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土砂降りの中、真広と真理恵は小白を連れて駐車場に駐めてあった車に戻った。
真広は運転席、真理恵は後部座席で小白の濡れた髪や体をタオルで拭いていた。
「どこか怪我はない?」
真理恵の問いに小白はかぶりを振った。前髪が揺れていくつか水滴が下に落ちる。いつもはピンと立っている耳もぺたんとしていた。
小白がくちゅんとくしゃみをすると真理恵は運転席にいる兄に言った。
「コンビニかどこかに寄ってタオルを買いましょう。できれば服も」
だが真広は返事をしない。真理恵が不思議に思っているとバックミラーに真広の顔が映っていた。兄は眉をひそめ、口を一文字に結んでいた。
「兄さん?」
真理恵が不思議がっていると真広は葛藤の末に口を開いた。
「…………なぜ、勝手に出て行ったりしたんだ?」
いつもは優しい口調の真広だが、この時ばかりはその優しさも影を潜めた。
小白は動揺しながらも俯いて答えた。
「…………だって、おじちゃんがしんどそうだったから………………」
それを聞いて真理恵が寂しそうに微笑む。
「それでお母さんを呼びに行ったの?」
小白は少し間を置いて頷いた。
予想が合っていたことから真広は喜ぶかと思っていたが、真理恵が見た兄は違った表情を浮かべていた。
そこでようやく真理恵は真広が怒っているのだと気付いた。怒っている兄を真理恵は初めて見た。
「だからと言って」真広はなるべく落ち着こうとして続けた。だがその節々から怒っているのが分かった。「僕達になにも言わず出て行くのは良くない」
小白は俯いて口を尖らせた。だがなにも答えずもじもじと手を動かす。
真広は大きく息を吸い、そして静かに吐いた。
「心配した。とても心配したんだ。事故に遭ったんじゃないかとか、事件に巻き込まれたんじゃないかとか。とにかく気が気じゃなかった。こんな思いはもう、したくない」
「兄さん……」
真理恵は真広の気持ちが痛いほどよく分かった。同時に安堵してばかりの自分が甘いことも悟った。
ここでなにも言えなければ小白はまた同じことを繰り返すかもしれない。もしそうなれば次は無事に戻ってくるとは限らなかった。
今の二人にはそれがなによりも恐ろしいことだった。
「だから次からは勝手に遠くへ行っちゃダメだ。いいね?」
それは命令ではなくお願いでもなく、教えだった。相手のことを思うから出た言葉だ。
普段の真広ならこんな風に自分の気持ちを伝えることはなかった。だがたとえ嫌われても小白のためになるなら、小白が無事育ってくれるならそれでよかった。
小白は口をぎゅっとつぐんだ。次第に瞳から涙がポロポロと溢れてくる。
横にいた真理恵もバックミラーで小白の様子を見ていた真広も驚いた。
小白は顔をぐしゃぐしゃにし、ただでさえ濡れている体をさらに涙で濡らした。
「…………だって、……だって、おじちゃんが………………」
震えるその姿はまるで子供のようだった。同時に真広と真理恵は今まで自分達が小白を子供扱いしていなかったことに気付いた。どこかこの子は強いこだと思い込んでいた。
だがが小白はまだ五才なのだ。どれだけ強くあろうとしても限界はある。
「おじちゃんがいなくなったら、うちはまた一人になるから…………っ!」
胸に秘めていた不安を口に出すと、益々涙が止まらなくなった。
「お、お母さんもおじちゃんとは仲良しだったから、もう会えなくなると悲しいと思って……。うちも、うちもねこになったらお母さんに会えるし、そしたらお母さんもおじちゃんに会えるし……。だから……、だから…………」
「小白……」
慰めようとする真理恵の手を小白は振り払った。
「うちのお母さんはお母さんだけだ……っ!」
その一言で二人はあの夜の会話を聞かれていたことを悟った。それが小白を不安にしていたことも。
