入野の休日

ともの

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草津温泉

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久しぶりに会う友達との温泉旅行、やっぱりちょっとドキドキするものだね。
高校時代の友達、千夏と紗奈とは、毎日のように顔を合わせていたけど、就職してからは、あっという間に一年が経つか、あっという間にまた会うって感じで。
今回は一泊二日の温泉旅行ってことで、久々にゆっくり話せるかなって楽しみにしてる。
 さぁ、準備しよう。
まずは鏡の前に立って、髪をサッと整える。
長い髪がちょっと邪魔だけど、今日は女性らしく見せたいから、少し丁寧に整えよう。
頭を左右に振って、髪の毛がサラサラっと流れる感じがいいなぁって思いながら、鏡で確認。 「うーん、こんな感じでどうかな?」 ちょっと照れながらも、鏡の中の自分を見つめる。
普段は仕事でバリバリ動いてるから、こうして自分の身なりに気を使うのは久しぶり。
たまには、こういう時間も大切にしなきゃって思う。 
髪を整えた後は、服を選ぶ。温泉だから、カジュアルに行きたいけど、やっぱり少しおしゃれ感も欲しい。
選ぶのは簡単そうで意外と難しい。
カジュアル過ぎてもダメだし、ちょっと気合入れ過ぎても疲れちゃうかもしれないから。 
「これで決まり!」 薄手のニットにデニム、そしてサンダル。
温泉に行くなら軽い服装が一番。
後で浴衣に着替えるから、今はシンプルに。 
最終チェックで鏡にもう一度自分を映し、ちょっと笑顔を作ってみる。
「よし、完璧!」心の中で満足してから、部屋を出る。 
さぁ、久しぶりに会う千夏と紗奈に会いに行くよ!温泉でリラックスして、いっぱいおしゃべりして、笑って、たくさん思い出作らなきゃ。 さて、どんな一日になるかな。 

準備完了!笑いながら「今日もイケてる」と鏡の前で決めポーズをしたその瞬間—— 「えっ!?」 まさにその瞬間、飼い猫のジェリーがテーブルの上に飛び乗って、私が丁寧に煎れたコーヒーのマグカップを前足で落としそうになっている。
見た目はふわふわで可愛いけど、こいつ…やることが大胆すぎる。 「距離4メートル、間に合うかも。
ジャンプして届くかも…」なんて呟いてみるものの、間に合うわけもなく。 
ジェリーがまるで「落としてやろう!」とでも言わんばかりに、こちらを見ながらおもむろにマグカップを落とす。 「うわぁぁぁぁ!!」 何にもできず立ち尽くす自分。
時が止まったように見えた。その瞬間、カップが床に落ちる音と共に、私の心も一緒に崩れ落ちた。
 そして、白くふわふわのカーペット——あぁ、私の大切なカーペットが、今や黒く染まっていく。
こ、これ、最悪だ!待って、今の私は「今日もイケてる」どころか、全然イケてない…!! 「ボケっとしてる場合じゃない!」 時間はどんどん迫ってくる。
私は必死に拭けるものを探し始める。ハンカチ、ティッシュ、バスタオル、何でもいいから早く!急がなきゃ!足元に流れるコーヒーを見ながら、必死で物を探す自分。
早く、早く、頼む!
「えーい!仕方ない!こっちに行くしかない!!」 どうしても大事なカーペットを救いたくて、私は決断した。住んでいるマンションの隣に確かクリーニング屋さんがあったはず。
ここで助けてもらうしかない!あの白いカーペットが、あんなに美しかったカーペットが茶色く染まるなんて、絶対に嫌だ!! ジェリーにはお留守番頼んでおこう」 とりあえず、カーペットをぐるぐる巻きにして、急いで「ジェリー、お願いね!」とだけ声をかけて、慌てて家を飛び出す。
あぁ、こんなにも焦るなんて。普段の私ならもっと冷静に対処できたのに、何てこった。
 息を切らしながらマンションの階段を駆け下り、外へ飛び出す。
クリーニング屋さんまではあと少し、と思ったその時── 「え?」 店の前に到着すると、まさかの臨時休業の張り紙。何てこった。
まさか、こんなタイミングで臨時休業なんて。

店のドアを見つめながら、私は立ち尽くした。 「これはアニメだったら、今頃…」 と心の中で呟く。確かに、今、この瞬間、私の額に一列の縦線がピシャリと浮かんで、何か異次元の世界に飛んでいきそうな勢いだろうな、と。アニメだったら、まるで視覚的に絵が崩れるみたいに、私の顔が真っ白になっているんだろうな。
 「どうすれば…!」 私はひとしきり頭を抱えながら、しばらくその場に立ち尽くす。何もかもが絶望的に感じられたけど、冷静にならなきゃ。
時間がない…このままじゃ、カーペットがもう…。 さて、どうしよう…。

駅周辺で待っている二人の友人、千夏と紗奈が少し不安げに時計を見ていた。 
千夏は少しイラついたように、ふと口を開く。「えか、遅いね。」 親しい間柄だから、入野江佑香のことを「えか」と呼ぶ千夏。
いつものように連絡があっても、今日はそれが来ていないことに少し引っかかっていた。 
「電柱に頭ぶつけて気絶してんじゃないの?」と、ふざけて言う千夏。
入野の身長の高さを揶揄しながら、少し笑う。 「やめてよ。」と、紗奈が苦笑しながらも、友人を宥める。
 でも、千夏はまだ気になる様子で言う。
「にしても遅いね。遅れる時、いつも連絡くれるじゃん?」 「うん、確かに。」紗奈もそう思いながら、考え込みつつ言う。「連絡来てない、ちょっと心配…。」 数秒の静寂の後、千秋がまた顔をあげる。
「うん。ちょっと気になるけど、まぁ、きっと何かあるんだろうね。」 その時、ふと二人は大きな人影を見かける。誰かが走ってくる姿が見えた。 「あっ、来た!!」 紗奈が嬉しそうに叫ぶと、千夏もすぐに反応。
「本当に遅れたのね!」 そして、その走ってくる人物は、少し息を切らしながら、近づいてきた入野江佑香だった。
 入野は少し息を切らしながら、ようやく二人に追いつく。 「遅れてごめん。」
 紗奈がにっこりと笑って言う。
「全然だよ、私たちも来たばっかりだから。」 その横で千秋が少し拗ねた様子で言う。
「私は結構待ったけどなー。
でも、また会えて嬉しい!」 入野は少し笑いながら、その二人を見て、心の中で思いを馳せる。
ふと、語り始める。 「そう。この二人は大学時代からの友人。」
わかる通り、千夏は少し毒のある言い方をする「地元の医大病院のフライトナース。」 「その隣に紗奈、名前の読みは”すずな”なんだけど、私が間違えて”さな”と読んだためそのまま定着した。」
入野は少し照れながら続ける。「のんびりしている保育士さん。」 
こんな風に、昔からの友人たちとの時間は、入野にとってかけがえのないものだ。
 入野は少し困ったように、でもどこか楽しそうに話し始める。
 「ねえ、聞いて。準備していたら、ジェリーがさ、テーブルの上に置いていた私のコーヒー、前足でわざわざ落とそうとしてるの!」 千夏が声を上げて、高々に笑う。「あははは、ジェリー、なかなか大胆なことするやん!」 入野と紗奈は顔を見合わせて、思わず笑い出す。
入野も少し照れくさそうに言う。
