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5/A Word to You.

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「それでさ」

 愛莉は不貞腐れたような体風を崩して、俺の目を改めて見つめなおしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 その言葉の先には、どこか俺を吟味するような雰囲気がうかがえる。その言葉の続きを待つことは、少しばかり恐怖心にも似た焦燥を抱いてしまう。

「──翔也は、どうしたいの?」

 愛莉は、そう言葉を呟いた。

 俺が、したいこと。

 俺自身が何をしたいのか、何を為したいのか。

 どの行動を選ぶのか、選択するのか。

 何をすればいいのかではなく、何をしたいか。

 受け身に回って生きてきた俺が、真に何をしていきたいか。

 行動に、本来理由は必要ない。理由なんて用意しなくても、後から適当に作り出すことができる。

 そのうえで、俺は理由がなければ行動をしない、そうすることで衝動的な行動を抑えてきた。それが罰だとでも言わんばかりに、そうしなければ、俺という存在が許されていないというように。

 物事に正しさは必要ない。必要な場面はあるかもしれないけれど、すべてのことに対して正しさを求めるのは間違っている。理由なんて求めるべきではないのだ。理由などなくても、理由を求めなくても、それでも行動しなければいけない時が必ずあるのだから。

 いつまでも迷い続けている自分がいる。以前までの自分なら、一年前の自分なら、適当にあしらう程度の迷路のような感情。そんな鬱屈を、俺はどうしたい?

 整理をしなければいけない。

 自分自身でさえ理解していない自分の感情を。

 どこまでもドロドロと入り混じった色彩の欠片も存在しない絵の具箱のような、腐った感情を。

 考えよう。彼女の言葉に答えるために、今は考えよう。





 言葉は愛莉に吐き出せた。それができたのは理由が必要だったからだろうか。いや、そういうわけではない。俺が風邪という状況で、風邪という弱い場面を示したことによって、そうして俺は彼女に言葉を吐きだせただけだ。そこに俺の意志は介在するのだろうか。俺は誰かに許しを乞いたかったのだろうか。わからない。どこまでもわからない。自分の感情さえ判断がつかない感覚がする。

 だが、言葉を吐きだすことで、どこか浮ついた心臓の感覚を、心臓の熱を感じることができる。凍って固まっていた血流の波が、耳まで帯びているような感覚がする。そのどれもが生きている心地を覚えさせる。きっと、それは一つの錯覚かもしれない。それでも、環境のすべてが俺に酸素を運んでくる。呼吸をするための要素が俺の手元にある。目の前で俺の話を聞いてくれた彼女のおかげで、俺は今呼吸をすることができている。体調が悪くて、今にも喉のフィルターが死んでしまいそうなのに、それでも先ほどよりかは、いつも生きているときよりもマシに呼吸をすることができているような気がする。

 その上で、俺がしたいこと。これから俺がしたいこと。俺がするべきことではない。するべきこと、というのは俺の逃げだ。それを探すことだけは違うような気がする。俺は、また理由に逃げようとしている。それは許されない。そうしないために、思考を働かせなければいけないのだ。

 俺がしたいこと。やりたいこと。それらをきちんと考えなければいけない。

 自分のしたいことなんて見つからない、それはいつだってそうだった。衝動的に行動することは悪だから、俺はいつだって理由を求めようとした。そうでなければ人を傷つけることになってしまうから。

 でも、俺はいつか失くしてしまった素直さが欲しい。以前は持っていたはずの、愛莉に答えをその場で出すことができた過去の自分のように、素直に言葉を吐きださせて、自分がしたいように行動できる素直さが欲しい。

 こんな風に、悩まない自分の素直さが欲しい。取り戻したいのだ。

 そのために、俺は何をするべきか、どうすればいいか。素直さをもって、どうしたいか、何がしたいのか。

 皐の顔が頭にちらつく。敬語がちらつく。

 俺は皐とどうなりたいのか。

 そんなことはわかりきっている。

 俺は皐と正しい関係性でいたい。彼女に謝罪をしたい。そうして、昔の関係性を取り戻したい。敬語で距離をとられる関係性をどうにかしたい。

 敬語でちらつく伊万里の顔。憂鬱が駆け込んだ雨音の中、どうしようもないほどに申し訳なさそうな、憐れむような表情。そんな彼女の顔が思い浮かぶのだ。

 俺は皐に対してどうしたい?

 伊万里に対してどうしたい?

 俺は、彼女らに対してどうしたい。

 わからない。いいや、わからないふりをしている。

 目を逸らすのではない。目を向けろ。そうすることでしか俺は前に進めない。

 俺は溜息をつく。答えはもう心の中にある。思考を働かせなくても、目の前にある。





「俺は、取り戻したいのかもしれない」

 言葉を整理する。言葉を整理することで、思考を整然とする。静まり返った空間の中、彼女の呼吸に紛れながら、俺の言葉は響いた。

 かもしれない、なんて言葉でごまかしている。でも、それを彼女は無視して言葉を紡ぐ。

「なにを?」

「……すべてを?」

 また、誤魔化すように言葉を吐く。でも、その癖はぬぐえそうにない。結局のところ、俺の本質はそこにあるのかもしれない。

 俺は、すべてを取り戻したいのかもしれない。時間を取り戻して、素直さを俺の中に留めたい。誰かを悲しませるようなことをしたくない。正しい素直さを取り戻したい。どこまでも俺は俺で過ごすことができるように、祈りを捧げたいのだ。

 ああ、強欲だ。ひどく強欲だ。でも、それが人間らしいような気がする。

「さっちゃんのこと?」と愛莉は俺に聞いてくる。それだけじゃない。俺は「……いろいろ」と間をおいて返す。

 愛莉には言っていない人間関係の中で取り戻したいものがある。それに言及するほどではない。伊万里も、俺は適切にかかわりたい。

 彼女はどこか納得がいってなさそうな表情をする。その表情の裏を読み取れない。

 どうした、と聞きたくなって、そのまま言葉を出そうとする。その前に愛莉は言葉を消しながら言葉を吐く。

「私は?」

「……えっ」

「だから、私は?!」

 愛莉はまた不貞腐れたように言葉を吐く。その視線の強さに、俺は彼女の目から視線を逸らしそうになった。

 ──でも、逸らさない。

 見ないふりはしない。視界の中にあるものを無視はしない。目を逸らしたりはしない。目の前にあるんだから見つめてやる。そう思って、俺は彼女の瞳をとらえた。

 ここから始めよう。あらゆるものを始めよう。彼女との関係性も、終わってしまった、いいや、俺が終わらせた関係性も、すべてがすべて、ここから始めよう。

 目を逸らすことはもうしない。言い訳はしない。理由は求めない。

「なあ」と俺は言葉を彼女に投げかけた。

 一瞬、膨らんでいた彼女の表情が、どきりとしたように自然な雰囲気に戻る。その後の俺の言葉を待って、そうして──。


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