新しいお母さんができれば本当のお母さんとはもう二度と会えなくなるかもしれない。そう考えても決して不自然ではなかった。
もしそうなれば微かにあった希望も絶たれる。小白を強くいさせてくれた希望を失う。
これ以上に恐ろしいことはなかった。
だから小白はねこになりたかった。ねこになれば求めていたものが全て手に入る。
母親と再開でき、他人と違う耳のことを気に病むこともなく、自由気ままに生きられる。
一緒に住んでいた高野とも離れ離れになった今、小白は失うものなどない。
そのはずだった。なのに、小白は今動揺している。
求めていたはずのものと手に入れてしまったものの狭間で揺らいでいた。そのことに罪悪感を持ったからこそ涙が止まらない。
居心地の良さと母への申し訳なさに加え、恩人の危機まで重なったせいで感情を脳が処理しきれなくなっていた。
その姿に真広と真理恵は自分を重ねていた。
大好きで助けるべき母親の介護に青春を奪われ、次第に人生を諦めていった。
だがもしそうしなければ一体どんな人生が待っていたのだろうか。自分達と他人の間に線を引き、求めるべきハードルを低くしていくようなことにはならなかったのではないか。
あの時というほど明確な時点はないが、それでもなにかアクションを起こしていれば未来は変わったかもしれない。
結局二人はそれができず、一方の小白はとにかく動いた。それは微かな差だが、明確な違いを生んだ。だからこそこうして話している。
小白の思いを知れた真広は深く息を吐き、小さく頷いた。
「それでいい」
小白は鼻を啜りながら顔を上げた。
真広は前を向いたままもう一度頷いた。
「小白の言いたいことは分かった。どうしたいのかも。それは、尊重すべきだ。お父さんになるとかお母さんになるとか、そんなのは大人の願望だからな。大事なのはそういう呼び名じゃない」
後部座席で真理恵も頷いた。
「そうですね……。この子に相談もなく決めることではなかったですね……」
「ああ。だからこうしよう。もうしばらく一緒に住んで、それで小白がうちを気に入れば家族になろう。僕のことをお父さんと思う必要はないし、妹をお母さんと呼ぶ必要はない。ただ一緒に暮らす家族になるんだ。もちろんイヤなら断ればいい。だけど結論を出すのはもう少し先にしないか?」
穏やかに話す真広に対し、小白は手で涙を拭いて尋ねた。
「じゃあ、お母さんはお母さんのまま?」
「もちろん。それは永遠に変わらない」
小白は真理恵に尋ねた。
「……おじちゃんにも会っていい?」
「ええ。会いに行きましょう。きっと喜ぶわ」
小白は二人に尋ねた。
「ねこになるのも?」
二人は苦笑しながら頷いた。真広は頷く。
「夢は持つべきだ。どんな夢でもね」
すると小白はゆっくりとはにかんだ。
「…………じゃあ、もう少しいる。お母さんも多分、ゆるしてくれると思うから」
健気な小白に真理恵は泣きそうになるのを我慢しながら頷き、タオルで頭を拭いた。
真広もまた今はまだ伝えるべきでないと思った。もう少し落ち着いてからでいい。なにもかも受け止められるほど小白は強くないし、また強さを求めるべき年齢でもない。
伝えれば前に進める。それが分かった今、真理恵は後悔していた。母親に対してもう少し自分の気持ちを伝えていればまた違った今があったのかもしれない。
貧しさや不自由さを我慢し、それが過ぎるまで待つのも手だが、やはり時間がかかる。
母親だけでなく、友人や大人に現状を伝えていればなにかが変わっていた可能性もあった。
だがそのせいで小白に会えないのであれば、やはり自分達の選択は正しかったのかもしれない。真広と真理恵は双子らしく同じ事を考えていた。
いつの間にか雨が止み、雲が流れていくのを眺めて真広は言った。
「そろそろ帰ろうか」