「ほんまに、私もビックリしたけど、あのジェリーの顔がまたさ、やる気満々で。
マグカップが落ちる瞬間、もう何もできなかったよ…」 「それ、ちょっと面白すぎる!」紗奈も手を押さえて笑いすぎている。 
二人はお腹を抱えて大笑いしている中、入野は苦笑いを浮かべつつ、「ほんまに、焦ったんだから…」と言いながらも、どこか嬉しそうに話すのだった。
改札を抜けて、三人並んでホームへと向かう。平日の午前中だけあって、人は少なめ。天気も悪くない。
ちょっとした旅の始まりって、やっぱり気分が上がる。
「お弁当、買っとこっか?」と私が言うと、紗奈がふんわり頷いて、「うん……車内で食べよ?」って、いつもののんびりした調子で返してきた。
千夏はさっさと売店の方に歩いて行って、「私はもう決まってる、牛タン弁当」とか言いながら、即決でレジへ。
「ほんま早いなチ。迷いとかないんやな……」
つい笑いながら、私は棚を一つずつ眺める。和風、洋風、ご当地、ちょっと高めの限定品。迷う、これは確実に迷うやつや。
「えかちゃん、決まった?」紗奈が後ろからひょこっと顔を出す。「私、まだ迷ってる……天むすも良さそう……でも唐揚げ弁当も、あっちの甘酢のやつ、美味しそう……」
「さな、悩みすぎやろ……」
私が苦笑いしてると、千夏がさっさと袋片手に戻ってきた。
「ねぇ、いつものやつ売ってたよ。海老の天ぷら入ってるやつ、さな好きじゃん」
「うそ、ほんと?」ってぱあっと顔を明るくする紗奈、さっきまでの迷いが一気に吹き飛んだみたい。
「ええな、決まった人らは……」私はまだ棚の前で腕組みしてる。「悩むっていうか、どれも食べたいねん。二つ買ってええかな?」
「はいはい、結局いつも買いすぎるやつ~」
千夏がすぐ茶化してくる。でも今日はそれも全部込みで楽しい。
「よし、じゃあ私は牛すき焼きとだし巻き入りのやつにするわ。あとジュースも買わなな。アルコール……やめとくか」
「えかちゃん、昼から飲む気やったん?」
「ちょっとだけな? いや、やめとくわ、千夏が怖いし」
「……正解」千夏は無表情で言ったけど、その後ちょっと笑ってた。
袋を手にホームに向かいながら、私はふと思う。こうして三人でどこかに行くのって、何年ぶりやろう。
やっぱり気の置けへん友達って、ええなあ——って。
電車が来るまで、ホームのベンチに三人並んで腰かけてる。
みんな袋を持ってて、お弁当の匂いがほのかに漂ってて、それだけでもちょっと幸せな気分になる。
私はというと、さっきから「どっちから食べよか」と悩んでる。すき焼きか、だし巻きか。頭の中で勝手に戦わせていると、新幹線が到着し、三人は車内に乗り込んだ。
千夏がちょっと心配そうに、「頭ぶつけないように気を付けてね。」と声をかける。
入野はニコっと笑いながら、「うん、ありがとー!」と返事をするものの、車内の天井の高さに一瞬ビクっとして、慌てて頭を低くして座る。
三人で席に並ぶ。駅弁を開いた瞬間、もう食欲が勝って全員無言で一口目。
「……うまっ」
千夏が静かに言った。
「ほんまやな、肉うま……」私もモグモグしながら同意する。
ふと、紗奈が何気ない顔でぽつり。
「でもさ、えかちゃんってさ……なんかすごいよね」
「えっ、どしたん急に?」私が手を止めると、紗奈が続ける。
「だって……背高いし、運動もできて、頭もよくて、顔もきれいで、スタイルもいいし……完璧っぽいのに」
「なのに?」
「……あほなんだね」
めっちゃ優しいトーンで、笑顔のままサラッと言いきった。
「やめーやぁあああ!!」私は弁当の割り箸持ったまま、半分立ち上がる勢いで叫ぶ。
「いや、違うの、違うの!」紗奈が手を振る。「褒めてるの、ほんとに褒めてるの!」
「どこがや!」
千夏も笑いながら口を挟む。
「いやでもそれ、わかるわ。なんかこう、最強スペックなんだけど、脳みそのシナプスたまに途切れてる感じ」
「例えがひどいんやて……!」私は情けなく笑ってから、「なんでやろなぁ……なんか小学校のときに鉄棒から落ちて……」ってボソッとつぶやいた。
千夏がすかさず反応。
「それだ!」
「犯人は鉄棒!」
「はんにん言うな!」
紗奈はもう笑いすぎて、ペットボトルのお茶を吹きそうになってる。
「いやでも、そういうえかちゃんが一番好きだよ」
紗奈がぽつんと言ってくれる。
「……それ、今さらフォローしても遅いからな?」
「うん、でも嬉しいんでしょ?」
「……はい」
「かわいい~~~!!」
「やめぇええぇぇぇえ!」
電車の中で駅弁も食べ終わって、少し気が緩んできた頃。
三人並んで、ほっとしたように座ってる時間。
ふと、私は膝の上に手を置いて、ちょっとだけ背筋を丸めながら言った。
「なぁ、さな、チ……私って、今、見た感じ……」
「うん?」
「……そんなにデカく見えへんよな?」
千夏が顔をしかめる。「は?」
「いや、ほら。今、座ってたら、ちょうど目線一緒やん?」
私はちょんちょんっと紗奈の肩を指で突く。「こうやって見たら、もう身長差感じへんやろ?」
紗奈が小首をかしげながら、「……確かに、座ってるとあんま分かんないかも」って、ほんわか笑う。
「ほら見て! 189センチが、この感じやで? 私、座ると雑魚感あるやろ?」
「いやいやいや、雑魚って言い方!!」千夏が爆笑しながら突っ込む。
「え、だってさぁ、上半身ちっちゃいのか、足ばっかり伸びたのか、よくわからんけどさ、座ると『あれ?意外と普通』って言われるねん」
「確かに、座ってると気づかれないタイプかも」
「そうそう! ほんで立ち上がった瞬間『デカッ!!』って言われるねん、もうテンプレ!」
「ふふっ……ジェットコースターのバーに頭ぶつける人だ……」紗奈がボソッと呟いた。
「あるある!!USJのハリドリな? 一回“身長制限の上限”で止められたことあるからな!」
「嘘でしょ!?」
「マジやて!“乗っていいのかどうか確認します”って言われて、後ろの小学生が拍手してた!」
「めっちゃ目立ってるやんそれ!」
「それこそ完璧なリベンジ(ネタ)やん……」千夏が笑いながら肩揺らしてる。
私は鼻で笑って、「ま、ええんやけどな。今となっちゃ武器やし」と言いながら、ポケットからチュッパチャップスを取り出して口に放り込む。
「高身長美人はチュッパ舐めてもサマになるんやで?」
「その台詞があほっぽいって言われるんだよ」
「やめて~~~~!」私は即座に笑い崩れた。
電車の揺れが少し落ち着いたころ、紗奈がふと思い出したようにえかの方を見て、ぽつりと聞いた。
「そういえば……カーペット、どうなったの?」
紗奈が思い出したかのように聞く。「それで、マグカップどうしたの?割れた?」
入野は少し真剣な顔で続ける。「それがね、私の大事にしていた白いカーペットにコーヒーがかかっちゃって、もう…最悪だったよ。」
千秋は驚きの表情で言う。「あれ、一昨年に軽井沢のアウトレットで買ったカーペットか?」
入野は少し頷きながら答える。「そう、あれなんだよ。」
千夏は、少し昔のことを思い出しながら言う。「あれさ、車に乗せるのめっちゃ大変だったじゃん。」
紗奈もそれに同意して、「大きい車だったからよかったけどね。」と笑いながら言う。
