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1巻
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プロローグ
猛暑の名残がすっかり消え去り、風がひんやりと冷たくなった十月の夜。
「怖いか?」
深澤咲良は、自身を組み敷く男性の瞳をじっと見つめた。
怖いか、という問いかけに対する答えに悩んだのは、わずかな時間。
正直に言えば、まったく怖くないとは思えない。咲良にとって、これから先のことは未知の世界。漫画やネットから得た知識はあっても、それはあくまで目で見ただけのこと。
改めて自分が当事者になり、そこに足を踏み入れることになると考えると、小さな恐怖心や不安はあった。
けれど、目の前にいる彼――堂本桜輔のことを怖いとは思わない。彼はいつだって、咲良を思いやってくれている。優しく気遣い、宝物を扱うように大切に接してくれる。
それを知っているからこそ、これから自分の身に触れるのが桜輔であるということは咲良にとって〝怖いこと〟ではなかった。
そう思い至り、首をゆるゆると横に振る。すると、彼の双眸が柔和な弧を描いた。
桜輔の瞳はいつも優しい。見た目は武骨そうだが、内面は生真面目。無愛想で取っ付きにくそうな雰囲気を纏っているのに、咲良に向けられる視線は穏やかなものばかりだ。
一八〇センチ台後半で筋肉質な体躯の彼は、小柄な咲良よりも三〇センチほど身長が高いが、組み敷かれている今も咲良に体重をかけないように気遣ってくれているのがわかる。
「咲良が怖がることはしない」
「うん」
桜輔の視線が、咲良の二重瞼の瞳を真っ直ぐ見つめる。
華奢な身体に似合わないたわわな胸の下まで伸びた髪を、優しく梳いてくる。それから、骨ばった手が滑らかな頬に触れ、ぷっくりとした唇をそっと撫でた。
「精一杯優しくするから、咲良は何も考えなくていい。リラックスして、全部俺に委ねて」
咲良が困り顔になり、微笑を零す。
「難しいです……」
「それもそうか」
「だって……桜輔さんと一緒にいるだけでもまだドキドキするのに、今は桜輔さんのベッドで……ドキドキしすぎてリラックスなんてできないよ……」
眉を下げたままの咲良に、今度は彼も困ったように眉を顰める。
「そういう可愛いことを言わないでくれ」
「え?」
「これでも、必死に理性を保ってるところなんだ」
咲良の頬がかあっと朱に染まる。
その表情を見た桜輔が喉仏を上下させ、何かを堪えるように息を吐いた。
「……ダメだな。話せば話すほど、手加減できなくなりそうだ」
何もかもが初めての咲良には、その言葉にどう返せばいいのかわからない。
彼は、咲良の心情を見透かすように苦笑を漏らした。
「じゃあ、とりあえず俺だけに集中して」
それならもうとっくにしている、と言いそうになって、咲良は口を閉じる。
これ以上何か言えば、また羞恥に見舞われてしまいそうだったから。
ふと、咲良の顔に影がかかる。桜輔の顔が近づいてくる予感に、咲良は瞼をそっと閉じた。
触れるだけの柔らかなキス。次いで、甘やかすように唇が食まれる。
結んだ唇を解き、また結んでは離れて……。ゆったりとした口づけが、静かに繰り返される。
春の陽だまりのように穏やかで優しい幸せに包まれて、自然と彼に身を任せ始めていく。いつの間にか、恐怖心も不安も溶けていた。
ゴツゴツと骨ばった手が、ニットの中にそっと入ってくる。陶器のごとく白い肌に触れられても、咲良はその温もりにすべてを委ねるように受け入れた。
心も、身体も、桜輔と重ね合いたい。
素直な気持ちのままに腕を伸ばしたとき、風の音がどこか遠くで聞こえた。
第一章 はじまりの訪れ
一 春の終わりの憂鬱
日中の気温は夏を思わせる日だった、五月某日。
ネイリストとしてネイルサロンで働く咲良は、六階建てのビルの四階に店舗を構える『Mahalo』を後にし、自転車で帰路に就いた。
ダークブラウンの髪が風になびく。仕事中にはだいたい一つに纏めているせいで、天然パーマに加えて結んでいた跡がついているが、自転車に乗っているおかげで誰にも気づかれないだろう。
一五五センチのやや小柄な身体で夜風を受けながら、そろそろ上着はいらないかもしれない……と考える。
クリーム色の七分袖のシフォンブラウスと膝下丈のシフォンスカートは、どちらも薄手の生地ではあるが、体感温度はちょうどいい。昼休憩でランチを摂りに出たときは暑いくらいだった。
(でも、まだ寒い日もあるかな?)
