路地裏のアン

ねこしゃけ日和

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 真理恵は用事があるからと言って珍しく定時で帰った。
 電車に乗るといつもは乗り継ぎにしか使わない駅で降りた。駅前の喫茶店に入ると奥の席で懐かしい顔が手を振る。
 前園良子は真理恵の幼なじみだった。地元の高校を卒業後、東京の大学に行ったが就職を機にこちらに戻り、職場で見つけた男と結婚。今は三人の子供を育てている。
 真理恵が良子と会うのは三年ぶりだった。会おうと思えばいつでも会えたが、だからこそ会えないでいた。そして会えない間に良子は随分大きくなっていた。
「久しぶりねえ。まさか真理恵から連絡くれるなんて。仕事は? 忙しいんでしょ?」
「まあ、それなりには。あなたも随分、その……変わったわね」
「そりゃあもう三十五だからね。学生の時みたいにはいれないし、二十代の時みたいに体力もないわ。でもそれは真理恵もでしょ?」
「そうね。寝るのが早くなったわ」
「そうそう。早く起きてお弁当作らないといけないしねえ。ちょっと動いただけで疲れちゃうの」
 真理恵はその大きなお腹のせいではと思ったが、言わなかった。良子はニコリと笑った。
「今、太ったって思ったでしょう?」
「え? いや、まあ、少しは」
「あはは。旦那にもしょっちゅう言われるわ。でもしょうがないわよ。子供を産むとどうしてもねえ。みんな言ってるわ。真理恵はいいわね。痩せてて」
 子供を産まないと分からない苦労だと言われたみたいで真理恵は少しムッとした。
 一方の良子は頼んだカフェオレとシロノワールが来て喜んでいる。クリームをスプーンで掬うとおいしそうに食べた。
「それで? ようやく決まったってこと?」
「決まった? なにが?」
 真理恵は全てお見通しという顔をする良子に怪訝な顔をした。
「結婚よ。もういい歳なんだし、子供を産むにもしても大変になる頃だわ。誰か良い人がいるんでしょ? でも彼がまだ結婚する気がないとか?」
 真理恵は溜息をついた。
「勝手に決めないで。結婚はしないし、生憎そんな相手もいません」
「あら。じゃあなんの話? 旅行とかなら無理よ。上の子は部活があるから土日も大変なの。旦那は全然手伝ってくれないしね。やるのはゴミ捨てだけ。男の人って不思議よね。あれで全ての家事を手伝ってるみたいな顔ができるんだから。料理だってそう。カレーしか作れないくせに俺は得意だって思い込んで。真広君を見習ってほしいわ。昔家に行った時、色々と作ってくれて。今でも覚えてるわ。あれはおいしかった。真広君は元気?」
 真理恵はあれこれと話し続ける良子に嫌気が差しながらも頷いた。
「ええ。元気よ。最近は特に」
「あら。よかったじゃない」
「よかった?」
「ほら。その、お母さんが亡くなって一番ショックだったのは真広君でしょう? ずっと面倒を看てきたんだから」
「それは……まあ……」
「でしょう? だから心配だったの。子供が熱を出したから葬式にはいけなかったし、特にね。ほら。男の人ってなにか夢中になるものがないと元気ないじゃない。うちの旦那も模型が好きだったんだけど、子供が産まれて家も狭くなったし、お金も必要だからってやらなくなったのよ。そしたら元気なくしちゃって。だからあたしがたまには作ったらって言ってあげたの。それからは楽しそうにやってるわ」
 真理恵は兄のことを考えていた。母が亡くなってから元気がなかったが、今では随分楽しそうだった。そういう意味では小白に感謝しないでもない。だが、だからと言って問題がないわけでもない。
「それで?」良子は聞いた。「なんの話なの? 真広君が変な女に引っかかってるとか?」
「まあ、ある意味そうね」
「あらら。そういう経験なさそうだしねえ。お金でも貢いでるの?」
「まだその方がよかったかもしれない。それなら私は関係ないから」
「どういう意味?」
 真理恵は小さく息を吐き、覚悟を決めて告げた。
「子供よ。今うちで女の子を預かってるの。五才の」
