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しおりを挟む……しかし一向に衝撃や痛みはやってこない。
疑問に思い薄目を開けると、目の前に、千晴を庇うようにして立つ大人の背中が見えた。
それは誰だなんていちいち考えなくてもわかる。
千晴にとって、この天界で唯一見慣れた後姿だったからだ。
「ごめん。状況が見えないんだけど、うちの子が何かした?」
「晴君!?」
助けて、くれた……。
その存在に安心してしまって、ふっと、肩の力が抜ける。
その人の名前を呼んだのは向かい合った天徒の方だ。
彼は一瞬焦りを見せたが、しかしそれはすぐに余裕のある表情へと変わった。
天徒は優美な所作で手を合わせ、晴君に向かってこうべを垂れる。
「大変失礼いたしました、晴れの君。しかし私とて、何の理由もなく貴方様の天子に攻撃したわけではありません。彼が私の弟天子である桜鈴を恫喝し、雷君の花瓶を割っていたものですから…。天徒として、指導が必要かと思いまして」
よくもこうスラスラと誤魔化しの言葉が思いつくな。俺には難しかったのに……。
見事に筋の通った虚言と、それを言い淀まない堂々とした態度に逆に関心すら抱く。
あまりに堂々としているから、こちらも、もしかするとそれが本当だったかもしれない…と己の記憶を疑いそうになる程だ。
しかし同時に思った。もしも彼の言う事を本当にすれば、花瓶を割った犯人は千晴になり、桜鈴は雷君に怒られずに済むのではないかと。
俺は別に、折檻は慣れたことだし。
「彼の言っていることは本当?」
あの人が振り返り、俺に問う。
天徒の言う嘘の事実を受け入れ、事を収めようと決めた千晴は、その問いに頷くため晴君の顔を見上げ、そして、目が合った。
その瞬間、嘘みたいに血の気が引く。
晴君の目は普通だった。千晴を悪だと決めつけていない、しかし盲目的に信じてもいない、純粋に事実を確認しようとする目。
だがしかし、一瞬でもその目が冷たく細められるのを想像してしまうと駄目だった。
千晴は晴君を目の前にして初めて、桜鈴の怖がっていたことがやっと現実味を帯びて想像できていた。
この人に嫌われたくない。失望されたくない。
天界に来る前は、誰に嫌われても、殴られても、それが当たり前だったから何とも思わなかった。
しかし、今まで与えられていたこの人からの笑顔が、温かな気持ちが、全部逆のものに置き換わることを思うと、それが恐ろしくて仕方がない。
喉が渇いて、張り付いたように声が出なかった。
肯定どころか、否定すらも出来なくて、長引く沈黙に焦りと恐怖だけが募った。
何も言わない千晴に、晴君が再度口を開くのが見える。
自然と身体が強張った、その時、
「ぼくのせいなんです!!」
悲鳴のようなその声は、いつの間にか立ち上がっていた桜鈴のものだった。
彼はひっひっ、としゃくりあげるように泣いていた。大粒の涙が絶えず頬を滑り落ち、胸のあたりでキツく握りしめられた小さな拳は震えていて、物凄く勇気を振り絞っているのだと分かる。
「ぼっ、ぼくっ、ぼくがっ、花瓶、割りました!ち、千晴くんはっ、悪くなくて、っ、て、手伝ってくれて…っ!お兄様に歯向かったのも、晴君のこと貶されたからで…!だから千晴くんを怒らないであげてください!悪いのはぼくだけです!
──ぼくが…っ、可愛いからっ!!」
ん?