その悩みは、途中で立ち寄ったスーパーの室温が低かったことであっさり解決し、もうしばらく上着は持っていこうと決めた。
アプリでチェックしていた広告を参考にカゴに食材を入れていき、お気に入りのフルーツヨーグルトも放り込む。会計を済ませると再び自転車に乗り、周囲を気にしながらもペダルを漕いだ。
五分もせずして見えた三階建てのアパートの自転車置き場に、ブラウンとホワイトのバイカラーの自転車を止めた。
エントランスのドアに鍵を差し込んで開錠し、背後を確かめるように振り返る。誰もいないことを確認して片開きのドアを開け、足早に二階へと続く階段を上がっていった。
人生で二度目の引っ越しをするとき、最重視したのは治安と防犯性だった。オートロックであることや一階ではないことも重要で、空いていた部屋のうち咲良が選んだのは二〇七号室である。
寝室が八帖。1DKの自分だけの小さな城。
玄関もベランダもキッチンも狭すぎるが、トイレとバスルームがセパレートタイプなのは嬉しかった。収納スペースが少ないが、できる限り物を増やさないように意識が働くため、それはそれで良かったのかもしれない。
咲良はサッとシャワーを浴びると、キッチンに立った。
今夜のメニューは焼きそばだ。昨日観た動画で紹介されていた海鮮塩焼きそばに心を惹かれ、今日は絶対に同じレシピで作ると決めていた。
ベッドの前のローテーブルに完成した焼きそばと麦茶を淹れたグラスを置き、タブレットを起動する。『アニマルハプニング集』の文字が目に留まり、テーブルの片隅でそれを流しながら「いただきます」と呟いて箸を取った。
咲良は、二年制の専門学校でネイルについて学び、現在は『JNEC』の一級、そしてジェルネイルには必須の『J NA技能検定試験』で上級の資格を取得している。
通常、サロンでネイリストとして採用されるには、二級ネイリストの資格で充分だ。しかし、あえてそれぞれの試験で一級と上級まで目指したのは、いずれ独立したいと考えているためである。
今は、都内に四店舗を構えるマハロでネイリストとして働きながら技術を磨き、開業資金をコツコツ貯めている。目標金額にはまだ及ばないが、夢のためだと思うと努力もつらくはない。
食後はすぐに片付けを済ませ、ネイルのデザインを考える。
ネットやSNSで写真を探すだけの日もあれば、自分で撮った写真を見返してインスピレーションを得ることもある。
写真は、自然豊かな公園や美術館、イルミネーションが開催されている施設や、カフェで食べたスイーツなど、様々なものを撮影している。
意外なものが参考になることも多く、自然と趣味と実益を兼ねるようになった。
イメージをイラストに描くかネイルチップにデザインするかはその日によるが、ネイルのデザインを考えるのはほとんど日課と言ってもいい。この時間が楽しみの一つでもあった。
(あ、明日の準備もしておかなくちゃ)
ふと時計を確認した咲良は、イラストをキリのいいところまで描いてから手を止め、チェストから収納ボックスを出した。
中心から両開きのファスナーを開けると、三十六本のマニキュアが並んでいる。蓋の裏側のビニールポケットには、筆やシールといった道具を入れており、咲良にとって大事なものだ。
明日は、月に一度のボランティアの日。
特別養護老人ホーム『ひだまり』に赴き、利用者たちにネイルやハンドマッサージを施す。
こういうボランティアがあると知った二年ほど前から始めたことで、シフトに合わせて月に一度ひだまりに訪問している。
そのボランティアの日が、今月は木曜日の明日なのだ。
シフト制で働くネイリストという職業柄、訪問日は固定できないが、先方はできる限り咲良の希望を通してくれるため、ボランティアを続けてこられた。
咲良はマニキュアや道具に不備がないか確認しながら、明日を待ち遠しく思っていた。
ひだまりは、三階建ての施設である。
一階は事務所とデイサービスに使用され、二階はショートステイの利用者、三階は入居者専用となっており、ボランティアは三階の入居者を対象としている。
咲良が施術するのは希望者だけだが、毎回ほぼ全員が希望する。そうなるとデイサービスやショートステイの利用者まで捌き切れず、結果的に入居者のみを対象にすることになっているのだ。
「今日はどんな色にしますか?」
「そうねぇ……この間は桜色だったから、藤色みたいな紫なんかどうかしら? 梅雨にはまだ早いけど、紫陽花のような色はある?」
咲良の問いに、順番を待っていた堂本セツがウキウキしたように笑った。瞳を輝かせる姿はまるで少女のようで、ネイルチェンジを楽しみにしてくれていたことが伝わってくる。
「ありますよ。これは少し濃い色で、こっちは淡い色なんですけど……紫陽花ならこれかな」
「あら素敵。これがいいわ」
二本のマニキュアを出して見せると、セツが淡いパープルのビンを手に取り、目を細めた。
セツの手を消毒し、前回塗ったマニキュアを落としてから油分などの汚れを拭き取っていく。
人間の爪は年齢を重ねると薄くなったり弱くなったりするため、負担をかけないように手早く前処理を施し、ベースコートを塗っていった。
咲良は、『福祉ネイリスト』の認定も受けている。
JNECやJNA技能検定試験同様、福祉ネイリストも国家資格ではない。ただ、ボランティアをするにあたってもっと高齢者や福祉に対する知識を深めたいと思い、この認定は数日で受けられると知ったことで、すぐに受講した。
結果的に、認定試験を受けて良かったと思う。介護に対しても少しだけ学ぶことができたし、介護者にネイルを施すときの注意点なども勉強できた。
たとえば、昨今の主流であるジェルではなくマニキュアを使用するのは、急変や急病で治療や入院が必要になった際に早急に適切な治療を受けられるようにするためである――というのも、福祉ネイリストの講座で習ったことである。
