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しおりを挟む「昨日袋の中に隠していたのはこいつか」
「!」
「天子なら隠す必要もなかっただろう。やましい態度を取りすぎだ貴様は」
「あ、はは…、急いでたからなぁ~」
ドキッとするような指摘に、一気に口内の唾液が引いて舌が張り付く。
変な答え方をしていないだろうか。晴君は千晴が注いでくれた水をありがたく口に含み、安心感を得ようとした。次の瞬間、
「てっきり俺は、ついに貴様が人間を攫ってきたかと思ったぞ」
「ブーーーッッ!!」
「汚い!!というか何を悠長に一服している!飲むな!一時たりともくつろぐな!早急に作業に取り掛かれ!」
あまりに正確な予想に、盛大にむせて折角の千晴の水をぶちまけてしまった。
激しい咳の後、はへ…はひ…、と顔をぐちゃぐちゃにして呼吸を整える中でも、雨君は容赦なく筆を渡してきて労働を強要する。
鬼畜過ぎるだろ。天人の心、どこに置いてきたんですか?
「に、人間攫うとか、そんなことするわけないじゃん」
「どうだか。前科があるからな」
雨君のその発言に、紙につけようとしていた筆先が止まった。反射的に顔を上げて千晴の反応を見ると、彼は水を持ってきた時の姿のまま、所在なさげに立ち尽くしている。
あ、部屋に行っていいよって言ってあげればよかった…。
そう思った直後だった。晴君の視線に釣られたのか、雨君も千晴へと視線を向けて、
「棒立ちしている暇があるなら掃除の一つでもしていろ」
「ちょ、やめろよ!僕は千晴に雑用させるつもりないから」
「は?寝ぼけたことを言うな。天子は使ってなんぼだろう。特に貴様のような奴は誰かに管理されていないとまともに……そうだ、この天子が貴様の業務管理を出来るようになれば俺の仕事が一つ減る…!精神的な苦痛もなくなる…!」
「ねえ!今まで苦労かけたこと全部謝るからっ!!千晴を扱き使うのだけはやめてぇ~~!!」
雨君に泣き縋って懇願する僕の気持ちをよそに、今までほとんど言葉を発していなかった千晴が口を開く。
「俺、役に立てるなら立ちたいです。…教えて欲しいです。天子の仕事」
「フン、いい心構えだ」
「ち、ちはる~…」
千晴の表情は硬かった。身体も少し強張っている。
いや分かる。雨君、怖いよね。声も体格も大きいし。言葉キツいし。愛想ないし。笑わないし。口と同時に手が出るし。
そんな中、千晴はきっと相当な勇気を出して発言したのだろう。
それは非常に尊い行為ではあるが、天子の仕事に関しては千晴がやることではないのにどうして…、と戸惑いもよぎる。
反対に雨君は珍しく上機嫌だ。彼は意欲的で真面目な人を特に好む傾向にあった。
「天子の業務は多岐にわたる。師事者の身の回りの世話から住居の清掃、洗濯、庭の手入れ、消耗品調達、来客対応、仕事の補佐、予定管理など…。状況によって増えたり減ったりもするが、大まかにはこんな感じだ。晴君のだらしない性根を正し、天界全体の心理的負荷水準を下げられるのは貴様しかいない。天界の未来を頼んだぞ」
「僕の性根ってそんな広い範囲で迷惑かけてたの…?」
「うちでやっている天子講座に一度参加してみるといい。基礎から教え込んでやる。丁度申請書類があるから、もう今署名しておけ。受講申請期間は締め切っているが、特別に俺が受理してやろう」
露骨にウキウキしてるのがこちらにまで伝わってくる。単純に口数が多いのもそうだが、この締切厳守天人が融通をきかせてくれようとするのも珍しい。
それだけ僕と距離を置きたいってことか。ちょっと傷つくんですけど!
