天界への生贄の持ち込みは禁止されています

椿

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 目覚めてすぐ。布団の中で微睡む晴君は、自分以外の心地よい生活音に包まれながら徐々に覚醒していった。
 のそりとした動作で起き上がった彼が、はだけた寝巻きを簡易に直し襖を開けると、清涼な外気に香ばしい薪の匂いが混じったいつもの温かい空気が出迎える。
 まだ開ききっていない視界の中で、朝日に照らされた少年が手際よく料理をしている様子が見えた。眩しさに目を細めつつ、しばしぼんやり眺めていると、それに気付いたのか、少年は不意にこちらを振り向いて、

「おはようございます。先生」
「おはよう千晴」


 千晴を天界に連れてきてから7年ほどが経過した。
 当初あまりにも痩せて不健康だった千晴の身体は、健康的な食事のおかげか、肉もつき、現在進行形ですくすくと成長している。
 料理だって自分でささっと作ってしまうし、材料を毎回捧げものから取るのはどうなんだと言い出して、数年前から庭で野菜の栽培も始めた。晴君が偶に力を使って成長を促しているのもあって収穫量は悪くないようだ。食事前になると籠を持って庭に行く千晴をよく見かける。
 本当に立派になって……。
 初めて取れた大根を両腕でしっかりと抱き締め、その大きさを興奮気味に僕へ報告してきていた小さくて可愛い千晴が既に懐かしい。いや、可愛さは年々上限を超えて常に最高が更新されていっているから懐かしさとかはないんだけれども。うん、今日も料理頑張ってて可愛い。

 千晴が用意してくれた白湯を大事に大事に飲みつつ、目の保養をしていると、ふと普段の彼との差異に気付いた。

「千晴、そんな服持ってたっけ?」
「昨日桜鈴が譲ってくれました」
「桜鈴ちゃん!はぁ~毎回本当に助かるなぁ」

 雷の天子である桜鈴と千晴は、花瓶の一件以降ずっと仲がいい。
 桜鈴は自分にも他人にもよく気を遣える子のようで、千晴の事も気にかけて世話を焼いてくれていた。
 事実、彼と仲良くなってから千晴の身なりは格段に洗練されたものになっている。
 髪をさっぱり切って、何かしらの手入れをしているらしく肌艶もいい。服を譲ってもらうのもこれが初めてではないし……え、千晴、雷君のところに引き抜かれたりしないよね?
 晴君が少しだけ危機感のようなものを抱いていると、不意に千晴と目が合った。
 すぐに逸らされるかに思われたそれは、予想に反し、じっと晴君を捉え続ける。
 伝えたいことでもあるのだろうか、と晴君が言葉を促すよう首を傾げれば、「それだけですか」と、何かを期待しながら待っているかのような言葉。
 晴君は少し考えて、数秒後に閃いた。

「その服もすっごく似合ってるよ千晴!」
「……は??」

 指さしで褒められた千晴は一瞬きょとんとして、それからじわじわ顔の血色を良くしていき、最後にキッ!とこちらを睨みつけた。

「何で俺が褒められたかったみたいになってるんですか…!」
「あ、あれ、違った?」
「違います!アンタいつもお礼とか言って桜鈴に何か渡すよう言うじゃないですか。今回もそうかなと思っただけです」
「あ、そうだった。桜鈴ちゃんに欲しいものないか聞いといてよ」

 ぶっきらぼうに「分かりました。多分また花だと思いますけど」と返した千晴は、怒ったような態度で調理場の作業へと戻っていく。
 しかし、不意に見えたその口元は嬉しそうに緩んでいた。動きもどこか先程よりも軽く、浮かれたように弾んでいる。
 褒められた喜びが隠しきれていないその千晴の様子に、晴君は許可もなく飛び出しそうになる雄叫びの声を必死に飲み込んだ。
 危ない危ない。師事者の急な咆哮なんて聞かせたら、千晴、びっくりして気絶しちゃうよ。

 しぶとく喉を迫り上がってくる愛おしさを何とか白湯で流し込みながら、晴君は改めて感慨に耽った。

 本当に、まっすぐな優しい子に成長したなあ。
 ……だからこそ、困ることもあるのだが。


 *

 天候区の中心には下界の天候を操作するための施設があり、そこがいわゆる晴君らの仕事場である。
 主要な部屋には、下界の雲の様子が常に観測されている大型の模型をはじめとして、晴君らが力を注ぎ、天候を操作するための補助装置、また気温、湿度、風量などの細かい設定をする操作板が備え付けられている。
 それとは別に、役職持ちごとにそれぞれ個室の執務室も割り振られており、晴君は基本的にここで事務作業などを行っていた。自宅の居間よりやや広いくらいの、こざっぱりとした空間である。机の上から一向になくならない処理前の紙の束を除けば、という枕詞が必須だが。