病院で脈拍などを測るとき、ジェルネイルをしていると正確な数値が計測できないが、ジェルは簡単に落とせるものではない。マニキュアなら除光液で除去できるが、一般的なジェルは機械で削らなければいけないのだ。
それも、機械である程度削ってからジェル専用のリムーバーを浸したコットンで爪をしばらく包み、ジェルが柔らかくなったところで再び機械を使用して綺麗に取り除いていく……という手間がかかる工程が必要である。また、爪への負担も大きい。
ジェルネイルというのは爪の表面に傷をつけることでジェルを密着させるため、爪を薄く綺麗に削り、甘皮や油分といった汚れを取り除かなければいけない。
実際のところ、よほど手の込んだアートでもしない限り、ジェルネイルはアートよりも除去や前処理の方に時間がかかる。さらには、ネイルアートをするにあたり、ベースコート・カラー・トップコート用のジェルを乗せるたびにLEDライトで硬化させなくてはいけない。
健康的な人間であっても、人によってはLEDライトを熱く感じることもあり、肌が弱くなったり爪が薄くなったりしている高齢者には火傷などのリスクが高まる。医療的な観点はもちろん、身体的な負担を考えてもあまり向いていないのだ。
こういうことをきちんと勉強できたからこそ、ネイリストとしてだけではなく、福祉ネイリストとして提供できることも考えるようになった。
「セツさん、もし良かったら紫陽花のイラストを描きましょうか?」
「そんなことできるの?」
「簡単なものでよければできますよ。あ、こういうシールもあるんですけど」
ネイルボックスからウォーターネイルシールを出し、使い方を説明する。
「これは水に浮かべたらイラスト部分が剥がれるようになってて、それを爪に置くんです。色々な種類があるんですが、紫陽花もありますよ」
「今はそんなに便利なものがあるのねぇ」
感心するセツに、咲良が百円均一で購入できることを告げると、優しげな目が真ん丸になった。
「こんなに素敵なものが百円なの? すごいわ」
少女のように楽しそうなセツに、咲良はふふっと笑う。
ボランティアという形式上、あまり高額なものは購入できない。
ひだまりは良心的で、材料費は施設側で持ってくれるが、だからといって咲良が仕事で使用するような道具を揃えることは難しい。そこで百円均一というわけだ。
マニキュアは肌に優しい原料のものを選んでいるため、安価なもので揃えることはできなかったが、シールや筆といった道具は百円均一のものでも充分まかなえる。
今はクオリティの高い製品が店頭に多く並んでおり、経費節約という観点でも百円均一は宝箱のような場所だった。
「本当にすごいですよね。ここでボランティアをさせていただくようになってから、こういうものを探すのが楽しみになりました」
「私も新しいものを知れて嬉しいわ。せっかくだから、このシールを使ってもらえる?」
「はい。とびきり可愛くしますね」
シールを貼り、最後にトップコートを塗ってネイルドライヤーでしっかりと乾燥させる。
薬指には、パールの入ったオフホワイトをベースにして紫色の紫陽花のシールを。それ以外の指には淡いパープルをベースにして、人差し指のみ紫陽花の花びらのシールを貼った。
「今日も素敵! 咲良ちゃんのおかげで爪がとっても可愛くなったし、この歳になってもおしゃれが楽しめるなんて幸せだわ」
満面の笑みを咲かせたセツに、咲良は充足感を抱く。
ネイリストとしての咲良が一番好きなのは、たぶんこの瞬間だ。
客や利用者たちは、新しいネイルに彩られた自身の爪を見ると必ず笑顔になる。
子どものように無邪気だったり、うっとりとしたように目を細めたり、頬を綻ばせたり……。喜び方は人それぞれだが、誰もが明るい表情を見せてくれる。それがとても嬉しかった。
「明後日は孫が面会に来てくれるから、見せびらかすわね。あの子は無愛想だし、女心なんてちっともわかってくれないんだけど」
不満げに言いながらも、セツの表情からは孫の来訪を心待ちにしている様子が窺えた。
施術中、利用者たちは色々なことを話してくれる。世間話に始まり、自分の趣味や生い立ち、家族のこと。
セツが話すのは家族のことが多く、特に孫の話題が群を抜いている。
自身には息子と娘がおり、息子には二人の男の子が、娘には男女一人ずつの子どもがいて、息子夫婦とその長男だけは定期的に面会に来てくれるのだとか。
そして、息子夫婦の長男というのが、三十四歳で警察官だと聞いている。
咲良は会ったことがないが、セツの話から自慢の孫だというのは伝わってきていた。
「警察官なんてお堅い仕事だからか、元来の真面目さに磨きがかかっちゃって。我が孫ながらいい男だと思うんだけど、ちっとも女っ気がなくて心配になっちゃうわ。咲良ちゃんみたいな素敵な子がお嫁に来てくれたら、私も安心できるんだけど」
聞き慣れた冗談を言うセツに、咲良がクスクスと笑う。
(警察官かぁ。セツさんのお孫さんなら、もしかしたらあのとき親身になってくれたのかな……)
ふとそんな風に思い、咲良の唇からため息が零れた。
「咲良ちゃん、何だか浮かない顔してるわ。何か困り事? 私で良ければ話してね」
セツは、咲良のことをとても可愛がってくれている。
まるで孫の来訪を喜ぶ祖母のように接してくれるため、入居者の中では一番親しい。ちょっとした仕事の悩みなどを聞いてもらうこともあるくらいには、咲良もセツに心を寄せていた。
「困り事っていうほどじゃないんですけど……」
「でも、何かあったんでしょう?」
向けられた真っ直ぐな双眸の優しさに、咲良がおずおずと口を開く。
「最近……待ち伏せされることがあって……」
「待ち伏せ?」
「はい……。少し前に知り合った方なんですけど……」
ぽつりぽつりと話し出した咲良は、悩みと疲労を吐くように深く嘆息した。
事の発端は、一か月ほど前。
