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翌日。真理恵は憂鬱な気持ちを残しつつ会社に向かった。
満員電車とまではいかないがそれなりの混み具合で、ここ数年立ったまま会社の最寄り駅まで行く割合が多かった。
こういう時、職場が家の近くにある兄が羨ましくなる。痴漢騒ぎで朝からげんなりすることもないだろう。
真理恵は珍しく職場に行きたくないと思っていた。厳密に言えばある人物に会うのが億劫だった。
だが昨日小白にああ言ってしまったので、今更会わないという選択肢は取れない。
子供に言ったから親はしっかりしないといけないのだとすると、世にいる親が大人びて見えるのは子供のおかげかもしれない。
家族や友達、恋人との約束は破れても、子供との約束を破るのは忍びないから。
真理恵は少し前に会った老婆のことを思い出し、苦笑した。だがすぐに周囲の目を気にして笑みを消し去った。
いつも降りる駅に着くと定期券で混んだ改札を通った。職場まではここから歩いて五分ほどだ。人の流れに乗れる安心感と虚無感を覚えながら真理恵はいつも通り余裕を持って会社へと続く道を歩いた。
会社に着き、しばらくすると朝礼で上司がマニュアルの変更点などを話し、それをメモする。それが終わると自分の席に着き、時間が来ると電話が鳴り出す。
真理恵は慣れた様子で疑問や苦情に答えていく。仕事をしている時は自分の感情を引き出しにしまっていた。それができないとお客に潰されることを知っていたから。
ただの疑問を聞いてくる客はまだいいが、いくら言っても理解してくれない人も多い。クレームを言いたいだけの客もいて、そういった人はこちらが感情的になると益々熱くなるため、冷静な対応が求められる。ほとんどはただ話を聞いてもらいたいだけだった。
なら私達の話は一体誰が聞くのだろうか。
真理恵は仕事をしながらそんなことを考えていた。同時に答えはもう出ていることに気付いた。
昼休みを終え、再び仕事が始まる。そして間に小休憩が取られた。水分補給やトイレなどはその間に済ませないといけない。休んでいる間も同僚は働いているため、時間をずらして少しずつ取る。
真理恵が社内にある自販機に向かうとその前で松下と出会った。子供のことについて尋ねてから、真理恵はなにかと相談していたが今日は会いたいようで会いたくなかった。
松下は真理恵を見つけると疲れた笑みを向けた。
「お疲れ様です。また無糖コーヒー売り切れてますよ」
「あら。じゃあ増やしてもらわないとね」
真理恵はそう言いながら緑茶のペットボトルと買った。そして蓋を開けずに重そうな口を開ける。
「……その、大変みたいね……」
「あはは……」松下は苦笑した。「そうなんですよ。うちの子、ちょっと手がかかる子で。だから突然休むこととか午前だけ出られないとかあって、そこがダメだったみたいです。言ってはいたんですけどね。最近ちょっと多かったんで、まあ」
松下は笑っていたが納得はいってないみたいだった。諦めが多くを占めている。
松下が契約更新されない。真理恵がそのことを知ったのは昨晩のことだった。会社から休みが多いと派遣会社にクレームがあったらしい。
普段ならそのことについてそれほど心が動かされることのない真理恵だが、松下がシングルマザーだと知っていたので気が気でなかった。
真理恵は松下が一生懸命仕事に励んでいることを知っていた。もちろん休みが多いとは思ったが、それも今なら子供がどれだけ手がかかるか理解できる。
「その、なんて言ったらいいか……」
「大丈夫です」松下は気丈に振る舞う。「こういうこともあるってことは分かってたんで。次のところも紹介してくれるみたいだし。少しはお給料下がっちゃうみたいですけど。でも意外でした。鈴原さんってそういうことに無関心だと思ってましたから。その、悪い意味じゃなくて、仕事に熱心というか。むしろ休みが多くて怒ってる気がしてて」
図星だった真理恵は口をぎゅっとつぐんでから苦笑し、頷いた。
「かもしれないわね。仕事に熱心というか、それしかなかったから。家のことも嫌いだったし、他にこれといってやることもなかったわ。だからせめて仕事はちゃんとしようと思ってて。ええ。そうね。今思えばイヤな女だわ。真面目で付き合いが悪くて、派遣のくせに妙な義務感がある。その対価はもらってないのに」
真理恵は自分に対して呆れていた。そして松下に向き合うと言いたかったことを言った。
「その、私も養子をもらうつもりなの」
それを聞いて松下は目を見開いた。
「養子ですか? あ。もしかして言ってた子を?」
真理恵は頷いた。
