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第22話 ターニングポイント

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 真っ先に目に映ったのは、古ぼけた木目の天井だった。それから和風のペンダントシェード。部屋は明るく、電気は付いていない。

 見知らぬ和室で、優奈は目を覚ました。

(ここは……)

 ゆっくりと、寝かされていた布団の上に身を起こす。

(どこ、だろう)

 藍染めだろうか。朝顔柄の綺麗な浴衣を着せられていた優奈は、ありきたりな疑問を浮かべながら室内を見回した。

 日当たりのいい和室だった。

 床の間に飾ってあるのは、なんて書いてあるか分からない掛け軸と、あまり大きくない壺。首を回せば、広々とした縁側の向こうには、小さいけれど立派な庭が見える。

 庭を覆う大きな木の枝葉から零れる木漏れ日が、優しく当たりを照らしていた。どこかに小鳥が隠れているのか、微かな囀り声が聞こえる。

 そんな穏やかさに逆に不安を覚えつつ、そっと布団から抜けだそうとした時だった。

「……あぁ。もういない」

 誰かの話し声が聞こえた。
 枕元の襖の向こうからだった。

「俺に伝えたのもそれだけだ。……あぁ、俺の方から提供できる情報はそれだけだ。あとは本人から聞くしかないが――」

 声が不自然に途切れる。

「ん? あぁ起きたみたいだ」

 その一言が示しているのが自分のことだと分かり、優奈はビクッと肩を跳ねさせた。
 ほどなくしてスッと襖が開き、黒い浴衣姿の男性が現れる。
 その人は、人ではないような赤い瞳で優奈を見下ろして、静かに口を開いた。

「気分はどうだ」
「え、はい……だいじょう――」

 大丈夫と言いかけて、優奈は思い出す。

 暗い路地。優奈の身体から流れ出る赤い液体。首元に当たると息と、肌を這う舌。耳の奥にこびりついて離れない、血を啜る――

「私……喉、切られて……死――」

 その先の言葉は、言えなかった。
 溜まらず、ぎゅっと自身の身体を抱き締める。理由のない寒さがこみ上げ、肌が粟立つ。

 震える優奈を見下ろして、やはり静かにその人は言った。

「起きられるか。こっちで話す」






「ん」

 妖崎新と名乗ったその人は、簡素な一言と共にコーヒーの入ったマグカップを優奈の前に置いた。四角い座卓の一面に自分の分であろうカップを置き、日に焼けた畳の上にあぐらを掻く。

「ありがとう……ございます……」

 優奈は恐る恐るカップに手を伸ばし、両手で掴んだ。指先からじんわりと温かさが伝わってくる。
 そっと口を付けると、コーヒーは温かった。それに……薄い。量を間違えたんだろか。

 それでもちびちびとコーヒーを啜る。コーヒーは苦いだけで好きではないけれど、なんとなく飲む手が止まらなかった。熱すぎない温かさが、胃から身体全体へ、ゆっくりと広がっていく。

 そんな優奈を、新はどこか伺うような目で見つめていた。

「落ち着いたか」
「……はい」

 戸惑いながらも頷く。ややあってから優奈はコトンと、テーブルに温いコーヒーマグを置いて、新を見た。

「私、死んだはずでは……」
「そう、お前は死んだ」

 問いとも分からないその躊躇いがちな呟きに、新は迷いなく首肯する。

「そして俺の眷属として蘇った」
「けんぞく……?」

 その聞き慣れない言葉に、優奈は僅かに首を傾げた。新は静かにマグカップに口を付けた。

「……薄いな」

 薄いんかい、と。ぼそりと呟かれた感想に、思わず心の中でツッコミを入れてしまう。

「吸血鬼って分かるか?」
「吸血鬼ってあの……血を吸う怪物……?」

 問い返した優奈に「そう」ともう一度新は頷いて、

「!?」

 バサリ――視界を覆い被してしまいそうなほどに大きな黒色が、新の背中から部屋に広がる。

 それはコウモリの羽のように骨と皮で出来た、一対の漆黒の翼だった。

 思わず指さして、優奈は驚きに口をはくはくとさせる。優奈の反応が面白かったのか新は喉の奥でクツクツと笑って、

「吸血鬼にはいくつかの能力があるが、その一つに、人間を自身の眷属に作り替えるってものがある。簡単に言えば下級吸血鬼。配下、主たる吸血鬼が意のままに操れる下僕だ」

 言いながら新は、翼を仕舞う。出した時を逆再生するかのように――まるで黒い水が、身体の中に吸い込まれていくようだった。

 新は伏し目がちに、その筋張った指でマグカップの縁を撫でた。

「……お前はあの日、何者かに襲われて、瀕死の状態だった。そこで俺が力を分け与え、お前を吸血鬼化させた。吸血鬼は人間に比べて身体機能が高い。筋力、視力、聴覚、もちろん治癒能力も。その力で、お前を死の淵から引き戻したってわけだ」

 ――吸血鬼になった? 自分が?