書類と筆を千晴に渡し…というか結構強引に押し付けた雨君は、ほら書け今書けと千晴を机まで呼び寄せ、期待の目を向ける。
ぎこちない動作で晴君の側に座った千晴はといえば、可哀想に、固まってしまっていた。
筆も雨君に渡された時のまま握りしめられている。
それは、講座に参加したくないから名前を書くのを拒絶しているというよりかは、まるで、筆をどう扱ったらいいのか、わかりかねているような…。
「どうした。──まさか文字が書けないのか?」
「!」
一向に署名をしない千晴に対する雨君からの怪訝な問い。
天子であれば識字能力は備わっている筈だが?とでも続きそうなそれに、千晴の顔がかあっ、と一気に赤くなったのが見えた。
「ごめんごめん、名前の漢字教えてなかった。後で一緒に覚えよう」
目の前で力いっぱい筆を握っていた小さな拳を、晴君は上からそっと片手で包みこむ。
勢いよくこちらを見上げてきた驚き顔には、返事をするみたいにへらっと笑みだけを返しておいた。
「しっかりしろ。名前が書けなくて困るのは天子の方だぞ」
「分かってるって。あと、この講座受けるの次でいい?千晴は昨日天子になったばっかりだから、もうちょっと基礎的なこと教えてから受けさせるよ。まだ外にも一回しか出たことないんだ」
「それも、そうか……。だが貴様に指図されるのは癪だな。今の貴様の言葉は元より俺の意見だったことにする。いいな」
「どうして??」
「天子、お前は次回の申請までには名を書けるようになっておけよ」
「……はい」
ほっ、と千晴の力が和らいだのが分かって手を退ける。
ふう。ヒヤヒヤだ。よしじゃあ次こそ千晴には別室に移ってもらって…、なんてその後のことを考えていた時に事件は起こった。
千晴が借りていた筆を雨君に返そうとして手を伸ばす。
その瞬間だった。
雨君は自身の目の前に出された細腕を、まるで悪漢でも捕らえるような瞬発力で掴み上げる。
「……何だ、これは。こんなところも人間の真似事か。いくらヤツの天子といえど悪趣味なことはやめろ。早く消せ」
「!?」
予備動作のない動きに、晴君も咄嗟に反応できなかった。千晴なんてもっとそうだろう。
更に威圧感のある姿と声で一方的に捲し立てられ、萎縮しないはずがない。
困惑しきって言葉が出ない千晴に、雨君はより顔を険しくした。
「──お前、」
「ちょっとちょっと!千晴に乱暴するなって!何!?」
晴君は慌てて二人の間に割って入り、千晴から雨君を引き離す。
背に庇った千晴に視線をやると、警戒するように身を強張らせていた。可哀想に。
理由を説明しろ、と雨君に対して目線で訴えかけると、未だ凶悪面のままの彼は、晴君の後ろに隠されている千晴の腕を指さし、一言。
「傷跡がある」
それを聞いて、舌打ちしそうになるのをなんとか堪えた。
天人と人間の違いは、死の概念、寿命、老化、食事、排泄、生殖の有無、と挙げれば様々だが、そのうちの一つとして天人の自己修復能力の高さがある。
負傷したとしても、出血はあるものの、その傷は時間を置かず塞がるのだ。
先程雨君に刃を当てられ少しだけ切れていた晴君の首の傷も、もう当たり前に治癒し、今となってはどこが切れていたのかすら分からなくなっている。
つまり傷跡とは、人間だけに残るものなのだ。
千晴の新しい傷は勿論治療済みだが、古傷までは考えられていなかった。晴君の浅慮が招いた失敗である。
「千晴はまだ自己治癒力が弱くて、……なんて、こんな誤魔化し君には通用しないよね」
諦め混じりに笑った瞬間、拳が飛んできた。
ガツン!と激しくブレる視界に立っていられず倒れ込む。
頬を殴られた。
「い、った…」
「ふざけるなよ…っ、貴様、自分が何をしているのか分かっているのか!?」
「うん、ごめんね。分かってる」
衝撃と痛みはあるが、傷や腫れは例によりすぐに治るのだ。
倒れた僕を見て青ざめる千晴に安心してもらおうと、傷がないのを見せて笑う。
そのやり取りを見た雨君は、更に苛立ったように息を詰めた。
「本当に分かっていたらそんな風にヘラヘラしていられる筈がないだろう!今ならまだやり直せる。早くその人間を下界に戻せ」
「あ、連れてきてたことは黙っててくれるんだ。優しいな」
「茶化している場合か!」
千晴を戻すつもりがないのが分かったらしい。雨君の眉間の皺は、もうずっと型が付くくらい深く刻まれたままだ。
彼は唐突にこちらに背を向けると、颯爽と出口へ向かって歩き出す。
「貴様がそうやって現状を維持するつもりなら、俺が上に報告するぞ。その馬鹿さ加減は流石に庇いきれん」
「待って、雨君」
「また繰り返すつもりか」
玄関の引き戸に手をかけた直後、振り返り、吐き捨てるように言われた言葉は、晴君の胸を少なからず抉った。
雨君はその反応を見て、決して胸が空いたふうではなかったものの多少溜飲は下りたのか、フンッと鼻を鳴らし、話は済んだとばかりに家から出て行こうとする。
そんな彼の後首に、すかさず手刀を喰らわせた。
「てやっ!」
「うっ…!?」
雨君が膝から崩れ落ちるように倒れ込む。
ちゃんと気絶してくれたらしい。白目を向いたまま動かなくなった雨君により、現場は一気に静けさを増した。
晴君が後ろを振り返ると、一連の流れを全て眺めていた千晴がびくりと肩を揺らす。
「千晴、ちょっと手伝ってもらっていい?」
申し訳なさそうに眉を下げて笑いかけると、千晴はその目に多大な不安感を滲ませながら、酷くぎこちない仕草で頷いた。
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