「ええ。その、まだ本決まりってわけではないけど。だから、なんて言うか、あなたのことが他人事とは思えなくて……。だって、しょうがないじゃないですか」
松下は困り笑いを浮かべた。
「そうですけど、やっぱりこっちの問題でもありますからね……。大手企業に就職した子とかは手厚くサポートされるみたいですけど、あたしは派遣ですから」
「まあ、自業自得だと言われればそうかもしれないけど、だけどやっぱりそれだけじゃない気がして……」
真理恵は溜息をついてから落ち着き、謝った。
「ごめんなさい。あなたの方がしっかりしてるわね。それはそうか。先輩なんだから」
「いえ。あたしなんて全然ですよ。やっぱり困ってますもん。だけど一人じゃないから悩んでばっかりいられないというか。そんな余裕もないんで」
「そう……。そうね。子供は待ってくれないものね」
「そうです。本当にワガママばっかりで。でもいいんです。あたし一人だとダメですから」
松下は苦笑していたがその瞳の奥には強さがあった。
真理恵は心底松下を尊敬した。そして目を見て伝えた。
「その。これだけは言っておきたかったの。あなたは悪くないわ。本当に。何一つ。それだけは分かっておいて」
さっきまで強さがあった松下の瞳が微かに潤んだ。だがすぐに強さを取り戻し、微笑む。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります。そうですよね。あたしはなにも悪いことしてないですもんね」
「ええ。私が保証するわ。その、頼りないでしょうけど」
「いえ。ありがたいです。まあ、分かってるんですけどね。あたし、がんばってるんで」
真理恵が頷くと松下は嬉しそうに笑った。
「だけど大変ですよ。本当に。子供って予測不能ですから。鈴原さんもがんばってください。お互いがんばりましょう」
すると真理恵は急に不安がった。
「……できるかしら?」
「さあ。でもやらないと」
「……そうね」
真理恵は小さく嘆息する。二人は顔を見合わすと互いに微笑んだ。
元気付けるはずが逆に励まされた。真理恵は照れながらも気が晴れていた。
なによりも伝えてよかったと思えた。
問題は解決しなくても、前には進んだ。それが一番大事なのかもしれない。
真理恵はそう思いながらも、がんばっている人の人生が良い方向に進んでくれないもどかしさに寂しくなった。
満員電車とまではいかないがそれなりの混み具合で、ここ数年立ったまま会社の最寄り駅まで行く割合が多かった。
こういう時、職場が家の近くにある兄が羨ましくなる。痴漢騒ぎで朝からげんなりすることもないだろう。
真理恵は珍しく職場に行きたくないと思っていた。厳密に言えばある人物に会うのが億劫だった。
だが昨日小白にああ言ってしまったので、今更会わないという選択肢は取れない。
子供に言ったから親はしっかりしないといけないのだとすると、世にいる親が大人びて見えるのは子供のおかげかもしれない。
家族や友達、恋人との約束は破れても、子供との約束を破るのは忍びないから。
真理恵は少し前に会った老婆のことを思い出し、苦笑した。だがすぐに周囲の目を気にして笑みを消し去った。
いつも降りる駅に着くと定期券で混んだ改札を通った。職場まではここから歩いて五分ほどだ。人の流れに乗れる安心感と虚無感を覚えながら真理恵はいつも通り余裕を持って会社へと続く道を歩いた。
会社に着き、しばらくすると朝礼で上司がマニュアルの変更点などを話し、それをメモする。それが終わると自分の席に着き、時間が来ると電話が鳴り出す。
真理恵は慣れた様子で疑問や苦情に答えていく。仕事をしている時は自分の感情を引き出しにしまっていた。それができないとお客に潰されることを知っていたから。
ただの疑問を聞いてくる客はまだいいが、いくら言っても理解してくれない人も多い。クレームを言いたいだけの客もいて、そういった人はこちらが感情的になると益々熱くなるため、冷静な対応が求められる。ほとんどはただ話を聞いてもらいたいだけだった。
なら私達の話は一体誰が聞くのだろうか。
真理恵は仕事をしながらそんなことを考えていた。同時に答えはもう出ていることに気付いた。
昼休みを終え、再び仕事が始まる。そして間に小休憩が取られた。水分補給やトイレなどはその間に済ませないといけない。休んでいる間も同僚は働いているため、時間をずらして少しずつ取る。
真理恵が社内にある自販機に向かうとその前で松下と出会った。子供のことについて尋ねてから、真理恵はなにかと相談していたが今日は会いたいようで会いたくなかった。
松下は真理恵を見つけると疲れた笑みを向けた。
「お疲れ様です。また無糖コーヒー売り切れてますよ」