 信じられないとばかりに、優奈は首に手を当てる。確かに、そこにあったはずの傷は跡すら残っていない。

『永遠を生きる覚悟はあるか?』

 脳裏に、あの夜の言葉が反芻される。

「永遠、って……」

 ぽつり、零した優奈に、新は思い出したような声を上げた。

「ん? あぁ、吸血鬼の寿命は半永久的だからな。と言っても、お前は素体が人間だ。俺がオリジナルで今のところ千年ちょっとだから……生きて三百年ぐらいか? ま、人間にしたら永遠にも近しいかも知れないが」

 千年、三百年。さらりと告げられたその言葉に目が回る。

「血を……人の血を、飲まないと、いけないんですか……」
「多少はな。吸血鬼の命は、全て血の力によって成り立っている。力が尽きれば灰となって死ぬ。……その前に、抗いがたい飢餓感に襲われるだろうけどな」

 なんでもないことのように新は言う。その言葉一つ一つが、まるで鋭利なナイフのように優奈の思考を刺していった。

 血を啜って生きなくてはいけない。この先ずっと、何十年、何百年も?
 優奈は咄嗟に、唯一の肉親を思い浮かべた。

 ――母に。

 母に、なんと言えばいいんだろう。

 まるで自分の首を絞めるように、自身の首元に両手を当てたままの優奈を見て、何を思ったのだろう。新はあっけらかんと手を振る。

「まぁ安心しろ。吸血鬼と言っても、性質には個体差がある。陽の光を浴びて灰になるやつはあまりいない。今は人間として生活してるやつがほとんどだし、人間側からの協力もある。普通に暮らす分には支障は――」
「う、ウソです」

 そんな言葉が、咄嗟に口を突いて出た。
 新が口を噤んで、どこか剣呑な目を優奈に向ける。

「そんな、吸血鬼なんて、あなたが本当にそうだとしても、死にかけた人間を生き返らせるなんて、ましてや、別の生き物にしてしまうなんて……」

 本当に、吸血鬼がいたとして。
 この人の見せた翼が嘘じゃないとして。
 優奈が本当に、吸血鬼になってしまったとして。


 優奈はこの先、どうやって生きればいいのだろう。


 今はいいかもしれない。けれど十年、二十年後、歳を取らず、今の見た目のまま、周りだけが年老いて、周囲に、母になんと言えばいいのだろう。人間じゃなくなったと言えるのだろうか。信じて貰えるのだろうか。人と同じように生活できるのだろうか。人と同じように、仕事をしていけるのだろか。

 そうだ、仕事。

「そ、そうだ……野々宮先生……!」

 忘れてはならない存在を思い出したその時、部屋の隅から着信音が鳴った。

 びっくりして半ば跳ね上がり視線を向けると、そこには見慣れた優奈の仕事鞄があった。どうやら奇跡的に、血は付いていない。急いで中からスマホを取り出すと、見知らぬ固定電話の番号と共に、隣県の市町村の名前が表示されていた。

 嘆息する新をよそに、優奈は電話に出る。

「も、もしもし!」
『お電話失礼いたします。I県警察本部の田口と申します。美咲優奈さんのお電話で間違いないでしょうか?』
「けっ、県警!? あっ、はっ、はい! 美咲優奈です!」

 突然の警察からの電話に、声がひっくり返ってしまう。
 しかし田口と名乗った警察官は気にした様子もなく、むしろ安堵の息を零した。

『あぁよかった。ご無事なようで何よりです』

 心底ほっとした。そんな口調に、優奈の中で不安が鎌首をもたげる。

「あのう、何か……?」

 何かあったのでしょうか。短くそう尋ねる優奈に、何故だか田口は黙ってしまう。
 沈黙は、実際には一瞬にも満たなかった。

『……落ち着いて聞いて下さい』

 そう前置きしてから、隣県の警察官は言った。

『野々宮秀造さんが亡くなりました』

 事実を告げる無慈悲な声に、たっぷり数秒をおいて――口の端が、歪む。

「……え?」

 理解できない。
 そんな声と共に、乾いた笑いが零れた。
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