入野は照れくさくて、顔を赤らめながら、「てへぺろ。」と小さく笑う。
その瞬間、千夏がプッと笑いをこらえきれずに言う。「てへぺろって。」
入野はちょっと恥ずかしそうに、「うーん、つい…」と言いながら、あまりの恥ずかしさに顔を隠して笑っている。
するとその横で、千夏が黙々とポテチの袋と格闘している。
「……これ、開かない……」
袋を指先でつまんで何度か力を込めてるけど、うまくいかない様子。歯を使うでもなく、ただ真剣な顔でちょんちょんやってるのが地味に面白い。
紗奈と私はカーペットの話で盛り上がりつつも、ふと横目に気づいた。
「えかちゃん、これ……開けて?」
千夏が自然に、ふたりの会話を割ってポテチの袋を差し出してきた。
「おお、任しとき!」
私はちょっと得意げに袋を受け取り、一瞬でバリっと開封。
「開けるだけなら無敵やで?」
拍手をする紗奈。
「さすが腕力担当~」千夏が小さく笑って、ようやくポテチにありつけた。
「でも……」紗奈が袋を見ながら言う。「たまに、えかちゃん開けすぎて、中身飛ぶよね?」
ポテチの袋をようやく開けて、千夏が中を覗き込んだ瞬間──
「……ちょっと待って」
「どしたん?」私が振り返る。
「これ、中身スッカスカなんだけど!? なにこれ、空気吸ってるの!?」
「見せて見せて~」と紗奈も身を乗り出す。
三人で袋を覗き込んだ瞬間、微妙な間(ま)が流れた。
「……え? え、ほんまにこれだけ?」
「うそでしょ?」
「え、これ……詐欺じゃない?」
「袋のサイズだけ立派で中身スカスカとか、理不尽すぎるやろ」
「もしかしてこれ、“大人の余白”ってやつなんかな?」私が適当なことを言うと、
「いやそれ絶対違う」千夏が即ツッコミ。
紗奈が小声で、「なんかさ、ポテチって……こんなに虚しかったっけ……」って言って、笑いながら袋を軽く振る。
「しかも割れてるの多くない? ほぼポテ粉」
「パリッと感ゼロ。しけってる?」
「いやもう、こんなん“ポテチってよりポテチ風”やで」
「『ポテチ風スナック』って書いてたら納得できたわ、ほんま」
「でも、なんやかんや言いながら食べきるんやろ?」
「そりゃそうだよ、文句言いながらも完食ですよ!」
三人で笑いながらポテチをつまみつつ、袋の底が見えてきた頃には、また誰かが次のお菓子に手を伸ばしていた。
電車が草津温泉に着くまであと一時間くらい。
さっきまでのおふざけから一転して、私たちの会話は自然と、普段の生活の話になっていく。
最初に口を開いたのは千夏だった。
「最近さ、フライトナース、かなりきついんだよね……」
千夏は窓の外を見ながら、少し疲れたように言った。私はなんとなく察して、静かに頷く。
「毎日毎日、誰かの命に関わる仕事してるとさ、重圧半端ないよ」
紗奈が千夏を優しく見ながら聞く。
「そっか……やっぱり緊急の患者さんばっかりだもんね」
千夏は少し微笑んで、
「まぁね。でもそれだけに、助かった時の安心感もすごいけどね。そこが好きで続けてるっていうのもあるかな」
その表情には、ちょっとした誇りが感じられた。
紗奈は小さく頷いてから、自分の話を始める。
「私もさ、保育士って思ったよりずっと大変で。子供たち可愛いけど、一人一人違うから、毎日対応するのに必死。特にイヤイヤ期の子は……もう、毎日戦争だよ」
私と千夏が同時に軽く笑う。
「紗奈、子供に振り回されてるの想像できるわ」千夏が冗談っぽく言ったけど、紗奈は真剣に返す。
「ほんとに、毎日へとへとだよ。でもね、なんだかんだ、成長を間近で見れるのは、すごく嬉しいんだよね。
小さなことでも感動しちゃって」
紗奈の表情がふわっと優しくなって、見てるだけでこっちも温かくなった。
二人の話を聞きながら、私も少しだけ自分のことを語ってみたくなった。
「私もさ、マネージャーになって、有名人のそばで仕事してると、いろいろあるんよね」
「例えば?」と千夏が興味深そうに顔を向けてくる。
「世間の注目もあるし、プライベート守るのも大変やし、本人が落ち込んだりすると私まで悩むしさ」
私が少し言葉に詰まると、紗奈が静かに促した。
「でも、えかちゃんがいるから安心してる部分も、あると思うよ?」
その言葉にふっと気持ちが軽くなって、「そうかなぁ……」と笑って返す。
千夏も紗奈もうんうん、と頷いてくれる。こんなふうに自分の悩みを話せる相手がいるって、本当にありがたい。
「でも結局さ、三人とも大変やけど、なんだかんだ楽しくやれてるよな」
私がまとめるように言うと、二人も笑顔で頷く。
「そうだね、だからこうして会えると嬉しいよね」紗奈がふわっと笑った。
草津まであと少し。三人でこうして話す時間は、私たちにとって特別なものなんだって、改めて感じた瞬間だった。
新幹線からバスに乗り継いで、ようやく目的地の草津温泉に到着した。
バスを降りると、辺りはもう温泉街特有の空気が漂っている。
「うわ、臭っ!」
千夏が顔をしかめて鼻を押さえた。その顔が本当に大げさで、私はつい笑ってしまう。
「硫化水素やな。温泉の硫黄の匂いやで、これ」
私が真面目ぶって説明すると、千夏が眉をひそめてふざけて言う。
「いやいや、絶対誰かおならしたでしょ、これ」
「ちょっと待って、それ誰の疑ってんの?」
私は紗奈とすぐ目を合わせた。ふたり同時に口元が緩む。
「いやいやいや、ちょっと待ちなさいよ、その目線!」
千夏が焦りながらも笑っている。
紗奈は控えめに口元を押さえながら、いたずらっぽく微笑んでいる。
「チ……そんだけおならっぽいと思ったら、自分じゃないの?」
私がからかいながら肩をすくめると、千夏は手を振り回して全力で否定。
「違うってば!私じゃないし!」
「いや、怪しいなぁ……なあ?」
私はわざとらしく紗奈に振ってみる。
「……チが自分で言うなら、そういうことかも」
紗奈が真顔で言うと、千夏は再び大げさに抗議。
「ちょっと待って、二人ともひどすぎない?」
私と紗奈は顔を見合わせて笑い出した。
「冗談やって、冗談。草津来たって感じしてええやん?」
私はそう言って、肩をぽんっと千夏に当てる。
「あーもう、ほんとにこの二人……」
千夏は呆れた顔しながらも笑顔を見せて、三人で温泉街へと歩き始めた。
やっぱりこういう軽口を叩き合える時間が、一番楽しいんだなって改めて思った。
温泉街の坂道を抜けて、予約していた旅館にたどり着いた。外観は落ち着いた和風建築で、思ったよりずっと雰囲気がある。
玄関をくぐると、ふわっとお香の匂いがして、やっぱり来てよかったなと思えた。
「いらっしゃいませ、ご予約の千夏様ですね」
ロビーにいた仲居さんが丁寧に迎えてくれる。私たちは順に靴を脱ぎながら、カウンターへ。
「ご精算は、チェックアウト時となります。なお、当旅館は現金でのお支払いも可能です」
その瞬間、私たち三人はほぼ同時にカウンターの小さな案内版を見て、目を細めた。
「……へえー、現金……」
私が思わずつぶやくと、千夏がすかさず言う。
「懐かし~~!子供のころ以来じゃない?お札なんて」
「ほんまに。紙のお金とか、もう使い方忘れたわ」
「手をかざすだけで決済できちゃうからね。」
私は苦笑いしながら、案内板を見つめ続ける。