「あら。じゃあ増やしてもらわないとね」
真理恵はそう言いながら緑茶のペットボトルと買った。そして蓋を開けずに重そうな口を開ける。
「……その、大変みたいね……」
「あはは……」松下は苦笑した。「そうなんですよ。うちの子、ちょっと手がかかる子で。だから突然休むこととか午前だけ出られないとかあって、そこがダメだったみたいです。言ってはいたんですけどね。最近ちょっと多かったんで、まあ」
松下は笑っていたが納得はいってないみたいだった。諦めが多くを占めている。
松下が契約更新されない。真理恵がそのことを知ったのは昨晩のことだった。会社から休みが多いと派遣会社にクレームがあったらしい。
普段ならそのことについてそれほど心が動かされることのない真理恵だが、松下がシングルマザーだと知っていたので気が気でなかった。
真理恵は松下が一生懸命仕事に励んでいることを知っていた。もちろん休みが多いとは思ったが、それも今なら子供がどれだけ手がかかるか理解できる。
「その、なんて言ったらいいか……」
「大丈夫です」松下は気丈に振る舞う。「こういうこともあるってことは分かってたんで。次のところも紹介してくれるみたいだし。少しはお給料下がっちゃうみたいですけど。でも意外でした。鈴原さんってそういうことに無関心だと思ってましたから。その、悪い意味じゃなくて、仕事に熱心というか。むしろ休みが多くて怒ってる気がしてて」
図星だった真理恵は口をぎゅっとつぐんでから苦笑し、頷いた。
「かもしれないわね。仕事に熱心というか、それしかなかったから。家のことも嫌いだったし、他にこれといってやることもなかったわ。だからせめて仕事はちゃんとしようと思ってて。ええ。そうね。今思えばイヤな女だわ。真面目で付き合いが悪くて、派遣のくせに妙な義務感がある。その対価はもらってないのに」
真理恵は自分に対して呆れていた。そして松下に向き合うと言いたかったことを言った。
「その、私も養子をもらうつもりなの」
それを聞いて松下は目を見開いた。
「養子ですか? あ。もしかして言ってた子を?」
真理恵は頷いた。
「ええ。その、まだ本決まりってわけではないけど。だから、なんて言うか、あなたのことが他人事とは思えなくて……。だって、しょうがないじゃないですか」
松下は困り笑いを浮かべた。
「そうですけど、やっぱりこっちの問題でもありますからね……。大手企業に就職した子とかは手厚くサポートされるみたいですけど、あたしは派遣ですから」
「まあ、自業自得だと言われればそうかもしれないけど、だけどやっぱりそれだけじゃない気がして……」
真理恵は溜息をついてから落ち着き、謝った。
「ごめんなさい。あなたの方がしっかりしてるわね。それはそうか。先輩なんだから」
「いえ。あたしなんて全然ですよ。やっぱり困ってますもん。だけど一人じゃないから悩んでばっかりいられないというか。そんな余裕もないんで」
「そう……。そうね。子供は待ってくれないものね」
「そうです。本当にワガママばっかりで。でもいいんです。あたし一人だとダメですから」
松下は苦笑していたがその瞳の奥には強さがあった。
真理恵は心底松下を尊敬した。そして目を見て伝えた。
「その。これだけは言っておきたかったの。あなたは悪くないわ。本当に。何一つ。それだけは分かっておいて」
さっきまで強さがあった松下の瞳が微かに潤んだ。だがすぐに強さを取り戻し、微笑む。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります。そうですよね。あたしはなにも悪いことしてないですもんね」
「ええ。私が保証するわ。その、頼りないでしょうけど」
「いえ。ありがたいです。まあ、分かってるんですけどね。あたし、がんばってるんで」
真理恵が頷くと松下は嬉しそうに笑った。
「だけど大変ですよ。本当に。子供って予測不能ですから。鈴原さんもがんばってください。お互いがんばりましょう」
すると真理恵は急に不安がった。
「……できるかしら?」
「さあ。でもやらないと」
「……そうね」
真理恵は小さく嘆息する。二人は顔を見合わすと互いに微笑んだ。
元気付けるはずが逆に励まされた。真理恵は照れながらも気が晴れていた。
なによりも伝えてよかったと思えた。
問題は解決しなくても、前には進んだ。それが一番大事なのかもしれない。
真理恵はそう思いながらも、がんばっている人の人生が良い方向に進んでくれないもどかしさに寂しくなった。
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