天界への生贄の持ち込みは禁止されています

椿

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「さて」
「!」

 桜鈴達の姿が小さくなった頃、晴君が切り替えるようにこちらを見た。
 透けるような青空色の瞳に、千晴は反射でびくりと身を固くする。
 そうだ。何だかひと段落付いた雰囲気になっていたが、何も終わっていない。
 花瓶を割ってなかったからといって、こうやって問題を起こして、晴君に迷惑をかけたのには変わりない。
 結局忘れ物だって届けられていないし、そもそも外に出るなと言われていたのに勝手に抜け出してしまった。
 考えれば考える程、自分の失態が浮き彫りになって冷や汗が出る。
 これは、花瓶の事がなくても、見限られるのではないだろうか。そんなことをぐるぐる考えて固まっていると、何の前触れもなく「えいっ」と指で額を押された。
 頭を少し後ろ側に押しやるぐらいの強さがあったそれに動揺して、千晴は自身の額を抑えながら前を見る。
 そこには、眉の下がった晴君の顔があった。
 彼は身を屈め、千晴とより視線を近くしてから、一言。

「心配した」
「……しん、ぱい」
「うん。忘れ物取りに帰ったら居ないから。それ、届けようとしてくれたんだね」

 帯に挟まれたままだった紙束を指して微笑んだ晴君は、そのまま千晴の髪の毛を掻き混ぜるように撫でた。
 これは、許されているのだろうか。
 想像していた未来との乖離に、千晴は混乱する。

「殴らないんですか?」
「やっぱ僕そんな感じで認識されてるの!?殴らないよ!?」
「勝手に部屋から出ました。書類、届けるの遅れて、問題を起こして、迷惑をかけました」

 自分で罪を並べ立てておいて、一丁前に恐怖が募る。
 握り締めた手に痛みが走って、そういえば怪我をしていたんだと思い出した。治らない傷を作れば人間だとバレる可能性がある。これも失態だ。千晴は咄嗟に手を後ろへ隠した。
 しかしその不自然な動きが目立ってしまったか、晴君は背後へと回されていた千晴の手を優しくとって陽の元に晒す。
 千晴も初めてしっかり見ることになったその手の甲には、表面に細かい傷と、大きな痛々しい血色の痣が出来ていた。

「この手の痣、どうしたの?」
「花瓶が、落ちそうになって、……割れないように、地面との間に手を挟んで…」
「うわあ、それは痛かったね」

 痛みを想像して顔を歪めた晴君は、怪我をした千晴の手を両掌で包み込むと、出会った時と同じように、不思議な力で治療をしてくれる。
 千晴が柔らかく発光しているようなそこをじっと眺めていると、晴君も目線を下にやりつつ告げた。

「あのね、僕は君が大事で、何にも害されてほしくないと思ってる。だから今日は、君が僕の知らないところで怖い思いをしてるんじゃないかって心配したよ」

 千晴が顔を上げると同時、治療も終わったらしい。両手が外されて千晴の手は自由になった。痛みは完全になくなっている。
 それでも、指先に残った接触の気配が時間の経過と共にじわじわと千晴の体温を上げ、その心臓を疼かせていた。

「外出の制限はそろそろ無くしてあげなきゃと思ってたんだよね。中々案内する時間が取れなくてごめん。それと、僕が千晴のやることで迷惑に思うことなんてないから。あ、でも次から、危ないと思った時は迷わず僕を呼んでよ」

 桜鈴ちゃんみたいに、と冗談っぽくはにかんだ晴君が、千晴をまっすぐに見る。

「忘れ物、届けに来てくれてありがとう。それに、僕のために怒ってくれたんだってね。…これはきっと師事者として褒めちゃいけないことなんだろうけど、
 ──嬉しかったよ。ありがとう、千晴」

 その、朝日が闇夜を照らす一瞬のような、眩しさと、優しさと、温もりの中にある笑みを見て、俺は今日何のためにここまで来たのかを思い出した。
 そうだ。俺はこの人に喜んで欲しかった。何か、何でもいいから、この人の役に立ちたかった。笑いかけて欲しかった。
 千晴が思い描いていた理想の光景が、ここには全てあった。
 それを自覚して、どくんと心臓が一際大きな音を立てて鼓動する。それは段々と早まり、瞬く間に全身へ巡って身体を赤く火照らせた。
 それは以前、この人に名前を貰った時と全く同じ感覚だった。

 今まで誰かに必要とされたことなんてなかった。
 一生を生贄として終えることが決められていて、神様に食べられることが生きる全てで、呼ばれる相手がいないから名前なんていらなくて、汚くて、臭くて、誰にも感謝されることなんてなくて。でもそれを、そんな俺の人生を、貴方は全部覆した。
 俺を特別にして、貴方だけの千晴という人間にしてくれた。
 最初、名前を貰った時に突き放したのは、自分の感情がよく分からなかったからだ。
 高鳴る鼓動が変で、変化を恐れて咄嗟に拒絶した。だがそれが何度もあれば流石に分かる。
 これは歓喜で、幸福で、──好意だ。

「千晴?」

 反応がないからか、心配そうな晴君から手が伸びてくる。頬に添えられそうになったそれを、千晴はぱし、と軽く手で払った。
 うるさ過ぎるこの鼓動を知られたくなかったからだ。
 だって、かっこ悪いと思った。
 多分、この人にとってはきっと何でもない言葉で、簡単に言えてしまうことなんだ。え?こんなので?って、浮かれた自分を見せたくなかった。
 ただでさえ失敗続きなのに。貰ってばかりなのに。もっとちゃんと、役に立たなければと思った。立ちたかった。
 そうして晴君に、今より少しでも、俺のことを好きになって欲しかった。
 溢れ出しそうになる浅ましく烏滸がましいこの感情を、必死に言葉で守って抑え込む。

「べ、別に貴方のためじゃないです。……紙も、何か、勝手に手に引っ付いてきただけで…」
「そ、それは無理があるんじゃない?」

 これは喋っても墓穴を掘るかも…。
 正確に現状を理解し、次いでむっつりと黙り込んだ千晴に、その人は少しだけ虚を突かれたようにして、それから、可笑しそうに小さく噴き出した。
 きっと俺の小細工など見透かされているのだろうなと分かるそんな笑顔に、少し悔しくもあり、しかし、手を振り払ってしまったことを不快に思わせていなかったのなら良かったと、情けない安心感も得る。
 緩みそうになる表情はすぐに引き締めた。

「うーん、でもやっぱり僕は、何だか無性に君を褒めたいよ。どうすればいい?」
「……知りません」
「頭撫でていい?」
「……」

 その提案を拒否せず、されるがままになってしまったのは、……今日だけは許されたい。

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