同僚たちと花見をしようということになり、職場から程近い場所にある大きな公園に四人で繰り出した。そこへサラリーマンらしき五人組の男性から声をかけられ、咲良以外が快諾したことによって、意図せずに合コンのようなものが始まったのだ。
その中の一人の男性がどうやら咲良を気に入ったらしく、連絡先の交換を求められたが、咲良は丁重に断って一人先に帰路に就いた。
ところが、彼――川辺は咲良の同僚を通して職場を知ったらしく、咲良の与り知らぬところで自宅の最寄り駅まで突き止められていた。
もっとも、同僚は駅名までは教えていないそうだが、『深澤さんの家は職場から一駅だから自転車通勤してる』というようなことを話したのだとか。三週間ほど前から咲良の生活圏内で川辺の姿を見かけるようになったのは、そのせいだろう。
彼は何をしてくるわけでもなく、あくまで偶然を装って声をかけてきただけ。回数にすれば片手ほどのことだが、咲良に警戒心を抱かせるには充分だった。
自意識過剰だと言われても、咲良にはそうなってしまう理由がある。
咲良は、以前まで電車通勤をしていた。
職場から三駅先。そこから徒歩十分。マハロへの就職と同時に始めた一人暮らしは、想像よりもずっと快適で気楽で楽しかったが、それも束の間のことだった。
半月が過ぎた頃、通勤電車内で痴漢に遭うようになったのだ。
ぱっちりとした二重瞼に、ぷっくりした唇。清楚で可愛い系だと言われる顔立ちは、昔から変わらない。近所では『可愛い』と評判の少女だったらしい。
だからなのか、咲良は幼い頃からいわゆる〝狙われやすい子〟だった。
公園で母親が目を離したほんの一瞬の隙に知らない男性に手を引かれそうになったり、ショッピングモールでニヤニヤと笑う大人から話しかけられたり……ということは何度もあり、母親はいつも気を張っていたという。
中学生くらいになると、部活や塾の帰りに知らない男性に声をかけられることが増え、時には家まで付き纏われそうになったこともある。友人と一緒のときや両親が送迎してくれるときは良かったが、一人で帰宅する日には恐怖心と戦いながら全力疾走した。
そんな日々が嫌で、高校も専門学校も自転車通学ができる距離にある学校を選んだ。
しかし、就職後は電車通勤を避けられず、痴漢被害に遭うことが増えたのだ。
電車通勤といっても三駅のため、電車を利用している時間はものの十分弱。幼い頃の経験もあり、最初から目立たないように地味な服装を心掛けたり女性専用車両に乗ったりと、咲良なりにできる限りの自衛はしていた。
それなのに、どういうわけか加害者に目をつけられてしまう。女性車両に乗れなかった日はそう多くないのに、三か月も経たずに脚や臀部を触られるといった被害に十回以上遭った。
痴漢被害に遭えば声を上げればいいと言う者もいるが、現実には恐怖心と不快感で身体が硬直し、いつも身じろぎするだけで精一杯だった。
そして、結局は耐え切れなくなり、自転車通勤ができる今の家に引っ越したのだ。
「警察には相談した?」
「いえ……何かされたわけじゃないですし……。それに、警察に話したところで……」
そこまで言って、ハッと口を噤んだ。
セツの孫は警察官である。セツにとって自慢の可愛い孫と同じ職業に就く人のことを、この場で悪く言いたくはない。
けれど、咲良は警察が何もしてくれないことを知っている。
中学時代、知らない男性に家まで突き止められそうになったとき、母親に連れられて近くの交番に相談に行ったことがあるからだ。
その際に警察官に言われたのは、『パトロールを強化します』ということだけ。なんでも、実害がない限りは警察ができることはほとんどないのだとか。
咲良のように『自宅を突き止められそうになった』程度では動けないらしい。それを聞いて怒った母親の顔と自身に芽生えた絶望感は、鮮明に覚えている。
以来、意図的に男性を避けるようになり、二十七歳になった今ではそれが癖になっていた。
「でも、何かあってからだと遅いでしょう。早く相談した方がいいと思うわ」
セツの言葉はもっともだが、咲良はそれが意味のないことだと知っているため、苦笑いでごまかすことしかできない。
「セツさんもネイル終わったの?」
そこへ介護職員の藤野寛が現れ、セツの爪を覗き込むようにした。
「そうなの。可愛くなったでしょ?」
「本当だね。セツさんがいつも以上に美人に見えるなぁ」
「まあ、藤野さんったら。褒めたって何も出ないわよ」
「僕の下心、バレてたかぁ」
漫才のようなやり取りに、咲良は思わず小さく笑ってしまう。彼の登場によって先ほどの話が終わったことにホッとし、二人の会話を聞きながらマニキュアや道具を片付けていった。
「咲良ちゃん、事務長が『次のボランティアの日を相談したいから帰る前に来てほしい』って」
「わかりました」
男性が苦手な咲良だが、藤野とは出会ったときから比較的普通に話せた。
彼の穏やかな話し方や男性にしては華奢な外見は、いい意味で警戒心を抱かせない。細い目にかけられた丸縁の眼鏡が真面目そうな性格に似合っていて、猫毛っぽい黒髪からも柔らかな雰囲気が漂っている。
父親と四歳下の弟、親戚以外の男性では唯一、彼が緊張せずに話せる相手かもしれない。
「じゃあ、今日はこれで失礼します。来月もよろしくお願いします」
「うん。またよろしくね」
「咲良ちゃん、気をつけてね」
藤野に続けられたセツの言葉には、挨拶以上の『気をつけて』が込められていた。
咲良はその気遣いを受け取るようににっこりと微笑んでお礼を告げ、「またセツさんにお会いできるのを楽しみにしてますね」と返した。
二 不意打ちの笑顔
六月に入ると、初夏とは思えない暑い日が続くようになった。
咲良が出勤する八時過ぎには日差しが強いことも多く、日中は三十度を超える日ばかり。寒さ対策だった上着は、今は日除けのための夏用のカーディガンに変わった。
「今月の新作は、夏っぽいものが増えたね」