真理恵が「ええ」と頷くと三人を乗せた車は静かに走り出した。
真広は運転席、真理恵は後部座席で小白の濡れた髪や体をタオルで拭いていた。
「どこか怪我はない?」
真理恵の問いに小白はかぶりを振った。前髪が揺れていくつか水滴が下に落ちる。いつもはピンと立っている耳もぺたんとしていた。
小白がくちゅんとくしゃみをすると真理恵は運転席にいる兄に言った。
「コンビニかどこかに寄ってタオルを買いましょう。できれば服も」
だが真広は返事をしない。真理恵が不思議に思っているとバックミラーに真広の顔が映っていた。兄は眉をひそめ、口を一文字に結んでいた。
「兄さん?」
真理恵が不思議がっていると真広は葛藤の末に口を開いた。
「…………なぜ、勝手に出て行ったりしたんだ?」
いつもは優しい口調の真広だが、この時ばかりはその優しさも影を潜めた。
小白は動揺しながらも俯いて答えた。
「…………だって、おじちゃんがしんどそうだったから………………」
それを聞いて真理恵が寂しそうに微笑む。
「それでお母さんを呼びに行ったの?」
小白は少し間を置いて頷いた。
予想が合っていたことから真広は喜ぶかと思っていたが、真理恵が見た兄は違った表情を浮かべていた。
そこでようやく真理恵は真広が怒っているのだと気付いた。怒っている兄を真理恵は初めて見た。
「だからと言って」真広はなるべく落ち着こうとして続けた。だがその節々から怒っているのが分かった。「僕達になにも言わず出て行くのは良くない」
小白は俯いて口を尖らせた。だがなにも答えずもじもじと手を動かす。
真広は大きく息を吸い、そして静かに吐いた。
「心配した。とても心配したんだ。事故に遭ったんじゃないかとか、事件に巻き込まれたんじゃないかとか。とにかく気が気じゃなかった。こんな思いはもう、したくない」
「兄さん……」
真理恵は真広の気持ちが痛いほどよく分かった。同時に安堵してばかりの自分が甘いことも悟った。
ここでなにも言えなければ小白はまた同じことを繰り返すかもしれない。もしそうなれば次は無事に戻ってくるとは限らなかった。
今の二人にはそれがなによりも恐ろしいことだった。
「だから次からは勝手に遠くへ行っちゃダメだ。いいね?」
それは命令ではなくお願いでもなく、教えだった。相手のことを思うから出た言葉だ。
普段の真広ならこんな風に自分の気持ちを伝えることはなかった。だがたとえ嫌われても小白のためになるなら、小白が無事育ってくれるならそれでよかった。
小白は口をぎゅっとつぐんだ。次第に瞳から涙がポロポロと溢れてくる。
横にいた真理恵もバックミラーで小白の様子を見ていた真広も驚いた。
小白は顔をぐしゃぐしゃにし、ただでさえ濡れている体をさらに涙で濡らした。
「…………だって、……だって、おじちゃんが………………」
震えるその姿はまるで子供のようだった。同時に真広と真理恵は今まで自分達が小白を子供扱いしていなかったことに気付いた。どこかこの子は強いこだと思い込んでいた。
だがが小白はまだ五才なのだ。どれだけ強くあろうとしても限界はある。
「おじちゃんがいなくなったら、うちはまた一人になるから…………っ!」
胸に秘めていた不安を口に出すと、益々涙が止まらなくなった。
「お、お母さんもおじちゃんとは仲良しだったから、もう会えなくなると悲しいと思って……。うちも、うちもねこになったらお母さんに会えるし、そしたらお母さんもおじちゃんに会えるし……。だから……、だから…………」
「小白……」
慰めようとする真理恵の手を小白は振り払った。
「うちのお母さんはお母さんだけだ……っ!」
その一言で二人はあの夜の会話を聞かれていたことを悟った。それが小白を不安にしていたことも。
新しいお母さんができれば本当のお母さんとはもう二度と会えなくなるかもしれない。そう考えても決して不自然ではなかった。
