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第4章 記憶の裏手にひそむ影
第1話 同じ足音を、二度聴いた
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翌朝、館は奇妙なほど整っていた。
廊下の絨毯に乱れはなく、ロビーの椅子はきちんと並んでおり、窓のカーテンも規則的に開かれていた。
まるで、誰かが夜のうちに、すべてを“整え直した”かのように。
翔は、食堂の隅に座りながら、ぼんやりと空になったカップを眺めていた。
眠れなかったわけではない。ただ、目を閉じていた間に“本当に眠っていたのか”がわからなかった。
誰かが歩く足音が聴こえた。
それが夢の中だったのか、現実だったのか——判断がつかない。
向かいの席では、結衣がスープをゆっくりとかき回していた。
誰も会話をしようとはしない。会話を始めれば、何かを壊してしまいそうな沈黙が場を支配していた。
そこへ、森涼太郎と里美夫妻が入ってくる。
二人とも笑顔はないが、よそ行きの顔をしていた。余計なことには触れない、という無言の構え。
そのあとから、水沢葵もやってきた。髪が濡れている。シャワーを浴びたのだろう。だが、その足取りはどこか不自然だった。まるで足音を立てまいとしているかのように、忍び足で椅子に近づく。
「……変なこと、言ってもいい?」
水沢がぽつりと呟いた。
「今朝、部屋を出たとき……ううん。もっと前。まだ暗い頃。誰かが廊下を歩いてたの。ちょっと小走りみたいな足音だった」
結衣が顔を上げる。翔も反射的に背筋を伸ばした。
「最初は気のせいかと思ったの。でも、そのあと——」
彼女はそこで言葉を切り、しばらく黙った。
「……その音、もう一度聴いたの。まったく同じリズムで、まったく同じ音量で。間隔をあけて、二回……」
「録音みたいに?」翔が問う。
水沢は頷きかけて、少しだけ首を横に振った。
「違うの。録音だったら、もう少し違和感があるはず。でも、それは……“二回目も誰かが歩いた”みたいだったの。完璧に同じ足音で」
そのとき、ロビー側の扉が音もなく開いた。
入ってきたのは相川達也だった。無言で席に着き、皆の視線にもまったく気づいていないようだった。
翔は、思い出していた。
昨夜、ロビーの柱の陰にいた彼の姿。そして、話している最中、ふと気づけば、いつの間にか消えていたこと。
——あれは、夢ではなかった。
だが、誰もその“出入りの音”を聴いていなかったはずだ。
水沢が視線を落とす。
「誰かが、もう一人いる気がして……怖くて、部屋に鍵かけた。でも、朝起きたとき、扉が——」
「開いてたの?」
「ううん。閉まってた。……でも、かけたはずの鍵だけが、外れてた」
静寂が、食堂を覆う。
誰も、軽い冗談で済ませようとはしなかった。
言葉にしてしまえば、“そこに何かがいる”という可能性を本当に認めてしまう気がした。
そのとき、誰かのスマホが机の上で震えた。
バイブレーションの音が、やけに大きく響く。
画面を見たのは森涼太郎だった。だが、顔をしかめ、口を閉ざす。
「着信?」
「いや、通知だけ。……でも」
「でも?」
「変だな。これ……」
彼は画面を結衣に見せた。
「“西棟の見取り図が更新されました”って……通知、来てる」
結衣が目を細めて読み取る。確かに、地図アプリのような画面に、小さな赤い点が浮かんでいた。
だが、それは、誰も見たことのない——廊下の“裏側”に現れていた。
「こんな場所、あったっけ……?」
誰も、答えられなかった。
廊下の絨毯に乱れはなく、ロビーの椅子はきちんと並んでおり、窓のカーテンも規則的に開かれていた。
まるで、誰かが夜のうちに、すべてを“整え直した”かのように。
翔は、食堂の隅に座りながら、ぼんやりと空になったカップを眺めていた。
眠れなかったわけではない。ただ、目を閉じていた間に“本当に眠っていたのか”がわからなかった。
誰かが歩く足音が聴こえた。
それが夢の中だったのか、現実だったのか——判断がつかない。
向かいの席では、結衣がスープをゆっくりとかき回していた。
誰も会話をしようとはしない。会話を始めれば、何かを壊してしまいそうな沈黙が場を支配していた。
そこへ、森涼太郎と里美夫妻が入ってくる。
二人とも笑顔はないが、よそ行きの顔をしていた。余計なことには触れない、という無言の構え。
そのあとから、水沢葵もやってきた。髪が濡れている。シャワーを浴びたのだろう。だが、その足取りはどこか不自然だった。まるで足音を立てまいとしているかのように、忍び足で椅子に近づく。
「……変なこと、言ってもいい?」
水沢がぽつりと呟いた。
「今朝、部屋を出たとき……ううん。もっと前。まだ暗い頃。誰かが廊下を歩いてたの。ちょっと小走りみたいな足音だった」
結衣が顔を上げる。翔も反射的に背筋を伸ばした。
「最初は気のせいかと思ったの。でも、そのあと——」
彼女はそこで言葉を切り、しばらく黙った。
「……その音、もう一度聴いたの。まったく同じリズムで、まったく同じ音量で。間隔をあけて、二回……」
「録音みたいに?」翔が問う。
水沢は頷きかけて、少しだけ首を横に振った。
「違うの。録音だったら、もう少し違和感があるはず。でも、それは……“二回目も誰かが歩いた”みたいだったの。完璧に同じ足音で」
そのとき、ロビー側の扉が音もなく開いた。
入ってきたのは相川達也だった。無言で席に着き、皆の視線にもまったく気づいていないようだった。
翔は、思い出していた。
昨夜、ロビーの柱の陰にいた彼の姿。そして、話している最中、ふと気づけば、いつの間にか消えていたこと。
——あれは、夢ではなかった。
だが、誰もその“出入りの音”を聴いていなかったはずだ。
水沢が視線を落とす。
「誰かが、もう一人いる気がして……怖くて、部屋に鍵かけた。でも、朝起きたとき、扉が——」
「開いてたの?」
「ううん。閉まってた。……でも、かけたはずの鍵だけが、外れてた」
静寂が、食堂を覆う。
誰も、軽い冗談で済ませようとはしなかった。
言葉にしてしまえば、“そこに何かがいる”という可能性を本当に認めてしまう気がした。
そのとき、誰かのスマホが机の上で震えた。
バイブレーションの音が、やけに大きく響く。
画面を見たのは森涼太郎だった。だが、顔をしかめ、口を閉ざす。
「着信?」
「いや、通知だけ。……でも」
「でも?」
「変だな。これ……」
彼は画面を結衣に見せた。
「“西棟の見取り図が更新されました”って……通知、来てる」
結衣が目を細めて読み取る。確かに、地図アプリのような画面に、小さな赤い点が浮かんでいた。
だが、それは、誰も見たことのない——廊下の“裏側”に現れていた。
「こんな場所、あったっけ……?」
誰も、答えられなかった。
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