたのは、それだけだった。
短く、静かで、しかし何より強い言葉だった。
「俺たちは……この館に残された、“思い出す者”なのかもしれない」
翔の言葉に、誰も異論を唱えなかった。
それぞれの胸の奥に、微かな熱が生まれていた。
それは恐れでも希望でもなく、ただひとつの問いだった。
(俺たちは、ここに何をしに来たのか?)
まだ、その答えは見えていない。
だが確かに、何かが始まっていた。
その始まりは――記録ではなく、誰かの心に、静かに宿り始めていた。
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