もしそうなれば微かにあった希望も絶たれる。小白を強くいさせてくれた希望を失う。
これ以上に恐ろしいことはなかった。
だから小白はねこになりたかった。ねこになれば求めていたものが全て手に入る。
母親と再開でき、他人と違う耳のことを気に病むこともなく、自由気ままに生きられる。
一緒に住んでいた高野とも離れ離れになった今、小白は失うものなどない。
そのはずだった。なのに、小白は今動揺している。
求めていたはずのものと手に入れてしまったものの狭間で揺らいでいた。そのことに罪悪感を持ったからこそ涙が止まらない。
居心地の良さと母への申し訳なさに加え、恩人の危機まで重なったせいで感情を脳が処理しきれなくなっていた。
その姿に真広と真理恵は自分を重ねていた。
大好きで助けるべき母親の介護に青春を奪われ、次第に人生を諦めていった。
だがもしそうしなければ一体どんな人生が待っていたのだろうか。自分達と他人の間に線を引き、求めるべきハードルを低くしていくようなことにはならなかったのではないか。
あの時というほど明確な時点はないが、それでもなにかアクションを起こしていれば未来は変わったかもしれない。
結局二人はそれができず、一方の小白はとにかく動いた。それは微かな差だが、明確な違いを生んだ。だからこそこうして話している。
小白の思いを知れた真広は深く息を吐き、小さく頷いた。
「それでいい」
小白は鼻を啜りながら顔を上げた。
真広は前を向いたままもう一度頷いた。
「小白の言いたいことは分かった。どうしたいのかも。それは、尊重すべきだ。お父さんになるとかお母さんになるとか、そんなのは大人の願望だからな。大事なのはそういう呼び名じゃない」
後部座席で真理恵も頷いた。
「そうですね……。この子に相談もなく決めることではなかったですね……」
「ああ。だからこうしよう。もうしばらく一緒に住んで、それで小白がうちを気に入れば家族になろう。僕のことをお父さんと思う必要はないし、妹をお母さんと呼ぶ必要はない。ただ一緒に暮らす家族になるんだ。もちろんイヤなら断ればいい。だけど結論を出すのはもう少し先にしないか?」
穏やかに話す真広に対し、小白は手で涙を拭いて尋ねた。
「じゃあ、お母さんはお母さんのまま?」
「もちろん。それは永遠に変わらない」
小白は真理恵に尋ねた。
「……おじちゃんにも会っていい?」
「ええ。会いに行きましょう。きっと喜ぶわ」
小白は二人に尋ねた。
「ねこになるのも?」
二人は苦笑しながら頷いた。真広は頷く。
「夢は持つべきだ。どんな夢でもね」
すると小白はゆっくりとはにかんだ。
「…………じゃあ、もう少しいる。お母さんも多分、ゆるしてくれると思うから」
健気な小白に真理恵は泣きそうになるのを我慢しながら頷き、タオルで頭を拭いた。
真広もまた今はまだ伝えるべきでないと思った。もう少し落ち着いてからでいい。なにもかも受け止められるほど小白は強くないし、また強さを求めるべき年齢でもない。
伝えれば前に進める。それが分かった今、真理恵は後悔していた。母親に対してもう少し自分の気持ちを伝えていればまた違った今があったのかもしれない。
貧しさや不自由さを我慢し、それが過ぎるまで待つのも手だが、やはり時間がかかる。
母親だけでなく、友人や大人に現状を伝えていればなにかが変わっていた可能性もあった。
だがそのせいで小白に会えないのであれば、やはり自分達の選択は正しかったのかもしれない。真広と真理恵は双子らしく同じ事を考えていた。
いつの間にか雨が止み、雲が流れていくのを眺めて真広は言った。
「そろそろ帰ろうか」
真理恵が「ええ」と頷くと三人を乗せた車は静かに走り出した。
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