「ねぇ、一万円札ってさ……今、誰の顔なんだっけ?」
千夏が本気で聞いてきて、全員一瞬沈黙。
「……え、あれって渋沢栄一じゃなかった?」
私が少し不安げに言うと、
「いやいや、それ、たぶんうちらの祖父母世代」紗奈がやんわり否定。
「え、じゃあ誰?」
「わかんない……全員顔がAI生成みたいな記憶しかない……」
三人で「誰やったっけ……」って首をかしげながら、カウンター前で軽く立ち尽くす。
仲居さんが優しく笑いながら、「最近は使われる方、少ないですからね」とフォローしてくれた。
「でもなんか……現金って逆にプレミア感あるな」
私は冗談っぽくそう言いながら、チェックインの手続きを済ませた。
紙のお金に戸惑うアラサー三人組、旅はまだまだこれからや。
部屋へ案内されながら、私たちはスリッパをぱたぱた鳴らして廊下を歩いていた。
それにしても──さっきの現金の話題が地味に尾を引いてる。
「てかさ……一万円札わかんないのはまだいいとしてさ」
千夏がふと立ち止まりかけて言った。
「じゃあさ、千円札って誰なん?」
「あ~……」
私と紗奈、そろって声は出るけど、その先が続かない。
廊下の途中で、三人そろって沈黙。
「……え、知らないの?」
千夏がジロッとこっちを見る。
「……じゃあ、チは知ってるん?」私が反撃に出る。
「……いや、知らない」
「なんで聞いたんや~!」
私は即ツッコミを入れて、紗奈は笑いながら手で口を押さえてる。
「でもさ、昔って北里柴三郎だったよね?千円札」
「うん、それは覚えてる。あと五千円は女性だったような……」
紗奈がうっすら記憶をたぐる。
「なんか……着物着てた気がする」
「それ、全部の紙幣じゃない?」千夏がすかさず冷静なツッコミ。
「じゃあ五千円は……女優さんとか、作家さんとか?」
「知らんけどで会話すな~~!」
私は頭抱えながら笑う。
そんな調子で、お札の話で妙に盛り上がったまま廊下の角を曲がったところで、
「こちらでございます」
仲居さんが立ち止まり、障子の前で丁寧に一礼した。
「お部屋、つきました」
「あ、ありがとうございます~!」
三人そろってお辞儀しながら部屋へ入ると、畳の香りがふわっと鼻をくすぐった。
わちゃわちゃしてたけど、やっと落ち着ける時間が来たなって、私はちょっと肩の力を抜いた。
部屋の襖を開けると、ふわっと畳の匂いが鼻をくすぐる。
昔ながらの旅館らしく、完全に“和”な雰囲気。
障子越しにやわらかい光が差し込んで、部屋の真ん中には低めの木のテーブルと、すでに並べられたお茶セット。
壁には墨絵っぽい掛け軸もあって、ちょっとした非日常感。
「わぁ……いいね」
紗奈が一歩踏み出して、畳にそっと足を滑らせる。
「こういう和の部屋、落ち着くよねぇ……」
その声も自然とトーンが柔らかくなってる。
千夏はすでに荷物を置きながら、「いやもう、温泉入りたいんだけど。先にいく?」と落ち着きがない。
「え、さなは? どっち派?」
「えー、ちょっと町、散策してみたくない?」
「浴衣で歩いたら気持ち良さそうだし……あの、温泉まんじゅうとかさ」
「ちょっ、誘惑してこないで? 私もう今すぐお湯に入りたいのに」
二人があーだこーだ言いながら振り返ると、肝心の入野の姿がない。
「……あれ? えかは?」
障子の陰からちょっと申し訳なさそうな声。
「ごめん、トイレ~!」
「www」
千夏と紗奈が顔を見合わせて吹き出す。
「さすが、到着してすぐのトイレ」
「まぁ、大事だよね」
そんなことを言いながら、二人はトイレの前でも構わずしゃべり続ける。
「で、どうする? 町歩き先? お風呂先?」
「うーん、でも外まだ明るいしね。先に外回って、ちょっと食べ歩いてからお風呂ってのもアリかも」
「食べ歩き……それは危険なワード」
「ポテチ食べてたくせに何言ってんの」
「それとこれは別」
襖の向こうから「うるさーい!」と軽くえかの声が飛んできて、ふたりは顔を見合わせてまた笑う。
その時、襖がスッと開いて、入野がスッキリした顔で戻ってきた。
「……あんたら、トイレの前で盛り上がるのやめぇや……!」
「おかえり~!」
「話のネタが尽きないんだよ」
部屋に荷物を置いて、ほんの少し。入野がトイレから出てくると、部屋の景色がなんか…変わってた。
「……え、ちょ、うそやん……さな?」
畳の上には開きっぱなしのポーチ、脱いだ上着、買ったばかりの駅弁の袋、ペットボトル、そして…なぜか片方だけの靴下。
「え、なんで? え、うちトイレ行っただけやんな? なんでこんな散らかんの?」
入野が本気で困惑した顔して立ち尽くしてると、千夏がその後ろからのぞいて──
「うわ、ほんとだ! なんか部屋が……5日ぐらい生活した跡みたいになってる……」
「いやいや、ちょっと置いただけだよ?」紗奈はぺたんと座りながら、ケロッとした顔でポーチの中をガサガサしてる。
「ちょっと、の範囲がバグっとんねん!」
「てか、さなってさ、何で毎回こうなるん? 昔からだけど」
「いや、あのさ……探しやすくしてるだけ、かも……?」
「散らかってんじゃなくて、展開してるってこと?」
「そうそう、空間をこう……活かしてるっていうか」
「言い訳下手すぎて逆にすごいな……」
千夏が苦笑しながら靴下を拾い上げ、「これ、今日の? 明日の? てか、なんで片方だけ?」って首かしげる。
「うーん……なんでだろ? 記憶ない……」
「こわいわ!!」
入野は笑いながら、「いや、まじで5分やで? 5分でここまでやれるって、才能やろ……散らかしの金メダルあげたい」と、あきれ半分、呆れきれず。
「ふふ……もらっとく~」
「いや誇るな!」
「てかさ」
千夏が思い出したように言う。「さなのデスクの状態、もう想像つくよね。資料とか…山でしょ?」
「う……たしかに……」
紗奈がちょっとバツの悪そうな顔で笑う。
「山っていうか、なんか……盆地みたいになってるやろ」
入野が笑いをこらえつつ、妙にリアルな例えを出してくる。
「えか、それちょっと上手いのが腹立つんだけど」
「実際そうやろ~? 下の方にある書類もう何年眠ってるかわからへんやつやで、きっと」
「えへへ……捨てらんないんだよねぇ、なんか」
「で、結局必要なときに見つからんくてバタバタするっていう、な?」
「言わないでぇ~~」
三人でくすくす笑ってると、入野がふと声のトーンを変える。
「それより……どうする? 湯、先入る? それとも散策?」
「わたし、外歩きたい~」
紗奈がすぐに手を挙げる。
「私はもう、お湯。入りたいっていうか、溶けたい」
千夏は脱力気味に言いながら、腰に手を当てる。
「えかちゃんは?」
紗奈が聞き返すと、入野はゆっくりと目を細めながら──
「散策」
千夏の方を見下ろして、ニッと笑う。
「んだよ……二対一じゃねーかよ……」
千夏は軽く肩を落としながらも、どこか楽しそうに口を尖らせる。
「まあ……しゃーないな……じゃあ、ちょっとだけ歩こ。後でたっぷり浸かるってことで」
「うんっ」
紗奈はもうすでに気分が上がってる様子。
「ほな、着替えて行こかー」
入野の声に合わせて、それぞれ荷物をごそごそ。
しばらくして、三人とも軽めの上着と靴に着替えて、外へ出る。