 全くの予想外だったらしく、良子はポカンと口を開けて固まった。動揺しながらカフェオレを飲み、紙ナプキンで口元を拭く。
「それは…………誘拐ってこと?」
「兄さんが? やめてよ。親戚の子です。その、ちょっと訳ありの子なんだけど」
「障害でもあるの?」
「……どうかしら。ある意味ではそれに近いのかもしれないわね。その子自身はわりと利口な感じはするけど。でも普通でないのはたしかね」
「よく分からないわね」
 良子は色々と想像していているみたいだったが、まさか小白にねこの耳が生えているとまでは考えない。
「それにしてもあなた達が子供をねえ……」
 良子は意外そうにしながらも、どこか呆れていた。
「子供を育てるのって大変よ。ずっと気が抜けない。特に一人目はね。寝ても覚めても子供のことばかり考えて、なにかあったらどうしようって思ってたわ。二人目からはまあ、それもなくなったけど。お兄ちゃんも面倒見てくれるしね。だけど子供が事故に遭ったりするニュースを見ると怖いわ。いくら気を付けなさいって言っても子供は不注意だから」
「それは、ちょっと分かるわ」
 真理恵が小白を思い出して同感すると良子は鼻で笑った。
「だといいけど。とにかく本当に大変よ。子育ては。毎日予想外のことばかり」
 良子は自分をすごく見せるために多少は誇張したが、それを聞いて真理恵は不安そうにする。
「でしょうね……。その、言うことも聞かないし」
「そうよ。子供も泣くけど、本当に泣きたいのはこっちだわ。ちょっと興味を持ったらすぐそっちに行っちゃうんだから。なにが面白いか分からないものをずっと眺めて。それでこっちの予定が何度狂わされたか。無理矢理連れて行こうとするとぐずるし」
 良子はやれやれとかぶりを振ってシロノワールをパクパクと食べる。
 真理恵はそういう子と比べると小白は大人しい方なんだろうなと思った。だが小白はそれとはまた違う問題を抱えていた。
「それで」良子は口を開いた。「その子はいつまで預かるの?」
「……それが結構長くなりそうなのよ。だけど私達は仕事があるし。だからどこかに預かってもらおうと思ったんだけど」
「幼稚園は無理よ。ただでさえ受かるの大変なのにこの時期からなんて。大体夕方には迎えに行かないとダメだし、私立は高いわ。今からだと認可外の保育園になるんだろうけど、どうなんでしょうね。次男の時に一度行ってみたけど狭かったわ。遠かったし。だからパートに行く間はおばあちゃんに頼んだの」
「ベビーシッターは?」
「そんなお金あるの?」
「……いいえ」
 真理恵は途方に暮れて溜息をついた。
 それを前に良子はほら大変だと言わんばかりにカフェオレを飲み干す。
「まあ、こればっかりは色々と探してみるしかないわね。あたしも大変だったから。悪いけどこっちも三人で手一杯だから協力はできなさそうだけど」
「……それは分かってるわ。色々と教えてくれてありがとう」
 お礼を言われ、良子は満足そうだった。
「まあ、子育てのことならなんでも聞いて。なんせ三人も産んで育ててるんだから」
 普段はなにも思わない真理恵だが、この時ばかりは良子を尊敬した。
「あなたってすごかったのね」
「あはは。今更気付いたの? 世の中の母親はみんなが思うよりよっぽどすごいのよ」
 自慢げに笑う良子を見て、真理恵は少し羨ましく思った。その大きなお腹以外は。
 どちらにせよ真理恵はまだそんな風に笑えない。そうするには知らないことが多すぎた。
「今日は奢るわ」
「あら本当? じゃあおかわりしないと」良子は嬉しそうに笑った。「冗談よ。もちろん。ねえ真理恵」
「なに?」
「もしよかったら味噌カツパンをわけっこしない?」
 真理恵は呆れながら溜息をつき、先ほどの尊敬を取り消した。
「好きにしたら」
 結局良子は運ばれてきた三分の二をぺろりと平らげた。真理恵は三分の一個で十分だと思いながら、これだけ食べれば太るわけだと納得した。
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