「はい。まだ梅雨のデザインも人気ですが、夏のデザインを選ばれる方が増えてきましたよ」
マハロでは持ち込みデザインにも対応しているが、定額制の三種類のコースが一番人気である。
五月の新作デザインは梅雨を連想させる傘や紫陽花のアートが並んでいたが、今月からは貝殻やサンゴのような海のデザインが加わった。希望すれば過去のデザインを選べるところもマハロのリピーターに好評だが、多くの客は新作のデザインを選ぶ。
咲良の今のネイルは、淡いパープル系のシェルを並べたり手描きの紫陽花を施したりと、梅雨を意識したデザインにしている。
「新作も可愛いけど、深澤さんのネイルもいいな。今から紫陽花のデザインって遅いかな?」
三十代前半の女性客は、もう三年以上も咲良を指名してくれている。そのため、こんな風に気さくに相談されることも多い。
「そんなことないですよ。まだ梅雨入りもしてませんし、一か月後くらいなら紫陽花も咲いてるでしょうからいいと思います」
「じゃあ、今日は深澤さんと同じデザインにしてもらっていい?」
「はい。ただ、私のネイルは紫陽花の部分が手描きなので、追加料金が発生しますが……」
「全然オッケー! そのネイル、すっごく可愛いし」
「承知しました。カラーはどうされますか?」
その後も相談を受けながらカラーを決めていき、二時間ほどかけて施術を行った。
「お疲れ様。ねぇ、今日この間のお花見のメンバーで飲みに行くんだけど、深澤さんもどう?」
終業後、バックヤードで帰り支度をしていると、同僚の三浦が話しかけてきた。咲良は「お疲れ様」と返してから、首をゆるっと横に振った。
猛暑の名残がすっかり消え去り、風がひんやりと冷たくなった十月の夜。
「怖いか?」
深澤咲良は、自身を組み敷く男性の瞳をじっと見つめた。
怖いか、という問いかけに対する答えに悩んだのは、わずかな時間。
正直に言えば、まったく怖くないとは思えない。咲良にとって、これから先のことは未知の世界。漫画やネットから得た知識はあっても、それはあくまで目で見ただけのこと。
改めて自分が当事者になり、そこに足を踏み入れることになると考えると、小さな恐怖心や不安はあった。
けれど、目の前にいる彼――堂本桜輔のことを怖いとは思わない。彼はいつだって、咲良を思いやってくれている。優しく気遣い、宝物を扱うように大切に接してくれる。
それを知っているからこそ、これから自分の身に触れるのが桜輔であるということは咲良にとって〝怖いこと〟ではなかった。
そう思い至り、首をゆるゆると横に振る。すると、彼の双眸が柔和な弧を描いた。
桜輔の瞳はいつも優しい。見た目は武骨そうだが、内面は生真面目。無愛想で取っ付きにくそうな雰囲気を纏っているのに、咲良に向けられる視線は穏やかなものばかりだ。
一八〇センチ台後半で筋肉質な体躯の彼は、小柄な咲良よりも三〇センチほど身長が高いが、組み敷かれている今も咲良に体重をかけないように気遣ってくれているのがわかる。
「咲良が怖がることはしない」
「うん」
桜輔の視線が、咲良の二重瞼の瞳を真っ直ぐ見つめる。
華奢な身体に似合わないたわわな胸の下まで伸びた髪を、優しく梳いてくる。それから、骨ばった手が滑らかな頬に触れ、ぷっくりとした唇をそっと撫でた。
「精一杯優しくするから、咲良は何も考えなくていい。リラックスして、全部俺に委ねて」
咲良が困り顔になり、微笑を零す。
「難しいです……」
「それもそうか」
「だって……桜輔さんと一緒にいるだけでもまだドキドキするのに、今は桜輔さんのベッドで……ドキドキしすぎてリラックスなんてできないよ……」
眉を下げたままの咲良に、今度は彼も困ったように眉を顰める。
「そういう可愛いことを言わないでくれ」
「え?」
「これでも、必死に理性を保ってるところなんだ」
咲良の頬がかあっと朱に染まる。
その表情を見た桜輔が喉仏を上下させ、何かを堪えるように息を吐いた。
「……ダメだな。話せば話すほど、手加減できなくなりそうだ」
何もかもが初めての咲良には、その言葉にどう返せばいいのかわからない。
彼は、咲良の心情を見透かすように苦笑を漏らした。
「じゃあ、とりあえず俺だけに集中して」
それならもうとっくにしている、と言いそうになって、咲良は口を閉じる。
これ以上何か言えば、また羞恥に見舞われてしまいそうだったから。
ふと、咲良の顔に影がかかる。桜輔の顔が近づいてくる予感に、咲良は瞼をそっと閉じた。
触れるだけの柔らかなキス。次いで、甘やかすように唇が食まれる。
結んだ唇を解き、また結んでは離れて……。ゆったりとした口づけが、静かに繰り返される。
春の陽だまりのように穏やかで優しい幸せに包まれて、自然と彼に身を任せ始めていく。いつの間にか、恐怖心も不安も溶けていた。
ゴツゴツと骨ばった手が、ニットの中にそっと入ってくる。陶器のごとく白い肌に触れられても、咲良はその温もりにすべてを委ねるように受け入れた。
心も、身体も、桜輔と重ね合いたい。
素直な気持ちのままに腕を伸ばしたとき、風の音がどこか遠くで聞こえた。
第一章 はじまりの訪れ
一 春の終わりの憂鬱
日中の気温は夏を思わせる日だった、五月某日。
ネイリストとしてネイルサロンで働く咲良は、六階建てのビルの四階に店舗を構える『Mahalo』を後にし、自転車で帰路に就いた。
ダークブラウンの髪が風になびく。仕事中にはだいたい一つに纏めているせいで、天然パーマに加えて結んでいた跡がついているが、自転車に乗っているおかげで誰にも気づかれないだろう。
一五五センチのやや小柄な身体で夜風を受けながら、そろそろ上着はいらないかもしれない……と考える。
クリーム色の七分袖のシフォンブラウスと膝下丈のシフォンスカートは、どちらも薄手の生地ではあるが、体感温度はちょうどいい。昼休憩でランチを摂りに出たときは暑いくらいだった。
(でも、まだ寒い日もあるかな?)
その悩みは、途中で立ち寄ったスーパーの室温が低かったことであっさり解決し、もうしばらく上着は持っていこうと決めた。
アプリでチェックしていた広告を参考にカゴに食材を入れていき、お気に入りのフルーツヨーグルトも放り込む。会計を済ませると再び自転車に乗り、周囲を気にしながらもペダルを漕いだ。
五分もせずして見えた三階建てのアパートの自転車置き場に、ブラウンとホワイトのバイカラーの自転車を止めた。
エントランスのドアに鍵を差し込んで開錠し、背後を確かめるように振り返る。誰もいないことを確認して片開きのドアを開け、足早に二階へと続く階段を上がっていった。
人生で二度目の引っ越しをするとき、最重視したのは治安と防犯性だった。オートロックであることや一階ではないことも重要で、空いていた部屋のうち咲良が選んだのは二〇七号室である。
寝室が八帖。1DKの自分だけの小さな城。
玄関もベランダもキッチンも狭すぎるが、トイレとバスルームがセパレートタイプなのは嬉しかった。収納スペースが少ないが、できる限り物を増やさないように意識が働くため、それはそれで良かったのかもしれない。
咲良はサッとシャワーを浴びると、キッチンに立った。
今夜のメニューは焼きそばだ。昨日観た動画で紹介されていた海鮮塩焼きそばに心を惹かれ、今日は絶対に同じレシピで作ると決めていた。
ベッドの前のローテーブルに完成した焼きそばと麦茶を淹れたグラスを置き、タブレットを起動する。『アニマルハプニング集』の文字が目に留まり、テーブルの片隅でそれを流しながら「いただきます」と呟いて箸を取った。
咲良は、二年制の専門学校でネイルについて学び、現在は『JNEC』の一級、そしてジェルネイルには必須の『J NA技能検定試験』で上級の資格を取得している。
通常、サロンでネイリストとして採用されるには、二級ネイリストの資格で充分だ。しかし、あえてそれぞれの試験で一級と上級まで目指したのは、いずれ独立したいと考えているためである。
今は、都内に四店舗を構えるマハロでネイリストとして働きながら技術を磨き、開業資金をコツコツ貯めている。目標金額にはまだ及ばないが、夢のためだと思うと努力もつらくはない。
食後はすぐに片付けを済ませ、ネイルのデザインを考える。
ネットやSNSで写真を探すだけの日もあれば、自分で撮った写真を見返してインスピレーションを得ることもある。
写真は、自然豊かな公園や美術館、イルミネーションが開催されている施設や、カフェで食べたスイーツなど、様々なものを撮影している。
意外なものが参考になることも多く、自然と趣味と実益を兼ねるようになった。
イメージをイラストに描くかネイルチップにデザインするかはその日によるが、ネイルのデザインを考えるのはほとんど日課と言ってもいい。この時間が楽しみの一つでもあった。
(あ、明日の準備もしておかなくちゃ)
ふと時計を確認した咲良は、イラストをキリのいいところまで描いてから手を止め、チェストから収納ボックスを出した。
中心から両開きのファスナーを開けると、三十六本のマニキュアが並んでいる。蓋の裏側のビニールポケットには、筆やシールといった道具を入れており、咲良にとって大事なものだ。
明日は、月に一度のボランティアの日。
特別養護老人ホーム『ひだまり』に赴き、利用者たちにネイルやハンドマッサージを施す。
こういうボランティアがあると知った二年ほど前から始めたことで、シフトに合わせて月に一度ひだまりに訪問している。
そのボランティアの日が、今月は木曜日の明日なのだ。
シフト制で働くネイリストという職業柄、訪問日は固定できないが、先方はできる限り咲良の希望を通してくれるため、ボランティアを続けてこられた。
咲良はマニキュアや道具に不備がないか確認しながら、明日を待ち遠しく思っていた。
ひだまりは、三階建ての施設である。
一階は事務所とデイサービスに使用され、二階はショートステイの利用者、三階は入居者専用となっており、ボランティアは三階の入居者を対象としている。
咲良が施術するのは希望者だけだが、毎回ほぼ全員が希望する。そうなるとデイサービスやショートステイの利用者まで捌き切れず、結果的に入居者のみを対象にすることになっているのだ。
「今日はどんな色にしますか?」
「そうねぇ……この間は桜色だったから、藤色みたいな紫なんかどうかしら? 梅雨にはまだ早いけど、紫陽花のような色はある?」
咲良の問いに、順番を待っていた堂本セツがウキウキしたように笑った。瞳を輝かせる姿はまるで少女のようで、ネイルチェンジを楽しみにしてくれていたことが伝わってくる。
「ありますよ。これは少し濃い色で、こっちは淡い色なんですけど……紫陽花ならこれかな」
「あら素敵。これがいいわ」
二本のマニキュアを出して見せると、セツが淡いパープルのビンを手に取り、目を細めた。
セツの手を消毒し、前回塗ったマニキュアを落としてから油分などの汚れを拭き取っていく。
人間の爪は年齢を重ねると薄くなったり弱くなったりするため、負担をかけないように手早く前処理を施し、ベースコートを塗っていった。
咲良は、『福祉ネイリスト』の認定も受けている。
JNECやJNA技能検定試験同様、福祉ネイリストも国家資格ではない。ただ、ボランティアをするにあたってもっと高齢者や福祉に対する知識を深めたいと思い、この認定は数日で受けられると知ったことで、すぐに受講した。
結果的に、認定試験を受けて良かったと思う。介護に対しても少しだけ学ぶことができたし、介護者にネイルを施すときの注意点なども勉強できた。
たとえば、昨今の主流であるジェルではなくマニキュアを使用するのは、急変や急病で治療や入院が必要になった際に早急に適切な治療を受けられるようにするためである――というのも、福祉ネイリストの講座で習ったことである。
病院で脈拍などを測るとき、ジェルネイルをしていると正確な数値が計測できないが、ジェルは簡単に落とせるものではない。マニキュアなら除光液で除去できるが、一般的なジェルは機械で削らなければいけないのだ。
それも、機械である程度削ってからジェル専用のリムーバーを浸したコットンで爪をしばらく包み、ジェルが柔らかくなったところで再び機械を使用して綺麗に取り除いていく……という手間がかかる工程が必要である。また、爪への負担も大きい。
ジェルネイルというのは爪の表面に傷をつけることでジェルを密着させるため、爪を薄く綺麗に削り、甘皮や油分といった汚れを取り除かなければいけない。