「ねえねえ、温泉饅頭もあるよね? 食べたいな~~」
と紗奈が早速スイーツアンテナを張りはじめる。
「さな、それ第一声が饅頭ってすごいよな……」
「だってあれ、出来立てで湯気出てるやつあるんだよ? 食べるしかないでしょ」
「まあ、ええけど……うちら温泉街に来て、まず湯気の方向いてんの、饅頭っていう」
入野が小さく笑って肩をすくめる。
千夏は小声で、「……あんこじゃなくてチーズ入ってるやつあるといいな」なんて呟いている。
そんなこんなで、三人の温泉街散策がゆる~く始まるのであった──。
通りに出た瞬間──
「うわ~~~……!」
紗奈が両手を広げて、きらっきらの目で通りを見渡す。「すごい……いい感じ!」
「めっちゃ雰囲気あるやん……」
入野も目を細めて、商店の連なる小道に思わず声が漏れる。湯けむりがほんのり漂って、観光気分が一気に高まる。
「……くっさ」
千夏が後ろから小さく文句をつぶやいた。
「またそれ?」
入野が笑いながら振り返る。
「だってさ、硫黄でしょ? 完全に……なんていうか……鼻の奥に残るっていうかさ」
「わかるけどな~」
紗奈がフォローしつつも、表情は明るいまま。「でもこの匂いが“温泉来た~!”って感じで好きかも」
「……さな、ちょっと感覚バグってるよ」
「お湯の香りやん?」
入野が笑う。「私はけっこう好きやで? 旅って感じするし」
「でも千夏の言うことも、まぁ……正直ちょっとわかる」
「な! 鼻に残るやつ!」
「おならやないねんから」
入野がつっこむと、千夏は満足げに「はいはい」と手をひらひら。
でも、そのくせ──
「あ、これ可愛い」
「……なにそれ?」
「なんか湯もみちゃん人形……ちょっとブサかわ系」
「わたしもこれ気になる~」
紗奈が別の店先で、手ぬぐいを手に取る。「色合いが、ちょっと渋くてかわいい」
「これとかお土産にちょうどよくない? 包装もレトロでさ」
入野が焼き菓子の箱を見つけて手に取る。
「ん~~~」
千夏が隣の和雑貨店で無言で手ぬぐいを3つ持っている。
「……あれ? なんかめっちゃ買ってへん?」
入野が気づいて指差す。
「ん? いや、ほら、病院のナースステーションに置く用」
「出たよ、“みんなに配るから”理論」
紗奈が笑う。
「お土産って配って終わるじゃん? 自分の分ないとちょっと悲しくない?」
「ていうか今、5袋くらい持ってない?」
「……数えるなっての」
「かわいくて買ってるくせに~」
紗奈がからかいながら、お饅頭サンプルを口に運ぶ。「あ、これおいしい。さっきの店のより、こっちのあんこの方が好みかも」
「お、食べるやつはちゃんとチェックしてんな」
「そりゃもう。温泉街グルメ、真剣勝負だよ」
三人は小さな商店から商店へと移動しながら、それぞれにペースで笑ったりいじったり、ちょっと立ち止まってはまた歩き出す。
初めての草津。楽しくないわけがない──。
商店街をぷらぷら歩いていた途中で、ふと入野が立ち止まって言った。
「そういえばさ……うちら、お昼ごはん食べてへんやんな?」
「え? 食べたじゃん、新幹線の中で」
千夏があきれたように言う。
「えっ……あれは、おやつやろ?」
「いやいや、弁当だったでしょ!」
「うーん……でもあれ、おやつサイズちゃう?」
「どんな感覚してんのよ……」
千夏が半笑いで突っ込む。
「……あ、でも私も、ちゃんとした“お昼”って感じじゃなかったかも」
紗奈がぽつりと口を挟んだ。
「ほらな~! さなも言うてるし!」
「でもさな、来る途中ずっとなんか食べてなかった?」
千夏が即座に指摘。
「うん……あれは……うーん……」
ちょっと悩んでから、ふわっと笑ってごまかす。「あれよ、口さみしかっただけだから~」
「それを“ずっと”繰り返してたらもう食事だわ!」
三人がくすくす笑いながら歩いていると、入野が言った。
「そば、食べたない? 三國そばとか。なんかのど越しいいやつ」
「いいね、三國そば」
紗奈がすぐに乗っかる。
「……まぁ、私もそろそろ腹減ってきたし。いこっか」
千夏も観念したように頷いた。
「珍しいなー。食べ物のことで三人の意見そろうって」
入野がちょっと驚いたように笑う。
「てか、えかちゃんがそば食べたいって言うのが意外なんだけど」
千夏が言う。
「なんで? 普通に食べるけど?」
「いやー……なんか、そばって“軽め”じゃん? もっとこう、肉!丼!って感じかと思ってた」
「わたしも思った。えかちゃん、燃費悪そうだし……」
紗奈が続ける。
「おい待て、誰が大飯食らいや」
「いやいや、事実でしょ」
千夏が笑う。
「私たちが軽自動車で、えかちゃんだけ大型トラックって感じ?」
紗奈がわりと的確なたとえを出す。
「なにその例え! しかも私トラックって……」
入野が笑いながら肩をすくめる。
「荷物もいっぱい積めそう~」
紗奈がのんびり追い打ちをかける。
「よっしゃ、燃料補給や。どーんと食べたるで!」
入野が張り切ると、千夏がぽつり。
「そばなのに“どーんと”言うなっての」
三人はそんなやり取りをしながら、ほのかに出汁の香り漂うそば屋の暖簾をくぐった。
暖簾をくぐって店内に入ると、静かな和の空間。テーブルに腰を下ろして、三人はそれぞれメニューを開いた。
「……あれ、安くはないな」
千夏がぽつりとつぶやく。
「ほんとだ……ちょっとびっくり……」
紗奈も思わず声に出した。
「ま、でも……たまにならええやん。今日は特別やし」
入野が笑いながらメニューを閉じる。
「えかちゃん、まさかの——」
千夏がチラッと横を見る。
「……三國そば、二人前で」
「は!? まじで!?」
「うん、食べたいねん。あとで後悔したないし」
「さすがだな……やっぱ大型トラック」
千夏が吹き出すように言って、紗奈もくすくす笑う。
注文を終えて、一息ついたタイミングで、千夏がちらっとレジの方を見やる。
「てかさ……あの店員? バイト? なんか知らんけど、愛想わるっ」
「ええやん、別に」
入野が軽く受け流す。
「よくないし……接客って大事でしょ……?」
「文句ばっか言わんの」
入野がちょっと笑いながら小声でたしなめる。
「いや、でも感じ悪かったもん……ほら、なんか『いらっしゃいませ』も無言で目で言ってきた感じ」
「そういうの気にするんだね……」
紗奈がふんわり笑って、「私は全然気にならなかった……むしろ空気みたいで静かでいいな~って」
「仏やな、さなは……」
「うん、仏っぽいよね。お釈迦様感ある」
入野がからかうように言うと、紗奈は「えぇ~」って照れ笑い。
「てか、さなってなんか、怒ることあんの?」
「……あるよ? あんまり覚えてないけど……」
「いや、覚えてない時点で無さそう」
そんなことを話してるうちに、店員がそばを運んできた。
木の器に盛られた三國そばは、しっかりとしたコシと艶のある麺が美しかった。
「おぉ……おいしそ……」
「写真撮ってもいいやつ……」
「うん、SNSはやってへんけど……これは記念に撮っとこ」
三人はそれぞれ、そばを前にして顔がほころぶ。
そばを前に、全員スマホを取り出して、ぱしゃぱしゃ。
「……よし、もうええやろ。食べよ」
