29 / 45
第3章 閉ざされた回廊
第8話 記録されない来訪者
しおりを挟む
西棟の廊下は、さきほどよりも暗く、静かだった。
翔と結衣は、言葉少なに歩を進める。
壁のランプは明滅し、その下をくぐるたび、影が長く伸びては歪んだ。
部屋の前まで来て、翔は一度深呼吸をした。
扉は閉じている。鍵がかかっているようには見えないが、なぜか“開けてはいけない”という直感が胸を塞いでいた。
「……もし中に誰かいたら」
「そっと、話しかけよう。……それでも返事がなかったら、そのまま閉める」
結衣の声は、震えてはいなかった。
けれど翔は、彼女の右手が冷たく湿っているのを感じていた。
ゆっくりと、扉に手をかける。
押すと、わずかな音を立てて開いた。音は、今度はあった。——だが、その直後、世界の音が止んだように感じた。
部屋の中は、誰もいなかった。
少なくとも、目で見える範囲には。
照明は点いていない。カーテンも閉ざされていた。
だが、窓の隙間から入り込む月の光が、机の上に何かを浮かび上がらせていた。
「……ノート?」
翔が近づき、それを手に取る。
表紙は無地で、何のタイトルもない。中を開くと、ところどころに細い文字が走っていた。
『今夜も声が聞こえた。誰もいない廊下から、同じ靴音。それは、私が歩いているはずの音と——重なっていた』
『何が本当だったのか、わからなくなってくる。最初に館に入ったとき、私は“誰に案内された”のだろう?』
『名前が、呼べない。記録できない。何度書いても、翌朝には消えている。それでも、私は——その“声”を忘れたくない』
ページの最後にだけ、筆跡の違う文字が残されていた。
『記録されない来訪者がいる。扉を開けた時、誰もいなかったとき。それでも確かに、そこに“いた”という記憶だけが、残っている』
翔が顔を上げたとき、部屋の隅に結衣の姿はなかった。
慌てて振り返ると、彼女は部屋の入口に立ち尽くし、こちらを見つめていた。
「翔……今、私……。誰かとすれ違った、気がするの」
その言葉と同時に、廊下の奥から、かすかな足音が一つ、遠ざかっていった。
誰もいないはずの廊下で。
足音は、こちらを振り返ることもなく、やがて——消えた。
翔と結衣は、言葉少なに歩を進める。
壁のランプは明滅し、その下をくぐるたび、影が長く伸びては歪んだ。
部屋の前まで来て、翔は一度深呼吸をした。
扉は閉じている。鍵がかかっているようには見えないが、なぜか“開けてはいけない”という直感が胸を塞いでいた。
「……もし中に誰かいたら」
「そっと、話しかけよう。……それでも返事がなかったら、そのまま閉める」
結衣の声は、震えてはいなかった。
けれど翔は、彼女の右手が冷たく湿っているのを感じていた。
ゆっくりと、扉に手をかける。
押すと、わずかな音を立てて開いた。音は、今度はあった。——だが、その直後、世界の音が止んだように感じた。
部屋の中は、誰もいなかった。
少なくとも、目で見える範囲には。
照明は点いていない。カーテンも閉ざされていた。
だが、窓の隙間から入り込む月の光が、机の上に何かを浮かび上がらせていた。
「……ノート?」
翔が近づき、それを手に取る。
表紙は無地で、何のタイトルもない。中を開くと、ところどころに細い文字が走っていた。
『今夜も声が聞こえた。誰もいない廊下から、同じ靴音。それは、私が歩いているはずの音と——重なっていた』
『何が本当だったのか、わからなくなってくる。最初に館に入ったとき、私は“誰に案内された”のだろう?』
『名前が、呼べない。記録できない。何度書いても、翌朝には消えている。それでも、私は——その“声”を忘れたくない』
ページの最後にだけ、筆跡の違う文字が残されていた。
『記録されない来訪者がいる。扉を開けた時、誰もいなかったとき。それでも確かに、そこに“いた”という記憶だけが、残っている』
翔が顔を上げたとき、部屋の隅に結衣の姿はなかった。
慌てて振り返ると、彼女は部屋の入口に立ち尽くし、こちらを見つめていた。
「翔……今、私……。誰かとすれ違った、気がするの」
その言葉と同時に、廊下の奥から、かすかな足音が一つ、遠ざかっていった。
誰もいないはずの廊下で。
足音は、こちらを振り返ることもなく、やがて——消えた。
0
あなたにおすすめの小説
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛する夫が目の前で別の女性と恋に落ちました。
ましゅぺちーの
恋愛
伯爵令嬢のアンジェは公爵家の嫡男であるアランに嫁いだ。
子はなかなかできなかったが、それでも仲の良い夫婦だった。
――彼女が現れるまでは。
二人が結婚して五年を迎えた記念パーティーでアランは若く美しい令嬢と恋に落ちてしまう。
それからアランは変わり、何かと彼女のことを優先するようになり……
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
私の優しいお父さん
有箱
ミステリー
昔、何かがあって、目の見えなくなった私。そんな私を、お父さんは守ってくれる。
少し過保護だと思うこともあるけれど、全部、私の為なんだって。
昔、私に何があったんだろう。
お母さんは、どうしちゃったんだろう。
お父さんは教えてくれない。でも、それも私の為だって言う。
いつか、思い出す日が来るのかな。
思い出したら、私はどうなっちゃうのかな。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる