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しおりを挟む「御蔭さん、浅葱です」
「入っていいよ」
虫も寝静まる夜更け。俺は煌々と明かりが灯る御蔭さんの自室へと招かれていた。
襖を開けた先で待っていた御蔭さんは、俺と同じく入浴も終えていてゆったりくつろいでいる様子だ。
もう寝ようとしていたところを、御蔭さんの式神に呼ばれたのがついさっきのこと。
今までこんな時間に呼ばれることがなかったため、何か急ぎの用かと思って慌てて駆けつけたのだが、緊迫した事態ではなさそうな雰囲気に、俺はほっと胸をなでおろした。
……でも、だったら何の用だろうか。
御蔭さんの体調はかなり回復しているとはいえ、まだ療養中で、夜の妖退治に出る予定もないと聞いている。
不思議に思いながらも促されるまま部屋の中に入らせてもらうと、机の上でずっと何かの紙の束を捲っていた御蔭さんが、その内の一枚をこちらに投げて渡した。
「わっ」
「これ、書いといて」
ひらひらと不安定に宙を舞ったそれを慌てて掴み、記された文字に視線を落とす。
右端で主張する『婚姻届』の筆文字に、俺は目を疑った。
へえー、婚姻届ってこうやって一枚の紙に手書きするようなやつなんだ。現物初めて見た。
あ、もう御蔭さんの署名がされてある。字綺麗だな……。ってそんなことはどうでもよくて!
あ、危ない。あまりの突飛な事態に現実逃避してしまっていた。
え?何?今婚姻届書いといてって言われた?もう既に文字で埋め尽くされてる感じはあるけど、どの部分を?まさか妻と書かれた下のこの不自然な空欄のことじゃないよな?あ、もしかして紙の渡し間違い!?それとも何かの冗談!?ボケ!?
「な、なんでやねんっ!」
「は?」
「……すみません」
渾身の突っ込みは、御蔭さんによる冷めた視線で即座に後悔へと変わった。
「あの……紙、間違ってませんか?」
「ん?」
恐る恐る進言すると、近寄った御蔭さんが俺の手元の紙を覗き込む。
眼前に来た頭からは、ふわりと清潔でいい匂いが漂った。
一瞬、確認のための間があって、顔を上げた御蔭さんは不思議そうに告げる。
「何も間違ってないけど」
「えっ」
「筆貸すからここで書きなよ」
「ちょ、ま、待ってください!」
当然のように進んでいく話に、俺は慌ててストップをかける。
「これ、婚姻届ですよ!?」
「うん」
「『うん』!?こっ、これに俺が名前書いちゃったら、御蔭さん俺と結婚することになるんですよ!?」
「そうだね」
な、なんだこの暖簾に腕押し感……!
もしかして、俺の知ってる『結婚』と、御蔭さんの家の『結婚』は別物なのか?
いや確かに、綾凪さんが伴侶が支配をどうとか複雑なことは言ってたけど……って、そうだ!御蔭さんは既に綾凪さんと結婚してるんじゃないか!?男同士で結婚できるっていうのも謎な話だけど!
「あ、綾凪さんのことはいいんですか!?」
「誰それ」
笑顔で記憶から消されてる!
さらなる混乱でわたわたしていると、御蔭さんはそんな俺の手を優しく取った。
指先に触れる熱が、ひどく熱いような気がする。
「優吾君、俺のこと好きなんでしょ?」
「……はい?」
「幽霊の時から名前呼びとか結構強引な感じで距離詰めてきてたし、肉体が戻ったらすぐに抱きしめてきて『渡さない』とか『好き』とか、みんなの前で恥ずかしげもなく宣言してたじゃん」
「えっ、いや、あの、」
「僕、誰かと結婚するなんて思ってもみなかったからさあ、実家で色々やり方教えてもらってきたんだよ。文書もわざわざ準備したし。感謝してよね」
にこにこと浮き立つように言われて、まだ状況が理解できない俺との温度差がすごかった。本当に待って欲しい。
「えっ……と、俺、一応男……なんですけど……」
「別に世継ぎ残す義務とか僕にはないから、そこら辺は気にしなくていいよ」
「し、使用人ですし……?」
「それが?」
御蔭さんの言う結婚が俺の思っているものと同じだろうということはなんとなく理解できたが、それにしたって唐突だし、まったくもって気持ちの整理が追い付かない。
手当たり次第に障害になりそうなことを言って考える時間を稼ごうとするものの、それはいとも簡単に考えるべくもないものとして跳ねのけられた。
一人で焦る俺を見て、御蔭さんはちょっと面白そうに、そしてどこか満足げに笑う。
「今更照れなくていいって。全部わかってるから」
何が?俺でさえ俺のことが絶賛わからないのに?
なんだか、知らぬ間に変な誤解があったようだ。
俺は御蔭さんのことをそれなりに好きだが、それはもちろん恋愛感情ではなかったし、当然御蔭さんにもそう捉えられているものだと信じて疑っていなかった。
いや、だったとしても普通そのまま結婚に行きつくか?今回俺が使用人として結構役に立ったから、お礼をしてくれようとでもしたんだろうか。
いや、極端!これじゃ人のこと言えないよ!もしかしてそれが花ヶ崎流なの!?
自分の認識外のところでどんどん話が進んでいるような違和感と焦りに心臓が逸りだす。「じゃあほら、早く名前書いて?」と筆を渡されて、その症状はより悪化した。
はぁっ、はぁっ、な、なんかここの空気薄くない?
「あの、と、友達からとか駄目ですか?まだ、よくその、結婚とか分かりませんし……!勢いで決めるものじゃないっていうか!おっ、お互いの家のこととかもありますし!あっ、俺借金あるんです!それって御蔭さんのお家的には大丈夫なんでしょうか!?」
「うん。で?書くの?書かないの?」
にっこり。圧のある笑みが向けられる。
「……か、かか、な、」
「書くよね?」
圧のある笑みが向けられる。
「…………かきます…」
「うん」
脅しに屈してしまったーーー!
だって目が怖すぎるんだもん!断ったら承諾するまで無理やり拷問されそうなんだもん!
どうしようどうしようどうしよう!このままじゃ本当に御蔭さんと結婚することになっちゃうんですけど!
絶望と焦りで顔面蒼白になる俺とは対照的に、御蔭さんはご機嫌そうに、繋がったままの俺の手を自分の方へと引き寄せた。
「僕と結婚したら財産一緒になるんだから、借金もそこから返済すればいいよ。こんな紙切れ一つで何か変わるとも思えないけど、世間一般的には必要な契約なんでしょ?僕には優吾くんだけで、優吾くんにも僕だけ、って周りに知らしめるための」
ちゅ、と軽く手の甲に唇をつけた彼は、弧を描いた上目でこちらを見る。
艶のあるその仕草に、意図せずごくりと喉が鳴った。そして同時に、当然の疑問が浮かぶ。
「み、御蔭さんって、」
「ん?」
「俺のこと、好きなんですか……?」
窺うように聞いたそれに、御蔭さんはきょとんと目を瞬かせた。
あ!やっぱ違いますよね!?そういうんじゃないですよね!?ただ俺への褒美として言ってるだけですよね!?
いやー!にしては圧が強かったし、なんとなく雰囲気が桃色というかそんな感じだったからーー!
くっそーーっ!自意識過剰なこと聞くんじゃなかったーー!
次から次へと押し寄せてくる後悔に身悶えしていた俺だが、その感情は、次に見た御蔭さんの表情でまっさらに消え失せる。
「──うん。好きだよ」
花が芽吹くような、見たことのない程に美しく柔らかいその微笑みに、俺はたまらず息をのんだ。
どくん、と身体の内側が不規則に跳ねる。
急速に血が巡る感覚に、目を見開いたまま反応できないでいると、御蔭さんはそんな俺の手を長い指でなぞりながら、丁寧に言葉を紡いだ。
「目が合うと嬉しくて、身体の一部に触れるだけで安心する。側にいると楽しいし、そんな君を他の誰にも奪われたくないと思う。こんな気持ちになったの優吾くんが初めてだよ。これって『好き』でしょ?『愛情』だよね?」
こちらを見つめる甘い顔が近付いて、唇同士が触れる。
感じたことのない柔らかさに、反射でびく、と小さく身体が跳ねた。
あ……口づけ、して、しまった。
認識して、それと同時、飲み込まれてしまいそうな甘い危機感が胸を襲う。
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