入野が割り箸を割って、さっそく一口すする。
「んー!……うまっ」
口元を押さえながらうなる。
「おいしい……」
紗奈も静かに頷いて、もぐもぐしてる。
「……うん、コシがちゃんとしてる。だしも濃すぎないし」
千夏は冷静に分析しながらも、やっぱりペースは早い。
しばらく黙々とそばをすすっていたが──
「……あ」
千夏がピタリと箸を止めた。
「……何?」
「わさび、全部入れたら……やばいかも……」
「え、ちょ、どれくらい入れたん?」
「全部。なんか見た目かわいかったし」
「いや量見ろや!」
入野が吹き出しそうになりながら、隣のそばを手でかばう。
「めっちゃ鼻に抜けて……つらっ……」
千夏、目を潤ませながら口を押さえてる。
「大丈夫?」
紗奈が心配そうに身を乗り出す。
「うん……いや……涙止まらんだけ……」
「それ大丈夫ちゃうやろ」
入野が笑いながらお茶を差し出す。
「ありがとう……って、これお冷じゃん!」
「うちはお茶飲んでるしな。なんや、自分で取りに行ってよ~」
「……ケチ!」
「人を大型トラック扱いする人にやさしくはせん!」
「それは事実じゃん!」
みんなが笑ってると、今度は隣の紗奈が「あっ」と声を上げる。
「どした?」
「え、……ネギこぼした……」
見ると、薬味のネギが畳にポロポロ。
「さなのそば……被害軽めでよかったな……」
千夏がネギを拾いながら言う。
「いや、これ私のじゃない……」
紗奈が申し訳なさそうに指差すと、それは入野のそばだった。
「うわあ、ネギ洪水……」
入野の丼ぶりにネギが雪崩のように入り込んでいる。
「……っ、もう~~なんやねん……」
入野が思わず手で顔を覆って、でも笑ってる。
「えかちゃん、ネギまみれや~」
「さな、なんでこう……可愛い顔してトラブル起こすんやろな……」
「……才能かな?」
「いらん才能!!」
一同、再び大笑い。
店内のざわめきとは少し違った、楽しげな笑い声が、そばの香りと一緒に広がっていた。
そばを食べ終え、レジで会計を済ませた三人。外に出ようとすると、さっきの不愛想な店員が、ちらちらと視線を送ってきている。
千夏がすかさず小声でつぶやく。
「……あの店員さ、ずっと見てたよね、えかちゃんのこと」
「え、そう?」
入野は、涼しい顔で振り返りもせずに答える。
「いやいや、絶対見てた。3回はチラ見してた。てか、ガン見寄りのチラ見」
紗奈も少し驚いたように頷く。
「……たしかに。最初のときからなんか、目線あったよね」
入野は肩をすくめるように、気にも留めていない様子で笑う。
「……まぁ、しゃあないやろ。こんなサイズの女、そんないっぱいいぃひんし」
軽く手を広げて、上から下まで自分を指し示す。
「……それは、まぁ、目立つよね」
紗奈も苦笑して、「背も高いし、顔もキレイだし……そりゃ、見られるよ」
「うちさ、普通にしてても“スポーツ選手ですか?”って聞かれんねん」
「聞かれそう~!」と千夏がかぶせる。
「おまけに電車乗ったら、だいたい“バレーかバスケか?”ってな。で“バレーです”って答えたら、“ああ~やっぱり!”って。聞く前に予想ついとるんやったら聞かんでええやんって思うねんけどな」
「ははっ、あるある~」と笑いながら、三人は店を出て、再びにぎわう西の河原通りへ。
小さな土産屋や、手焼きせんべいの香り、温泉まんじゅうの蒸気がゆるく立ちのぼる。
「……やっぱ外、気持ちいいね」
紗奈がふうっと息をつきながら、両手を伸ばす。
「温泉まんじゅう……また食べたい……」
「さっき食べたばっかじゃん」千夏が即座にツッコむ。
「それはそれ、これはこれ!」
満面の笑みで紗奈が返す。
入野はそんな二人を見て、くすっと笑う。
「……ほな、旅館戻ろか。チェックインしたとき、ちょっとだけでも荷物整理したいし」
「え、さなちゃん、また散らかすの?」
「散らかすっていうか……拡げてるだけ!」
「展開すな!!」
笑いながら、緩やかな坂を下る三人。さっきまで賑やかだった通りも、徐々に人が減り、夕方の空気がどこか落ち着いていた。
温泉街のやさしい匂いに包まれながら、三人は静かに宿へ戻っていった。
部屋に戻ると、すぐさま千夏がタオルを肩にかけて言い放った。
「よしっ、今度こそ風呂!」
けどその勢いを、入野が軽く抑えるように声をかける。
「待ちぃな。食後すぐはやめといたほうがええって」
「……あ、そっか。1時間は空けろって言うもんね」
千夏はあっさり納得してタオルを外した。
「さすがえかちゃん。なんか……健康番組とか出てそうだよね」
紗奈がふにゃっと笑って言う。
「いや、どっちかいうと出てるのは『珍百景』のほうやろ」
入野が苦笑して返すと、紗奈が「ぷっ」と吹き出した。
「で? このあとどうする? 1時間……けっこうあるよね」
千夏がごろんと畳に寝転びながら天井を見上げる。
「私は……ちょっと仮眠とります~」
紗奈が布団を半分だけ引っ張り出して、ごろんと丸くなる。
「ええなぁ。ほな私は……コーヒー飲みたいな」
入野がぽつりとつぶやいた。
「コーヒー? 今?」
千夏が少し顔だけ上げて言う。
「今朝さ、飲もうとしたら……ミケに倒されてさ。あの子、私のコーヒー好きすぎるやろ」
「え、まだそれ引きずってたの? えかちゃん、意外と根に持つ~」
「うるさいわ。コーヒーは命の水や。……そういや、廊下の自販機の隣にドリップのとこあったよな?」
「うんあった! あのちょっと洒落たやつでしょ」
紗奈が指さすように、まだ寝転びながら応える。
「よっしゃ、買いに行ってくるわ」
入野はすっと立ち上がると、部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、千夏が大きなあくびをして言う。
「……あ~、もう横になったら寝ちゃうよ」
「寝たら?」紗奈が目をつぶったまま呟く。
「うん、寝る」
千夏はそのままぐるんと横を向いて、ほんの数分で寝息を立てはじめた。
――数分後。
入野が戻ってきたとき、部屋はすでに静かになっていた。
ベッド代わりの布団の上に、千夏と紗奈がそれぞれ丸くなって眠っている。
「……早っ」
苦笑しながら、入野は自分のコーヒーを持って窓際に腰を下ろす。
まだ熱を持った紙カップの表面から、ふわっと漂う香ばしい香り。
外は少しずつ夕方の色になり始めていて、旅館の中庭に吹く風が、さらりと風鈴を鳴らす音が聞こえる。
「……ええとこやな、やっぱり」
独り言のようにつぶやいて、入野はそっと一口、コーヒーをすする。
その横顔は、どこか落ち着いていて――けれど少し、遠い記憶をたぐるような目をしていた。
仮眠から一時間。
「……ほら、起きて。そろそろ温泉行こか」
入野の声がふたりの耳元で優しく響く。
「ん……もう?」
紗奈はもぞもぞと布団の中で丸まりながら、片目だけ開けて呟いた。
「動き早っ」
千夏はというと、すでにむくっと起き上がってタオルを手にしていた。
「よし、行くかー。寝たらめっちゃ元気になった!」
パタパタと着替えを済ませて、大浴場へと向かう三人。
脱衣所で浴衣を脱ぎ、順番にかごに放り込んでいく。
「……あー、やっぱえかちゃん、すごい身体してるよね」
