路地裏のアン

ねこしゃけ日和

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 くちゅんと可愛らしいくしゃみを聞いて鈴原真利奈は我に返った。
 バスタオルを持って小白を包むと呆気にとられていた真広に言った。
「いつまで見てるんですか? 早く戻ってください」
 真広は慌てた。
「え? あ、いや、僕が見てたのはその、耳の方で……」
「どっちでもいいです。ほら早く」
「うん……。出て行くよ……。悪かった……」
 真広は混乱しながらも脱衣所から出て行った。
 廊下に出ると今見たものが本当に現実かどうか分からなくなった。髪の毛がシャワーで立っただけかもしれない。だけどあれはやはり……。
 真広はとにかく居間に向かい、飲みかけの紅茶を飲み干すと深く息を吐いた。
 その頃真理恵は小白の体を拭いていた。小白は痩せていたが肌は柔らかくて張りがあり、自分も昔はこうだったのだと思うと随分歳をとったものだと思った。
「ちょっとひねったら一気に出た」
「そうね。シャワーは古いからあまり使わないの。お湯になるまで時間がかかるって言っておけばよかった」
 真理恵は恐る恐る小白の頭をタオルで拭いた。
 やはり勘違いではない。頭の上に耳がある。それとは別に髪はさらさらで細かった。
 真理恵は現実を受け入れられず溜息をついた。
「……まあ、今はお湯に浸かって温まりなさい。話はあとです」
「でもそれだとねこじゃない。ねこはお風呂きらいだから」
「なんでもいいから温まりなさい。でないと風邪をひきますよ。それこそねこじゃない」
「…………やむなし」
 小白は不服そうだったが風呂場に戻り、湯船に浸かった。
 真理恵は気持ちよさそうにぴくぴく動く小白の耳を見て何度か瞬きをしてからドアを閉める。そして額に手を当てた。
 真理恵が居間に戻ると真広が難しそうな顔で待っていた。
 真理恵は紅茶を飲むと一息ついた。
「……まあ、ああいう人がいるのは知ってましたけど。見るのは初めてですね」
「ああ……。びっくりした。いや、悪い意味じゃない……。ただちょっと面食らったな」
「……そうですね」
 日本は多民族国家である。
 多くを占める大和民族。北海道のアイヌ。沖縄の琉球民族。
 そして瀬戸内海の離島にだけ住むと言われるネコミ族だ。
 ほとんどの特徴はモンゴロイドと一致する。だが独特な進化を遂げた猫のような耳だけは違った。それぞれが独立して動き、遠くの音まで聞き分けることができる。
 一説によるとねこを神とする信仰があったその離島にある日ねこのような耳の子が生まれ、それを神の使いと考えた島民が大切に育て、その子の子孫が何代にも渡り増えていき、島はネコミ族のものとなったそうだ。
 だが難しいことは分かっておらず、今後も分からないままだった。
 とにかく猫の耳をした民族がいるというのが日本人の一般常識であり、誰もが教科書では見るものの、実際に目にした人は限られている。
 それはネコミ族自体が島の外に出ることを嫌っている上、島民以外がその島に上陸することも規制されているからであった。
 現在一万三千人ほどいると言われているアイヌ民族よりさらに少なく、数百人ほどしかいないとされるネコミ族はユネスコから消滅危機民族として注視されている。
 その中の一人が小白であり、当の本人はお湯に肩まで浸かって百まで数えていた。
 しばらくして真広は自分に言い聞かせるよう言った。
「まあ、あれだ。多様性の時代だよ。障害があったり、肌の色が違ったりする人もいるんだ。耳がねこでもいいじゃないか。うん」
「そうですね……。個性的だと言えばそうですし……」
 真理恵もなんとか納得しようとする。
 しかし今の世の中がそういう風潮だと分かっていながらも、頭は追いついてなかった。
 唯一の救いはこの状況も明後日になれば終わるということだった。
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