路地裏のアン

ねこしゃけ日和

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 時間は真広と真理恵が病院に出掛ける前へと巻き戻る。
「お昼過ぎには帰ると思います。遅くなったら先にお昼ごはんを食べておいて。それと今日は外に出ないこと。いい?」
 小白が頷くと二人は家を出た。古いエンジン音が遠ざかるのを聞きながら小白は昨日会った牧師のことを考える。
 ねこは決して祈らない。祈るは人だけ。
 ならば小白はどちらなのか?
 小白は過去に三度、祈ったことがあった。
 一度目は母親が倒れた時。二度目は母親が入院した時。三度目は母親が帰らなかった時。
 助かってほしい。無事でいてほしい。戻ってきてほしい。
 小白は必死の思いでそう願った。
 だが現実は祈るだけで全てが思い通りにいくほど甘くはない。
 母親は中々帰ってこず、小白はそれを身をもって学んだ。
 だからあれから小白は祈っていない。だがその前は祈っていた。
 なら人からねこになってきているのかもしれない。小白はそう思った。
 ねこになれば母親とまた会える。また話せる。だからこれは良い兆候だった。
 だがねこになったあとのことは考えていなかった。
 蒼真は人間も悪くないと言った。それは最近小白が思っていたことだった。
 ねこと人間の狭間で揺れながら小白は俯いて耳を触った。母親から受け継いだ唯一のもの。これだけが小白の支えだった。なにもなくてもこの耳があれば寂しくない。
 小白は一人窓の外を見上げた。朝は晴れていたが少しずつ雲が出てきた。そのせいでもう太陽は見えない。
 小白がぼんやりしていると家の電話が鳴り出した。
 すると小白はなぜか不安になった。出るべきかどうか悩んだが、出ないといけない気がした。
 恐る恐る受話器を取り、小さな声で「はい」とだけ言うと聞き覚えのある声がした。
「小白か。俺だ」
 小白は顔を明るくして「おじちゃん?」と聞き返した。
「おう」と高野は答えた。「元気にしてるか?」
「うん」
「そうか。そっちはどうだ?」
「ふつう。でもそんなにわるくはない。最近はクソガキとワガママ女と遊んであげてる」
「へえ。友達ができたのか。よかったな」
「友達じゃないけど、まあ、それなりには。今度はお祭り行く約束してあげたくらい」
 小白が嬉しそうに話すと高野は安心したようだった。
「そうか。なら作戦続行だ。お前はそこで暮らせ」
「うん。でもおかあさんが戻ってくるまででしょ?」
「……おう。そうだ。それまで頑張れるか?」
「うん。おかあさんが帰ってきたらおじちゃんも一緒にごはん食べる」
 笑顔の小白に対し、高野は少しだけ黙った。そして覚悟を決めて口を開く。
「……いや、俺とはもう会わない方が良い」
「………………え?」
 小白は高野がなにを言ってるのか分からなかった。
 予め伝えられていた作戦では高野が職を探す間、小白は真広達の家に住み、ある程度したらまた一緒に暮らして母親を待つ算段だった。
 高野は言った。
「いいか? よく聞け。お前はこれからもそこで二人と暮らすんだ」
「え? なんで?」
 小白は急な命令に不安がった。
「その方がいいからだ。前も言っただろ? 今はウイルスのせいで不況なんだ。だから中々仕事が見つからない。そしたらお前もごはんが食べれなくなる。家だってそうだ。あの団地はもう引き払った。今は住んでない」
「じゃ、じゃあおじちゃんもここで一緒に住んだら?」
「それもダメだ。俺は大人だからな。よそのうちでは住めない。だけどお前は別だ。子供なら問題ない」
 そこで高野は咳き込んだ。苦しそうなうめき声を聞いて小白は益々不安になった。
 小白が心配して声をかける前に高野は続けた。
「お前はそこでお母さんを待て。大丈夫。良い子にしてればちゃんと来てくれる」
「でも――」
「ちゃんと学校行って勉強しろ。好きなものを見つけて夢中になれ。一緒にいてくれる人達を大事にしろ。自分の居場所を見つけて、休める場所を作れ」
 そこまで言って高野は苦笑した。
「全部俺が否定してきたことだ。やらなかったことだ。だからこそ分かる。お前は俺みたいになるな。面倒でも、煩わしくても、幸せになるために生きてくれ」
 高野の声は安堵で満ちていた。だが小白の胸中はイヤな予感で満ちていく。
「おじちゃん? どうしたの? またおなか痛いの?」
 心配する小白に高野は最後に安堵して言った。
「小白。あの日、俺を頼ってくれてありがとう。お母さんによろしくな」
 そこで電話が切れた。寂しい沈黙が小白の耳に寂しく響く。
 小白はなにが起こっているのかまるで分からなかった。ただ、イヤな予感は続いていた。
 それは母親が病院に行く前に感じたものと恐ろしいほど似ていた。
 いてもたってもいられなくなる小白だが、どこに行けばいいのか分からない。
 それでもじっとしていることはできなかった。感じ取った高野の危機にどうにかしてあげたかった。
 そこに、声が聞こえた。
「いつだってあなたが思い描くままに動くべきだわ」
 小白が振り返ると掃き出し窓の外に小さな猫影があった。後ろでは雲が完全に青空を遮っている。
「アン……」
 小白はアンを見つけてホッとしながらも胸騒ぎがしていた。アンは笑った。
「希望はその人を更に良い場所へと連れてってくれる唯一の魔法よ。だからあなたはそれに手を伸ばさなければならないわ」
「で、でも……」
 戸惑う小白にアンは鋭く言った。
「希望を否定すれば全てを失うわ。願いや、祈りも。もう、お母さんにも会えなくなる」
 小白はゾッとした。それは小白にとって最も恐ろしいことだった。
 アンは再びニコリと笑った。
「だから行きましょう。希望を失わない為に。いつだって美しい世界を思い描くの。あなただって分かってるはずよ。わたしはその為にいるんだから」
 そう言うとアンは踵を返した。
「さあ。あなたらしく、あなたがしたいことをしましょう」
 小白は震えていた。不安で胸が押しつぶされそうになる。
 それでも小白はアンに近づくために一歩を踏み出した。
 なによりも希望を失うことが恐ろしかった。
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