千夏がぽそっと言いながら、入野の背中に目をやる。
「なにジロジロ見てんの?」
入野が肩越しにチラッと振り返る。
「いやもう、なんていうか……無駄なもん一個もないって感じ。引き締まりすぎてて、感動すらするわ」
「感動って」
入野は苦笑しながらバスタオルを巻いた。
「もう何回も見てるでしょ、千夏」
紗奈がぼそっと突っ込む。
「うん、でも毎回びっくりするんだって。腹筋とかさ、ちょうどいいとこで止まってるのがまた……絶妙。シックスパック一歩手前って感じ?」
「なにその妙な褒め方」
入野は呆れたように笑った。
「わたしなんて、完全なるワンパックよ。ポヨンて」
千夏が自分のお腹をつまんで見せる。
「でも入野は……硬そうよね、肉」
紗奈が横からのんびり言う。「食べても噛み切れなさそう……鹿の肉みたいに」
入野が眉をひそめて振り返る。
「ちょっと臭いっぽい言い方やめてもらえますぅ?」
「え? そっちまで気にする?」
笑いをこらえる千夏。
「さすがにそこまでは言ってないよ~」と、紗奈も笑う。
三人の笑い声が脱衣所に柔らかく響く。
浴場の暖かい蒸気の向こうに、まったりとした夜の時間が流れはじめていた。
浴場に入ると、ふわっと立ち上る湯けむりに三人とも一瞬言葉を失う。
天井が高く、壁は落ち着いた石造り。奥には露天風呂が見える。
「……うわー、めっちゃええやん……」
入野が、思わず小さく息を吐く。
「ほんと、旅館の中とは思えないくらい広いね」
紗奈が目を丸くする。
「早く入ろ」
千夏はもう湯舟に向かって、タオルを小さく畳みながら小走り。
ざぶん、と音を立てて三人順にお湯へ。
「……ああぁ~~~」
三人同時に、溶けるような声を漏らす。
「……生き返るぅ……」
「やば、これは寝る……絶対寝れる……」
「これが日本の技術ってやつよな……」
一瞬無言になって、お湯の音だけが耳に心地よい。
「あ、サウナもあるよ」
紗奈がふと指差す。
「行こ、行こ! 汗流したい」
千夏がすでに湯から上がってサウナの方へ歩き出す。
中に入れば熱気がむわっと顔にくる。
誰もいない木のベンチに座って、じわじわと汗が滲む。
「……これ、何分が正解なん?」
「10分くらいが目安って言うけど……」
「でもなんか、息苦しくなってきた~~」
「じゃ、出よっか!」
今度は勢いよく冷水の方へ。
「……ちょ、待って、マジで冷たいって!」
千夏が先陣を切るも、足先をつけて飛び上がる。
「きゃーー! むりむりむりっ!!」
「いったれー!」
入野が追いかけて、紗奈の手を引っ張って一緒にちゃぽん!
「うわっ、やばい、心臓止まる……!」
「これ……笑うしかないやつや!」
きゃーきゃー言いながら、冷水でバタバタはしゃぐ三人。
きゃーきゃーと騒ぎながら冷水に飛び込んだ直後、紗奈がふと立ち止まる。
「……あれ……ちょっと、クラッとするかも……」
「えっ、大丈夫?」
千夏がすぐに駆け寄り、濡れた髪をかきあげながら紗奈の肩を支える。
「急に冷やしすぎたんちゃう?」
入野も眉をひそめて、サウナと冷水の温度差を気にする。
「ごめん、ちょっと目ぇ回ったかも……でも……」
紗奈は数秒ゆっくり深呼吸して、それからふっと笑って首を傾げる。
「うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけかも」
「ほんまに? 無理したらあかんで?」
「座る? 横になる?」
「ありがと、でも平気。ちょっとだけビックリしただけ、たぶん体が“何ごと!?”って言ってただけだから……」
すぐに表情が戻って、ほっと息をつく三人。
「もう、あんまり脅かさんといてや~」
入野が胸をなでおろしながら、笑い混じりに言うと、
「……反省してまーす」
紗奈がぺろっと舌を出して、またお湯に戻っていく。
「なーんや、元気やん」
「さすがに冷水にダイブはやりすぎだったかもね」
最後はもう一度、お湯でじんわり身体を温めてから、三人でゆっくり湯から上がった。
脱衣所に戻って、髪をタオルで拭きながら、千夏が呟く。
「……なんかもう、お腹空いた」
「やっぱ体力使ったなぁ、あれ」
「ね、温泉ってリラックスするのに体力奪われるやつなんだよね」
「でも、ちょうどええ。次は夕食やしな」
浴衣を着なおしながら、三人の顔には疲れと同時に、どこか満足げな表情が浮かんでいた。
このあと、いよいよお楽しみの夕食。
お風呂のあとの食事は、きっと格別なはずだった。
夕食は旅館の大広間で行われるとのことで、三人は浴衣姿のまま、のれんをくぐって広い座敷へ。
「おお……けっこう人いるね」
千夏が小声で言いながら、辺りを見回す。ほかの客もちらほらいて、皆静かに席につき、料理を楽しんでいる様子。
「うちら……ちょっと浮いてへん?」
入野がくすっと笑うと、
「うん、静かにしよ?」と紗奈が囁くように言って、三人で空気を読みつつ席へ着く。
座卓にはすでにいくつかの料理が並んでいて、旅館らしい彩り豊かな和の会席膳が目を引く。
「わあ……きれい……」
思わず声を漏らしたのは紗奈。木の盆に乗った一品一品が、どれも手間ひまを感じさせる盛りつけ。
「これ、先附(さきづけ)かな?……ほうれん草の胡麻和え? それと……百合根の白和え?」
入野がそっと箸をのばして、一口。
「……ん、やさしっ……味がすごいまろやか。ごまが香ってるけど、全然重くない。これ、出汁ちゃんとしてるやつやわ」
「えかちゃん、解説うまいな」
千夏が感心しながら、自分もぱくり。
「……うん、確かに。なんか……口の中でスッと消える味。優しいけど、ちゃんと味ある感じ」
「なんか、落ち着く味だね」
紗奈もにこにこしながら食べ進めていく。
つづいて運ばれてきたのは、お造り。
「わっ……これ、まぐろと鯛? あとこれ……ぶりかな?」
千夏が目を輝かせて覗きこむ。
「見て、つまの大根がめっちゃ細かい……あと紫蘇がちゃんと立ってる。手抜いてへんな~」
入野がひときわ感心したように言いながら、醤油をちょんとつけて、鯛を口へ。
「……ぷりっぷり。これは、ちゃんと地の魚ちゃう?」
「ほんとだ、弾力ある。東京のスーパーじゃこうはいかないな~」と千夏。
「ね、なんか……歯でかむと、ちゃんと魚の甘みが出てくる……お醤油もきつすぎないし」
紗奈もゆっくり味わっている。
次に出されたのは、炊き合わせと焼き物。
「炊き合わせ、これ……筍、なす、かぼちゃ……あと湯葉?」
入野が顔を近づけて香りを吸い込む。「……うん、昆布と鰹のダブルで取ってる感じの出汁やな。しみしみ系やでこれは」
「語彙力……でも、あってる……」千夏が笑いながら口に運ぶ。「わ~、染みてる。かぼちゃがね、ちょうどいいの、甘すぎない」
「わかる、なすがトロトロ~」と紗奈も嬉しそうに声をあげる。
焼き物は鮎の塩焼き。頭から尻尾までこんがりと焼き上げられ、皮がパリパリしている。
「うわ、これ……骨ごといけるやつや!」
入野が豪快にかじる。
「ほんとだ、香ばしい~。炭火の香りがちゃんと残ってる」
千夏も夢中になってかぶりつく。
「うん、でもちょっと口の中、骨刺さりそう……」
「ちゃんとゆっくり食べなあかんやつや」