 千晴はここでも働き者だ。
 最初に連れてきた時は社会見学というか、新しい遊び場を紹介するような思いだけで、仕事を手伝わせる気などこれっぽっちもなかったのだが、きっと千晴も暇だったのだろう。通ううちに、簡単な仕事を覚えて手伝ってくれるようになった。

 コトッ。
 晴君の作業机にお茶の入った湯呑みが置かれる。味のついた飲み物を飲むようになったのも千晴が来てからだ。
 これには庭で丹精込めて育てられた茶葉を使ってくれており、単純に美味しいのと、千晴が僕のために淹れてくれた飲み物、というありがたみも足されて瞬く間にハマってしまった。
 雨君にも好評で、千晴がたまに茶葉を持って行ってやっているらしい。
 あいつ絶対僕には茶葉が欲しいとか言ってこないんだよな。隙を見せたくないとか貸しを作りたくないとかいった感じで。まったく、可愛げがないんだから。ちょっとは千晴を見習って欲しい。

「ありが、」

 早速お茶を飲もうとして手を伸ばすと、湯呑みが逃げるように遠ざかった。
 えっ、と咄嗟に顔を上げると、目の前には湯呑みを引いた犯人である千晴の姿。彼は戸惑う晴君へ、まるで湯呑みの代わりとでもいうように、一枚の紙を差し出した。

 ……話は戻るが、『困ったこと』というのはこれだ。
 千晴は晴君からじっ、と目を逸らさないまま告げる。

「署名してください」
「えーー…っと……」
「駄目ですか」
「う、うん。ごめんね……」
「じゃあこれはなかったことに」
「僕のお茶ーーーッッ!」

 嘆く晴君に、千晴は「これは奉仕ではなく取引ですから」と突き放したように言い置いて去っていった。しっかりお茶を回収して。

 それからまたしばらく経った後。

「先生、届いた書類を業務別に整理しておきました」
「え、ありがとう助かるよ!もう最近滞りすぎて雨君にも色々言われててぇ…」

 千晴が持ってきてくれた書類を受け取ろうとして、しかしまたも空を切る晴君の手。
 嫌な予感がしたと同時、見慣れた一枚の用紙が机の上を滑り、再び晴君の目の前へと現れた。
 千晴が告げる。

「駄目ですか」
「……だ、だめです…」

 一瞬、痛い程の沈黙が場を支配した。
 次いで、千晴の持っていた書類の束が無秩序に床へとばら撒かれる。

「あ゛ーー!!折角整理してくれた書類ーー!!」
「あと何すれば署名する気になるんですか?」
「だ、だから、千晴はになんてならなくてもいいんだって…」

 千晴が度々晴君に見せていたのは、天徒への昇格試験に必要な提出書類だった。
 そこには師事者の署名欄があり、天子はこの署名がないと試験を受けられない仕組みなのだ。
 最近の千晴は、あらゆる手を使って僕にこの署名をさせようと画策しており、……正直すごく困らされていた。

「俺が天徒になれば、雑用以外の仕事も任せられて今より楽できるんですよ。先生にとっては得しかないですよね?」
「別に僕は千晴に仕事をさせるためにここに置いてるわけじゃないよ。一緒にいてくれるだけでいいんだ」

 机越しに立つ千晴は、納得がいかないような渋い顔を保ったまま告げる。

「じゃあ、俺が一生グータラ寝転んで日向ぼっことかしてたまにアンタの仕事の邪魔したり机の上に置いてた水入りの湯呑みをゆっくりズラして床に落としたりしてもいいんですか?」
「いいよ」
「いいわけあるかっ!」
「僕の意見聞いたんじゃなかったの!?」

 僕の考えが変わらないことを察したのか、千晴ははあ…、とため息をついて床に落ちた書類を大雑把にかき集めると、その束を机上に勢いよく叩きつけた。

「外に出てきます」
「お気をつけて……」

 ありありと不満感を示す千晴の顔圧に怯みながらも、晴君は見送りの言葉を送る。

 まっすぐで、優しくて、頑張り屋に育ったのはいいんだけど……。

 その背が見えなくなった後、律儀に目の前に積み直された紙の束を眺めて、晴君の口からは葛藤を示すような深いため息が出た。
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