実際のところ、よほど手の込んだアートでもしない限り、ジェルネイルはアートよりも除去や前処理の方に時間がかかる。さらには、ネイルアートをするにあたり、ベースコート・カラー・トップコート用のジェルを乗せるたびにLEDライトで硬化させなくてはいけない。
健康的な人間であっても、人によってはLEDライトを熱く感じることもあり、肌が弱くなったり爪が薄くなったりしている高齢者には火傷などのリスクが高まる。医療的な観点はもちろん、身体的な負担を考えてもあまり向いていないのだ。
こういうことをきちんと勉強できたからこそ、ネイリストとしてだけではなく、福祉ネイリストとして提供できることも考えるようになった。
「セツさん、もし良かったら紫陽花のイラストを描きましょうか?」
「そんなことできるの?」
「簡単なものでよければできますよ。あ、こういうシールもあるんですけど」
ネイルボックスからウォーターネイルシールを出し、使い方を説明する。
「これは水に浮かべたらイラスト部分が剥がれるようになってて、それを爪に置くんです。色々な種類があるんですが、紫陽花もありますよ」
「今はそんなに便利なものがあるのねぇ」
感心するセツに、咲良が百円均一で購入できることを告げると、優しげな目が真ん丸になった。
「こんなに素敵なものが百円なの? すごいわ」
少女のように楽しそうなセツに、咲良はふふっと笑う。
ボランティアという形式上、あまり高額なものは購入できない。
ひだまりは良心的で、材料費は施設側で持ってくれるが、だからといって咲良が仕事で使用するような道具を揃えることは難しい。そこで百円均一というわけだ。
マニキュアは肌に優しい原料のものを選んでいるため、安価なもので揃えることはできなかったが、シールや筆といった道具は百円均一のものでも充分まかなえる。
今はクオリティの高い製品が店頭に多く並んでおり、経費節約という観点でも百円均一は宝箱のような場所だった。
「本当にすごいですよね。ここでボランティアをさせていただくようになってから、こういうものを探すのが楽しみになりました」
「私も新しいものを知れて嬉しいわ。せっかくだから、このシールを使ってもらえる?」
「はい。とびきり可愛くしますね」
シールを貼り、最後にトップコートを塗ってネイルドライヤーでしっかりと乾燥させる。
薬指には、パールの入ったオフホワイトをベースにして紫色の紫陽花のシールを。それ以外の指には淡いパープルをベースにして、人差し指のみ紫陽花の花びらのシールを貼った。
「今日も素敵! 咲良ちゃんのおかげで爪がとっても可愛くなったし、この歳になってもおしゃれが楽しめるなんて幸せだわ」
満面の笑みを咲かせたセツに、咲良は充足感を抱く。
ネイリストとしての咲良が一番好きなのは、たぶんこの瞬間だ。
客や利用者たちは、新しいネイルに彩られた自身の爪を見ると必ず笑顔になる。
子どものように無邪気だったり、うっとりとしたように目を細めたり、頬を綻ばせたり……。喜び方は人それぞれだが、誰もが明るい表情を見せてくれる。それがとても嬉しかった。
「明後日は孫が面会に来てくれるから、見せびらかすわね。あの子は無愛想だし、女心なんてちっともわかってくれないんだけど」
不満げに言いながらも、セツの表情からは孫の来訪を心待ちにしている様子が窺えた。
施術中、利用者たちは色々なことを話してくれる。世間話に始まり、自分の趣味や生い立ち、家族のこと。
セツが話すのは家族のことが多く、特に孫の話題が群を抜いている。
自身には息子と娘がおり、息子には二人の男の子が、娘には男女一人ずつの子どもがいて、息子夫婦とその長男だけは定期的に面会に来てくれるのだとか。
そして、息子夫婦の長男というのが、三十四歳で警察官だと聞いている。
咲良は会ったことがないが、セツの話から自慢の孫だというのは伝わってきていた。
「警察官なんてお堅い仕事だからか、元来の真面目さに磨きがかかっちゃって。我が孫ながらいい男だと思うんだけど、ちっとも女っ気がなくて心配になっちゃうわ。咲良ちゃんみたいな素敵な子がお嫁に来てくれたら、私も安心できるんだけど」
聞き慣れた冗談を言うセツに、咲良がクスクスと笑う。
(警察官かぁ。セツさんのお孫さんなら、もしかしたらあのとき親身になってくれたのかな……)
ふとそんな風に思い、咲良の唇からため息が零れた。
「咲良ちゃん、何だか浮かない顔してるわ。何か困り事? 私で良ければ話してね」
セツは、咲良のことをとても可愛がってくれている。
まるで孫の来訪を喜ぶ祖母のように接してくれるため、入居者の中では一番親しい。ちょっとした仕事の悩みなどを聞いてもらうこともあるくらいには、咲良もセツに心を寄せていた。
「困り事っていうほどじゃないんですけど……」
「でも、何かあったんでしょう?」
向けられた真っ直ぐな双眸の優しさに、咲良がおずおずと口を開く。
「最近……待ち伏せされることがあって……」
「待ち伏せ?」
「はい……。少し前に知り合った方なんですけど……」
ぽつりぽつりと話し出した咲良は、悩みと疲労を吐くように深く嘆息した。
事の発端は、一か月ほど前。
同僚たちと花見をしようということになり、職場から程近い場所にある大きな公園に四人で繰り出した。そこへサラリーマンらしき五人組の男性から声をかけられ、咲良以外が快諾したことによって、意図せずに合コンのようなものが始まったのだ。
その中の一人の男性がどうやら咲良を気に入ったらしく、連絡先の交換を求められたが、咲良は丁重に断って一人先に帰路に就いた。
ところが、彼――川辺は咲良の同僚を通して職場を知ったらしく、咲良の与り知らぬところで自宅の最寄り駅まで突き止められていた。
もっとも、同僚は駅名までは教えていないそうだが、『深澤さんの家は職場から一駅だから自転車通勤してる』というようなことを話したのだとか。三週間ほど前から咲良の生活圏内で川辺の姿を見かけるようになったのは、そのせいだろう。
彼は何をしてくるわけでもなく、あくまで偶然を装って声をかけてきただけ。回数にすれば片手ほどのことだが、咲良に警戒心を抱かせるには充分だった。
自意識過剰だと言われても、咲良にはそうなってしまう理由がある。
咲良は、以前まで電車通勤をしていた。
職場から三駅先。そこから徒歩十分。マハロへの就職と同時に始めた一人暮らしは、想像よりもずっと快適で気楽で楽しかったが、それも束の間のことだった。
