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5/A Word to You.
5-12
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◆
俺たちの家族関係が歪み始めたのは、中学生のころだったと思う。もしくは、それより以前から俺が気付かないだけで始まっていたのかもしれないが、それについてはよく知らない。感情の機微に疎かった時期にそれを悟ることは、どうしようもなく難しいだろう。
子供の意識は愛によって成長する。両親から得られる愛が確かなものであれば、歪みを持つことなくまっとうな成長をすることができるだろうし、もしまともな愛を受け取ることができなかったのなら、愛の過不足を誰かで覆い隠そうとするのだろう。
俺なら愛莉、皐には俺。そんな具合に。
それでも、あることに気づくまでは共働きである両親の関係性に疑いを持つことはどこまでもなかった。
だって、それだけ愛されているからこそ、彼らは働いているのだと俺は思っていたのだから。
それだけの自覚を持っていたから。
そんな自覚は、きっと錯覚でしかなかったんだろうけれど。
◆
父の帰りが遅くなることや、休みの日であっても家にいないことが大半であった。それは確実に仕事によるものだということは理解できて、いつも帰ってくる際に疲れた顔をぶら下げて死にそうな雰囲気を抱いていたから、きっとそれは本物であると俺は思っていた。当時、きっとそれについては真だったように思う。
だが、そんな帰りの遅い父に対して、母は呆れるような対応をした。
確か、遊園地に行くとか、そんな予定があったはずだ。週末の日曜日、唯一の父の休みにそんな計画を立てていた。それを父が知っていたかどうかは知らないけれど、母は俺たちに週末はどんな楽しみがあるんだと言葉を吐いていた。だから、俺たちもそれが現実であると勝手に思っていた。小学生の頃だったと思う。もしくはそれより幼い頃かもしれない。
だが、その週末に遊園地に行くことはなかった。できなかった。そもそも車を繰り出すはずの父が家の中にいなかった。
日曜の夕方辺りに父は帰ってきて、死にそうな顔になりながら倒れるようにソファーに寝転がった。それを叱責する母の姿をよく覚えている。でも、その一方的だともいえる喧嘩はむなしいものにしかならなかった。父は反応することもできないままだったからだ。
しばらくして母もパートに行くようになった。俺たちは朝方に母の顔を見て、夜の時間に母の顔を覗くことはできなくなった。
父の負担を少しでも減らすため、母はそんなことを言っていた。妥当だと思った。それで父も休むことができる時間が増えるのならば、それがいい。それで解決するのなら、それで家族関係のギクシャクが直るのならばそれでいいと思って、俺は肯定した。皐は微妙な顔をしていた。
……ああ、だからあの時は、俺たちも小学生のはずだ。俺も皐もきちんと物心をもって接していたはずだ。家に帰って、そうして遊ぶことが増えた。たまに愛莉とかを含めて、買ってもらったゲームとかで遊んでいたはずだ。もしくは父が家に置いていたノートパソコンで、よくわからないままにピンボールのゲームで遊んでいた記憶がある。確か、そうだ。そのはずだ。
そんな時期、しばらくそんな時間を過ごした。そんな時間の中で、だんだんと母が帰ってくるのが遅くなっていった。
母親の仕事はスーパーのパート。昼頃から夜にかけて働くらしく、いつもの時間帯であれば帰ってくるのは夜の十時ごろ。だいたいそのあたりにスーパーも閉店するので、別に疑う要素のないこと。
でも、十字を越していくことが週に二、三日から四日に、もしくは働く日が週五日から週六、七になった。俺たちは家に取り残された。家族で出かけることは全く存在しなくなって、俺たちは家の中で過ごすことしかできなくなった。
それが、ずっと、ずっと続いていた。
◆
「母さんはどうした?」
静かに帰ってくる父の姿を、珍しく夕方に見かけた。何年ぶり、という単位で言えることかもしれない。珍しく爽やかな顔をしている父に夕方に会えたのは、とても印象に残るイベントとして記憶にある。
俺はパートに行っている、と父に伝えた。
そもそも、父には伝えていると思っていたから、当たり前のように言葉を吐いた。でも、それを父は知らないようだった。
よくよく考えなくとも、父が帰ってくる時間帯も、帰る日数もこれまでと変わっていない。負担は相変わらずだった。疑えばすぐそこに答えはあった。父は母が働いていることを知らなかった。
父は俺の言葉を咀嚼して、よくわからない顔をした。苦虫を嚙み潰したような表情と言えばいいのだろうか、居間に上がってから何度か溜息を吐く姿を見かけた。俺は皐と一緒に夕飯を作った。夕飯と言っても、簡易的なカップ麺だけ。油を使った料理は危険だから、と母に言われていたから、母がいつもスーパーから持って帰ってくる大量のカップ麺を俺たちは咀嚼していた。
父は、それに怒った。
……怒った? 俺たちにではないはずだ。どこか信じられないような表情で俺たちを見て、大きな声を出した。皐がびっくりした表情をして、すぐに泣きそうな顔をした。俺も同じような表情をしていたと思う。そんな表情に見つめられた父はうろたえて、しばらくしてからどすどすと足音をならせて、どこかに消えて行ってしまった。
◆
そんな夜に、聞こえてきた喧噪、怒号、叫び声、物音、がしゃがしゃと。酷く五月蠅い、子供の心を殺すような、耳に痛すぎる酷い音。