嗚咽交じりの言葉を真剣に聞き取ろうとしていた千晴と晴君の表情が、同時に固まった。
しかし自分の事で精一杯の桜鈴は、その反応に気付く筈もなく続ける。
「ぼくが可愛いから雷君に好かれてて、他の天子が嫉妬するんです!ぼくが可愛いからお兄様方も意地悪をしてぼくの気を引きたくなるんです!全部ぼくが可愛いのが悪いんです!!だからっ、だから…っ、ちはるくんをなぐったりけったりしないでくだざい゛ーー!!うえ゛ーーん!!」
「殴ったり蹴ったりするやつだと思われてるの僕!?」
最終的に、晴君の動きを制限するように服を掴んで泣き始めた桜鈴。
千晴はそれを見て唖然とした。
あんなに叱られたくないと言っていたのに。黙っていれば叱られずに済んだかもしれないのに。何故自分が悪いと白状するようなこと……。
「えっと、こっちが本当?」
桜鈴に泣きつかれて、困り顔の晴君が再度問う。
急に振られたそれに千晴はビクリと肩を揺らしながらも、少しだけ考えた後、ぎこちなく頷いた。
一連の流れを見ていた天徒は、自分の分が悪くなったのを察したのか、チッと小さく舌打ちしてから、背を向け走り去る。
それに気付いた晴君が一瞬彼を引き留めようと腕を伸ばしたが、びえーー!!と真下で泣き叫ぶ桜鈴を振り払えず、結局は諦めたようだ。
晴君は桜鈴と目線を合わせるようにしゃがむと、彼を落ち着かせるために優しく笑いかける。
「えっと、桜鈴、ちゃん?大丈夫だよ、怒ってないから」
「いやあーー!なぐられるぅう!!」
「ええーー!?」
「うぇえーーん!こわいよお雷君ーーー!!」
恐慌状態の桜鈴が泣き叫んだ。
その直後だった。
目を焼く閃光と、ドンッ!と重く全身を震わすような轟音が同時に身体を襲う。
ビリビリと骨の芯から痺れる感覚があった。耳もきーーんと耳鳴りが喧しく、まともに機能しない。平衡感覚がなくなって後ろ向きに倒れそうになったのを、大人の腕が受け止めてくれた。
晴君だ。
どき、と衝撃とは別に跳ねる鼓動を持て余しながら、千晴は漸く明滅が治まった視界で彼を見上げる。そして、その晴君が視線を向ける先を同じく見やった。
そこには、焼け焦げた地面の上、パチパチと電気の残滓が残る落雷の中心に立つ一人の美丈夫の姿があった。
その男は近くでへたり込んでいた桜鈴を抱き上げると、細長く美しい指先で、彼の頬を濡らす涙を優しく拭う。
されるがままの桜鈴を見て千晴は確信した。この人が、桜鈴の言っていた雷君だ。
「可哀想に、こんなに泣いて」
気怠げな低音は甘く、色気のある響きでこの異様な空間を満たした。
しかしそれは、次の瞬間には恐ろしく冷たい気配を纏ってこちらに向けられる。
「──それで、どの醜男を打てばいい」
電気によってまばらに逆立った黒髪の隙間から、稲妻のように強く輝く金眼が覗いた。
殺気に近いものを溜め込んだ鋭いそれに、本能的な危機を感じた身体が無意識に一歩足を下げる。
そのすぐ後に、「ごめんごめん」とどこか場違いな、気の抜けた声が千晴の隣から聞こえて、皆の視線がそちらに集中した。
「僕が花瓶を割っちゃって。その子が君のために綺麗な花を運んでいたみたいなんだけど、少し驚かせてしまったんだ」
桜鈴が驚いたように「え、」と小さく声をあげた。千晴も目を見開いて晴君を凝視する。
まさか、桜鈴を庇って罪を被るつもりなのか。
千晴達の視線に気づいているのか否か、彼はおもむろに手を花瓶の方に向けた。すると、四方に散らばっていた花瓶の破片は、どこか意志を持ったように浮き上がり、かち、かち、と小さな接着音を立てながら元の形へと戻っていく。そして数秒の後、完全に割れる前の綺麗な花瓶の形になった。
それは人の手を借りないまま浮遊し、雷君の前まで届けられる。同じように、地面に落ちていた桜の枝は桜鈴の手元に届けられた。
目の前で行われた神業に唖然とする千晴達に、晴君は微笑まし気な視線を向ける。
「元に戻せるよってすぐに言ってあげれば良かった。中の水が漏れちゃったから、それだけ補充してもらっていいかな?本当にごめんね」
「………なしかけてんじゃねぇ…」
「え?」
雷君が何事か小さく吐き捨てるように言った、その直後。
折角元通りになった花瓶は、それを持ち上げた雷君の手で、またもけたたましい音を立てて地面に散らばった。
しんっ、と静まり返る中で、苛立ちを表すような深いため息が響く。
「花瓶なんてどうでもいい。桜鈴、おまえを傷つけたあの汚天人、どうして欲しい?何でも言って。叶えてあげる」
桜鈴に向けられる甘やかな態度とは逆に、周囲には攻撃的な電光がパチパチと弾けていた。
判断を迫られた桜鈴は、緊張したように何度も息を吐き出して、必死に何を言うべきか考えてるようだ。
そして、
「ぁ、の…、」
「うん」
「は、早く、二人で、花を眺めたいです」
「……、そうだね。そうしよう」
鶴の一声とは正にこのことだった。
周囲で音を立てていた電光は一瞬にしてなりを潜め、逆立っていた雷君の髪も落ち着いたように下がる。「綺麗な花だね。どこに咲いてたの」と桜鈴に問う姿には、先程までの苛烈さは見えない。
彼はそのままこちらに背を向けると、特に挨拶などもなく立ち去っていった。
片腕に抱かれた桜鈴が去り際、雷君にバレない程度にペコリと頭を下げる。その表情は随分と晴れやかだ。晴君はそれに満足したように手を振っていた。
すごいな、桜鈴を笑顔にさせてる。俺には出来なかったことだ。
その後、何故か雷君は遠ざかりながら、こちらに見せつけるように中指を立てていたが、何の意図があるのかよくわからなかった。一瞬天界式の挨拶かとも思ったが、晴君もわかっていなかったようだから違うらしい。
晴君はひとまずという感じで、雷君の背中に同じ手の形を返していた。
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