半月が過ぎた頃、通勤電車内で痴漢に遭うようになったのだ。
ぱっちりとした二重瞼に、ぷっくりした唇。清楚で可愛い系だと言われる顔立ちは、昔から変わらない。近所では『可愛い』と評判の少女だったらしい。
だからなのか、咲良は幼い頃からいわゆる〝狙われやすい子〟だった。
公園で母親が目を離したほんの一瞬の隙に知らない男性に手を引かれそうになったり、ショッピングモールでニヤニヤと笑う大人から話しかけられたり……ということは何度もあり、母親はいつも気を張っていたという。
中学生くらいになると、部活や塾の帰りに知らない男性に声をかけられることが増え、時には家まで付き纏われそうになったこともある。友人と一緒のときや両親が送迎してくれるときは良かったが、一人で帰宅する日には恐怖心と戦いながら全力疾走した。
そんな日々が嫌で、高校も専門学校も自転車通学ができる距離にある学校を選んだ。
しかし、就職後は電車通勤を避けられず、痴漢被害に遭うことが増えたのだ。
電車通勤といっても三駅のため、電車を利用している時間はものの十分弱。幼い頃の経験もあり、最初から目立たないように地味な服装を心掛けたり女性専用車両に乗ったりと、咲良なりにできる限りの自衛はしていた。
それなのに、どういうわけか加害者に目をつけられてしまう。女性車両に乗れなかった日はそう多くないのに、三か月も経たずに脚や臀部を触られるといった被害に十回以上遭った。
痴漢被害に遭えば声を上げればいいと言う者もいるが、現実には恐怖心と不快感で身体が硬直し、いつも身じろぎするだけで精一杯だった。
そして、結局は耐え切れなくなり、自転車通勤ができる今の家に引っ越したのだ。
「警察には相談した?」
「いえ……何かされたわけじゃないですし……。それに、警察に話したところで……」
そこまで言って、ハッと口を噤んだ。
セツの孫は警察官である。セツにとって自慢の可愛い孫と同じ職業に就く人のことを、この場で悪く言いたくはない。
けれど、咲良は警察が何もしてくれないことを知っている。
中学時代、知らない男性に家まで突き止められそうになったとき、母親に連れられて近くの交番に相談に行ったことがあるからだ。
その際に警察官に言われたのは、『パトロールを強化します』ということだけ。なんでも、実害がない限りは警察ができることはほとんどないのだとか。
咲良のように『自宅を突き止められそうになった』程度では動けないらしい。それを聞いて怒った母親の顔と自身に芽生えた絶望感は、鮮明に覚えている。
以来、意図的に男性を避けるようになり、二十七歳になった今ではそれが癖になっていた。
「でも、何かあってからだと遅いでしょう。早く相談した方がいいと思うわ」
セツの言葉はもっともだが、咲良はそれが意味のないことだと知っているため、苦笑いでごまかすことしかできない。
「セツさんもネイル終わったの?」
そこへ介護職員の藤野寛が現れ、セツの爪を覗き込むようにした。
「そうなの。可愛くなったでしょ?」
「本当だね。セツさんがいつも以上に美人に見えるなぁ」
「まあ、藤野さんったら。褒めたって何も出ないわよ」
「僕の下心、バレてたかぁ」
漫才のようなやり取りに、咲良は思わず小さく笑ってしまう。彼の登場によって先ほどの話が終わったことにホッとし、二人の会話を聞きながらマニキュアや道具を片付けていった。
「咲良ちゃん、事務長が『次のボランティアの日を相談したいから帰る前に来てほしい』って」
「わかりました」
男性が苦手な咲良だが、藤野とは出会ったときから比較的普通に話せた。
彼の穏やかな話し方や男性にしては華奢な外見は、いい意味で警戒心を抱かせない。細い目にかけられた丸縁の眼鏡が真面目そうな性格に似合っていて、猫毛っぽい黒髪からも柔らかな雰囲気が漂っている。
父親と四歳下の弟、親戚以外の男性では唯一、彼が緊張せずに話せる相手かもしれない。
「じゃあ、今日はこれで失礼します。来月もよろしくお願いします」
「うん。またよろしくね」
「咲良ちゃん、気をつけてね」
藤野に続けられたセツの言葉には、挨拶以上の『気をつけて』が込められていた。
咲良はその気遣いを受け取るようににっこりと微笑んでお礼を告げ、「またセツさんにお会いできるのを楽しみにしてますね」と返した。
二 不意打ちの笑顔
六月に入ると、初夏とは思えない暑い日が続くようになった。
咲良が出勤する八時過ぎには日差しが強いことも多く、日中は三十度を超える日ばかり。寒さ対策だった上着は、今は日除けのための夏用のカーディガンに変わった。
「今月の新作は、夏っぽいものが増えたね」
「はい。まだ梅雨のデザインも人気ですが、夏のデザインを選ばれる方が増えてきましたよ」
マハロでは持ち込みデザインにも対応しているが、定額制の三種類のコースが一番人気である。
五月の新作デザインは梅雨を連想させる傘や紫陽花のアートが並んでいたが、今月からは貝殻やサンゴのような海のデザインが加わった。希望すれば過去のデザインを選べるところもマハロのリピーターに好評だが、多くの客は新作のデザインを選ぶ。
咲良の今のネイルは、淡いパープル系のシェルを並べたり手描きの紫陽花を施したりと、梅雨を意識したデザインにしている。
「新作も可愛いけど、深澤さんのネイルもいいな。今から紫陽花のデザインって遅いかな?」
三十代前半の女性客は、もう三年以上も咲良を指名してくれている。そのため、こんな風に気さくに相談されることも多い。
「そんなことないですよ。まだ梅雨入りもしてませんし、一か月後くらいなら紫陽花も咲いてるでしょうからいいと思います」
「じゃあ、今日は深澤さんと同じデザインにしてもらっていい?」
「はい。ただ、私のネイルは紫陽花の部分が手描きなので、追加料金が発生しますが……」
「全然オッケー! そのネイル、すっごく可愛いし」
「承知しました。カラーはどうされますか?」
その後も相談を受けながらカラーを決めていき、二時間ほどかけて施術を行った。
「お疲れ様。ねぇ、今日この間のお花見のメンバーで飲みに行くんだけど、深澤さんもどう?」
終業後、バックヤードで帰り支度をしていると、同僚の三浦が話しかけてきた。咲良は「お疲れ様」と返してから、首をゆるっと横に振った。
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