俺たちの家族関係が歪み始めたのは、中学生のころだったと思う。もしくは、それより以前から俺が気付かないだけで始まっていたのかもしれないが、それについてはよく知らない。感情の機微に疎かった時期にそれを悟ることは、どうしようもなく難しいだろう。
子供の意識は愛によって成長する。両親から得られる愛が確かなものであれば、歪みを持つことなくまっとうな成長をすることができるだろうし、もしまともな愛を受け取ることができなかったのなら、愛の過不足を誰かで覆い隠そうとするのだろう。
俺なら愛莉、皐には俺。そんな具合に。
それでも、あることに気づくまでは共働きである両親の関係性に疑いを持つことはどこまでもなかった。
だって、それだけ愛されているからこそ、彼らは働いているのだと俺は思っていたのだから。
それだけの自覚を持っていたから。
そんな自覚は、きっと錯覚でしかなかったんだろうけれど。
◆
父の帰りが遅くなることや、休みの日であっても家にいないことが大半であった。それは確実に仕事によるものだということは理解できて、いつも帰ってくる際に疲れた顔をぶら下げて死にそうな雰囲気を抱いていたから、きっとそれは本物であると俺は思っていた。当時、きっとそれについては真だったように思う。
だが、そんな帰りの遅い父に対して、母は呆れるような対応をした。
確か、遊園地に行くとか、そんな予定があったはずだ。週末の日曜日、唯一の父の休みにそんな計画を立てていた。それを父が知っていたかどうかは知らないけれど、母は俺たちに週末はどんな楽しみがあるんだと言葉を吐いていた。だから、俺たちもそれが現実であると勝手に思っていた。小学生の頃だったと思う。もしくはそれより幼い頃かもしれない。
だが、その週末に遊園地に行くことはなかった。できなかった。そもそも車を繰り出すはずの父が家の中にいなかった。
日曜の夕方辺りに父は帰ってきて、死にそうな顔になりながら倒れるようにソファーに寝転がった。それを叱責する母の姿をよく覚えている。でも、その一方的だともいえる喧嘩はむなしいものにしかならなかった。父は反応することもできないままだったからだ。
しばらくして母もパートに行くようになった。俺たちは朝方に母の顔を見て、夜の時間に母の顔を覗くことはできなくなった。
父の負担を少しでも減らすため、母はそんなことを言っていた。妥当だと思った。それで父も休むことができる時間が増えるのならば、それがいい。それで解決するのなら、それで家族関係のギクシャクが直るのならばそれでいいと思って、俺は肯定した。皐は微妙な顔をしていた。
……ああ、だからあの時は、俺たちも小学生のはずだ。俺も皐もきちんと物心をもって接していたはずだ。家に帰って、そうして遊ぶことが増えた。たまに愛莉とかを含めて、買ってもらったゲームとかで遊んでいたはずだ。もしくは父が家に置いていたノートパソコンで、よくわからないままにピンボールのゲームで遊んでいた記憶がある。確か、そうだ。そのはずだ。
そんな時期、しばらくそんな時間を過ごした。そんな時間の中で、だんだんと母が帰ってくるのが遅くなっていった。
母親の仕事はスーパーのパート。昼頃から夜にかけて働くらしく、いつもの時間帯であれば帰ってくるのは夜の十時ごろ。だいたいそのあたりにスーパーも閉店するので、別に疑う要素のないこと。
でも、十字を越していくことが週に二、三日から四日に、もしくは働く日が週五日から週六、七になった。俺たちは家に取り残された。家族で出かけることは全く存在しなくなって、俺たちは家の中で過ごすことしかできなくなった。
それが、ずっと、ずっと続いていた。
◆
「母さんはどうした?」
静かに帰ってくる父の姿を、珍しく夕方に見かけた。何年ぶり、という単位で言えることかもしれない。珍しく爽やかな顔をしている父に夕方に会えたのは、とても印象に残るイベントとして記憶にある。
俺はパートに行っている、と父に伝えた。
そもそも、父には伝えていると思っていたから、当たり前のように言葉を吐いた。でも、それを父は知らないようだった。
よくよく考えなくとも、父が帰ってくる時間帯も、帰る日数もこれまでと変わっていない。負担は相変わらずだった。疑えばすぐそこに答えはあった。父は母が働いていることを知らなかった。
父は俺の言葉を咀嚼して、よくわからない顔をした。苦虫を嚙み潰したような表情と言えばいいのだろうか、居間に上がってから何度か溜息を吐く姿を見かけた。俺は皐と一緒に夕飯を作った。夕飯と言っても、簡易的なカップ麺だけ。油を使った料理は危険だから、と母に言われていたから、母がいつもスーパーから持って帰ってくる大量のカップ麺を俺たちは咀嚼していた。
父は、それに怒った。
……怒った? 俺たちにではないはずだ。どこか信じられないような表情で俺たちを見て、大きな声を出した。皐がびっくりした表情をして、すぐに泣きそうな顔をした。俺も同じような表情をしていたと思う。そんな表情に見つめられた父はうろたえて、しばらくしてからどすどすと足音をならせて、どこかに消えて行ってしまった。
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そんな夜に、聞こえてきた喧噪、怒号、叫び声、物音、がしゃがしゃと。酷く五月蠅い、子供の心を殺すような、耳に痛すぎる酷い音。
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