「えかちゃんだけやで、鮎食べて“早食い競争”みたいになるの……」
三人が笑いながら食事を楽しむ中、他の客ともほどよい距離感で、心地よいざわめきが流れていた。
そして、最後は炊きたてのご飯と赤だし、香の物。
「このごはん、粒立ってる……やばい、普通にうまい」
「赤だしもしっかりしてる~」
「香の物が地味に嬉しい……旅館って感じするよね」
デザートには小ぶりな和三盆のプリンと、カットされた季節の果物。
「……うわ、これ……甘っ! でもくどくない!」
「卵のコクあるけど、上品なんだよな~」
そんなふうに、会話も味わいも尽きることなく、三人はお腹も心もいっぱいになっていった。
満足そうに最後のデザートを口に運んだあと、ふと千夏が入野の方を見て、ぼそっと言った。
「……えかちゃんさ、思ってたけど、食レポめっちゃ上手いよね」
「えっ、そう?」
入野はちょっと得意げに笑う。「いやー、ほら、味を伝えるにはな、言葉のセンスと感性が……」
「いや、そうなんだけどさ」
千夏は腕を組み直して、顔だけこっちに向ける。
「普通にごはん食べてるときに、いちいち“この出汁が~”とか“この甘みが~”とか語り始められると、なんか疲れるわ」
「……!?」
「ほら、私とか紗奈とか、“うまいー”で終わるじゃん? もうちょっとこう……黙って食べよ? ってなる」
「いややわ~、せっかくの美味しさを分かち合おうとしてるだけやのに……!」
「じゃあ次からは実況なしでお願いしまーす」
「……それはちょっと無理かも」
「やっぱりね」
紗奈はくすくす笑いながらお茶をすする。
「でも、私えかちゃんの実況、けっこう好きだよ。美味しそうに聞こえるし」
「ほら! な? さなはわかってる~」
「……でも、たまに黙って食べてほしいとは思う」
「うそやん!」
三人のやりとりがまた笑い声を呼び、まるで料理の余韻まで甘くなるような、そんな夜だった。
夜の帳が静かに降りて、温泉と食事で満たされた身体がふんわりと布団に沈む感覚。
部屋に戻った三人は、浴衣のままくつろぎモード。テーブルの上にはコンビニで買ったお菓子やちょっとしたおつまみ、そしてそれぞれのドリンクが並んでいた。
「とりあえず、乾杯やな」
入野がビール缶を掲げる。
「うん、かんぱーい」
「かんぱーい」
紗奈はジュース、千夏は缶チューハイを軽くカチンと鳴らしてから、それぞれ一口。
少しして、千夏がくるっと紗奈の方を向いた。
「そういやさ、さな。八月のお盆、なんか予定あんの?」
「んー……たぶん、じいちゃんのお墓参りかな。まだ決まってないけど、毎年行ってるから、多分そうなると思う」
「へぇ、律儀やな」
入野が口を挟む。
「えかちゃんは?」
「私はたぶん仕事。うち、お盆休みとかないし……現場入ってるとずらせないから」
「だろうねー」千夏は頷きつつ、「私も墓参り行くと思う。まぁ、親に言われるままだけどさ」
「ねえ、じいちゃん何歳で亡くなったん?」
入野の何気ない問いかけに、紗奈が静かに答える。
「……三年前。八十歳だった」
「大往生やなぁ」入野が缶を軽く揺らしながらしみじみに言うと、紗奈がちょっとだけ照れたように笑った。
「お母さんから聞いたんだけどさ、若い頃は結構モテてたらしいよ、うちのじいちゃん」
「え、まじ?!」千夏が身を乗り出す。
「うん、なんか“昔のイケメン”だったって……おばちゃんがよく言ってた」
「え、それイケメンって意味、当時と今で違うんじゃない?」と入野が首をかしげる。
「私もよくわかんないけど……でも“顔が整ってた”って、言ってたなあ」
「それ絶対、今の感覚で言う“薄い顔の昭和系ハンサム”でしょ?」千夏が笑いながら缶チューハイを一口。
「でも、なんか……イケメンって言葉も、もう古くない?」紗奈がぽつりと言うと、入野がすぐ反応した。
「たしかに……今、誰も言わへんな。てか、昔は“イケてるメンズ”って意味やったらしいで?」
「え……うそでしょ」
「いや、マジマジ。前に検索してびっくりしたもん。今って“メンズ”って言葉自体、もう死語じゃない?」
「昭和語やん、それもう」
三人とも吹き出すように笑ったあと、ふっと夜が落ち着いた空気に戻った。
「……でもさ、またどっか行きたいね」
千夏の声がふわりと部屋に落ちる。
「うん。お盆過ぎて涼しくなった頃、また集まろ?」
「いいね、今度は海外もアリやな……宇宙はちょっとまだ高いけど」
「いやいや、それは宝くじ当ててからにして!」
「じゃあ地上で我慢するか……ん、台湾とか、北海道とかさ」
「温泉ばっか行ってるな、私たち」
「ええやん、女子は温泉に還る生き物やねん」
静かな笑いのあと、部屋の照明がゆっくり落とされる。
ごろりと布団に身を預けた三人は、それぞれの呼吸のリズムで、心地よい眠りへと溶けていった。

【翌朝】

朝の光がカーテンの隙間から静かに差し込む。
入野が目を覚まし、背伸びをしながら小さく「あぁ~……」と声を漏らす。
「……よっしゃ、朝風呂行こか」
起こされるまでもなく、千夏もふわっと起き上がり、続いて紗奈もぼんやりと目を開ける。
三人はもう一度、湯の恵みに身を浸し、その後、名残惜しさを抱きながら旅館をチェックアウトするのだった。
帰りの新幹線、座席に深くもたれかかりながら、それぞれスマートレンズをぼんやりと眺めたり、景色を見たり、眠ったり。
会話は少なくなっていたけれど、その静けさが心地よくて、三人の間には言葉以上の温もりが流れていた。
埼玉に着いて、改札前。荷物を持ったまま、三人が名残惜しそうに立ち止まる。
「……じゃあ、またね」
入野が静かに言った。
「うん、また絶対行こう」
千夏も小さく頷く。
「……あかん……泣きそう……」
紗奈が鼻をすすりながら笑った。
「え、早いな!」
「帰りやぞ、まだ別れてへんのに!」
「……だって……楽しかったんだもん……」
そのまま目がうるっとして、紗奈の涙がこぼれ落ちた。
「ちょ、さな……泣かんといてや……こっちまで来る……」
「……もうっ」
千夏も目をそらしながら、バッグのストラップを強く握ってた。
三人は自然に寄っていって、そのままぎゅっと抱き合った。
「……じゃあ、ほんまにまたな」
入野が最後にそう言って、ふわっと手を振った。
それぞれ別々の改札を抜け、別々のホームへ。
それでも、心のどこかではまだ三人がつながっているような、そんな確かな感じが残っていた。
自宅に戻った入野は、荷物を玄関に置き、ジェリーにむかえられ、ジェリーを抱っこして、靴を脱いでそのまま部屋の奥へ。
いつもの静けさ。スリッパを引きずりながら、一歩ずつ歩を進める。
ふと、目に入った玄関マットの向こう。

「あー……カーペット……」

くしゃくしゃになって、乾ききっていないそれを見て、入野は小さくため息をついた。

完。
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大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

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