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〇75 一方的に婚約破棄されたとある貴族令嬢の想いと、その令嬢が立ち直るまで
しおりを挟むあの人にもらったものは、全て水底に沈めた。
船の上から手を出したら、そこからポロポロと零れ落ちていく。
太陽の光を受けて、キラキラと輝いていたいくつもの宝石たちは、小さな水しぶきをあげて。
透明な水に包まれ、陽の光の届かない深海へ落ちていった。
私の胸に抱いた恋心も、いつか見えない場所に消えていくのだろう。
私は一か月ほど前の出来事を思い出す。
婚約破棄の事実を受け取めるまで時間がかかった。
関係を切り捨てる方は、すぐに忘れられるかもしれないけれど。
切り捨てられた方は、そうはいかない。
これが合意の上でなされた決断だったならば、苦しまずに済んだかもしれない。
どちらも立場は、平等なのだから。
けれど、相談もなくなされたそれが示すのは、勝者と敗者を作った。
勝者がつかんだのは、気に入らない人間と関りを断つ権利。
敗者がつかまされたのは、整理しようのない疑問と不安。
一方的に汚名を着せられて、侮辱されて、関係を断たれてしまったならば、どうする事もできない。
話し合って、何が原因だったのか明らかにする事も。
自分と相手に対する感情に整理をつける事もだ。
あったかもしれない無数の可能性が、泡となって儚く消えて。和解と納得のいく別離に至る、そんな可能性が、根こそぎ消えてしまったのだ。
何かを成す時は、そこに至るまで努力を積み重ねなければならない。
けれど、手段がなければどうしようもなかった。
十年以上も付き合いのある青年と結んでいた結婚の約束が消えた。
その日から、私は屋敷に引きこもるようになった。
いや、自分の部屋すら、出られなくなってしまった。
部屋から出ずとも生活できる環境があったから、そうなってしまったのかもしれない。
そして、それを許してくれる優しい人たちがいたから。
両親は優しく声をかけてくれた。
使用人も心配してくれる。
時折り友人達が訪ねてきて、扉の向こうから近況を報告してくれる事だってある。
しかし私は、彼らの想いに報いる事ができなかった。
整理のつかない感情を抱えたまま、元婚約者から受けた悪意が胸の中で荒れくるうまま、部屋でじっとしているだけ。
言葉一つ発する事すら、できない。
おそらく私の心は、元婚約者である青年から切り捨てられたその日に、深い深海へ沈み込んでいってしまったのだろう。
冷たく暗く誰の目も届かない、自力では浮き上がる事のできない場所に。
それでも、月日は流れる。
私が何かしなくても、確実に時は流れていく。
一週間、一か月と経つ頃には、この現状を何とかしようという焦りすら、暗い海の底に沈んでいってしまった。
淀む思いの色は、変色し汚れたヘドロのような有様になっていった。
荒れる胸の中の感情は、私の手足を縛り、重りを加え続けていた。
自然と私は、そのひどい状態のまま、朽ちていく事を望むようになっていた。
けれど、そこに転機が訪れた。
これまで私を思いやって、部屋の前で声をかけ続けるだけだった友人が、初めて室内に入ってきた。
そして、私が望んでいない事を行った。
友人は私を外に連れ出し、人がいる場所を歩かせ、人がいる場所で食事をさせて、人がいる場所で色々な話をきかせた。
それは情報の塊だった。
色々な物が、想いが力が奔流となって、私の中に押し寄せてくる。
心配そうな人たちの目線が、行動が、言葉が、針の様につきささる。
しかし痛みすら伴うそれらの刺激が、麻痺していた感情を揺り動かしたのかもしれない。
長い間一人だった世界に、空虚だった心に、色々なものが押し寄せてきた。
私は彼と一緒に歩きながら気力を取り戻したかった事を思い出し、
食事をしながら生きたい事を思い出し、
話しをしながら悲しかった事を思い出していった。
以前と同じようになった、とまではいかないものの、昨日までの自分とははっきりと違うと言える自分がそこにいた。
だから私は、過去も今も、未来もなかった今までの自分に決別をしたいと思った。
部屋から出た私に両親は、新しい環境で心も体も休養させるために、保養地へ向かう事を進めてきたので、従う事にした。
もしそこで、私があの痛みから立ち直る事がるならば、婚約者だった彼からもらった物は全て捨ててしまおうと思った。
保養地は海の上に浮かぶ孤島にあるというので、暗く深い深海にまいて、絶対に人の目の届かない所に隠してしまおう、と。
けじめをつける事も出来ない、決着させることもできない思い出を、鈍く傷み続ける恋心と共に。
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