人生最後のセックス

皐月 ゆり

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第一話

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 あれが最後のセックスになると知っていたら、もっと彼にしてあげたのに。もっと触れ合う肌全部で彼を感じようとしたのに。
 それなのに最後のセックスの手触りも、いつしたのかも私は覚えていない。

 彼が突然亡くなってから一ヶ月以上が過ぎた。
 享年三十四歳。心筋梗塞。若い頃の喫煙か、忙しさにかまけての運動不足か。歳のせいかなと、体のだるさや動悸などの体調不良に愚痴をこぼしていた彼。その中に初期症状があったかもしれないが、今更何をいっても仕方ない。
 結婚して十二年。子供はいない。あんなに望んでいた彼との子を産むことはもうできない。
 夫婦仲は我ながらものすごくよかった。セックスだってそんなに少ない方ではなかったと思う。それでも最後が思い出せないくらい期間が開いてしまったのは、彼の仕事の忙しさのせいばかりではない。
 休みの日は一緒の部屋で一日中ゆっくり過ごした。ゲームをしたり映画を見たり。ハグもキスもいっぱいした。それでもそんな雰囲気にならなかったのは、互いの体温をそばに感じるだけで心が満たされ、まどろむような心地好さにどっぷりとつかっていたからだったと思う。
 激しく互いを求めあうようなセックスではなく、ただ互いを愛し、慈しみながらするスローセックスがほとんどになった時から、私たちの性欲はセックス以外でも満たされるようになったのかもしれない。
 いつでもセックスはできるもの。そんな確信が私たちにはあって、それがセックスを遠くしていた。
 夜間の仕事があるからと別々の部屋で寝た翌朝。時間になっても起きてこない彼を起こしに行くと、彼は冷たくなっていた。
 いつまでも続くと思っていた彼との生活はいきなりその幕を閉じた。
「そろそろこの部屋を出る準備をしないとなんだけどなぁ」
 ソファーに座ったまま部屋を見渡す。部屋の隅に畳まれたままのダンボール箱が、自分の仕事はまだかまだかと待っているようだった。
 無理して働かなくてもいいよ。彼の優しい言葉に甘えてパートの短時間勤務で働いていた私に、この部屋で一人暮らしを続ける程の収入はなく、仕事を増やして頑張る気力もなかった。
 夫の突然死に腑抜けてしまった私を両親が心配して、すぐにでも帰って来いといってくれたのに、四十九日まではと無理いって私はまだこの部屋で暮らしている。
 続けてきたパートは辞めた。実家から通うには遠かった。家にこもる私を母が三日に一度くらい見に来る。その時ばかりはなんとか笑顔を作るが、それ以外の時間は彼の写真を見返しては当時を思い出して、微笑ましく笑ったり、泣いたりした。
 さびしい。彼が恋しい。降り積もる思いに、叶わぬ願いに押しつぶされそうな日々を送っていた。
 ピンポーン。
 部屋にチャイムの音が鳴り響く。
 窓の外は明るさが残っているものの日は沈み、こんな時間に訪ねてくる友人も荷物が届く予定もなかったはずだが。母が忘れ物でも取りに戻ったのだろうか?
 無理して顔の筋肉を動かして笑顔の準備を整えると、外を確認せずにドアを開けた。
 そこに立っていたのは紛れもなく彼だった。
「はるちゃん……?」
 時間が止まった。幻覚を見る程追い詰められていたのかと思った。
「菜乃葉、ただいま」
 しかし、聞き慣れた優しい声と柔らかな笑顔に、なんだっていいと思ってしまった。夢でも幻でも、もう一度彼と一緒に過ごせるなら。ドアを大きく開けて彼を迎え入れる。彼が家の中に入る。ドアを閉めて振り返った。
 玄関に彼が立っている。ずっと恋しく思っていた彼が私をぎゅっと抱きしめる。
 恋しかった体温に包まれて、私の目からは涙が溢れた。
「ずっと会いたかったよ……」
 彼が私の首元に顔を擦りつけながらそういった。
「私も、私もずっと会いたかった……」
 続けたい言葉はたくさんあった。伝えたい気持ちも。寂しかった、なんで突然私を一人にしたの、愛してる。だけど思いが溢れ過ぎてどれも出てこない。出てくるのは涙と嗚咽だけだった。彼の胸で、世界一安心なその場所で、声を出して泣きじゃくっていた。
 頭と背中を撫でながら、彼は私を受け止める。
「菜乃葉、寂しい思いさせてごめんね。でも、今だけはそばにいるから」
 たくさん泣いて少し落ち着くと、彼がそういってまた強く抱きしめてくれる。
「はるちゃん、ずっとそばにいて」
 そういうと腕の力が弱まり、見上げると彼が首を横にゆっくり振って真剣に見つめてくる。
「そう長くはいられないんだ。菜乃葉、ある言葉をいったり、いわれたりすると、すぐに戻らないといけなくなるんだ。だから、あんまりしゃべらないって約束してくれる?」
 大きく頷いた。
 彼と一緒にいられるのなら、溢れる思いを伝えることも全て我慢しようと誓った。
「じゃあ、そろそろソファーにでも座ろうか」
 私たちはソファーに向かう短い距離も手を繋いで歩いた。
 彼曰く、抽選に当たったようなものらしい。期限は夜が明けるまで。または、禁止されている言葉をいうか、いわれた時まで。
 日常会話をするには多分問題ないと思うんだけど。そういう彼だったが、彼が消えたらと思うとしゃべるのが怖くてほとんど口を開けなかった。
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