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第24話 もう人間ではないけれど

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「落ち着いたか」

 奇しくもあの日と全く同じ台詞に、優奈はこくんと頷いた。

 あの日も――優奈が吸血鬼となって目を覚ました時も、この事務所の居間で新と向き合った。

 けれど今、座卓の上に置かれているマグカップには、コーヒーではなく優奈の好きな緑茶が入れられていた。一緒に出されたケーキは、昨夜優奈が事務所の冷蔵庫に置いていったもの。優奈が持ち帰った方は何度も落としたせいで、きっともうぐちゃぐちゃだ。

「覚えているか」

 確認するような問いに、優奈はもう一度頷く。深緑に濁った緑茶に映る自分の顔は、やっぱりどこか透明感を伴っていた。

「私……喉が渇いて、目の前の帆理さんの、血が飲みたくて……」
「そう。でもお前は一方で、頑なに血を飲むことを拒絶していた。自分が死んだこと、吸血鬼化したこと、野々宮が死んだこと……一度に色んな事が起こって、パニックになりかけてた。……だから俺はお前に、吸血鬼になったことを忘れさせた」

 陽の落ちた縁側で行儀悪く片膝を立てて、けれどゆっくりと新は語った。

「忘れさせた……」
「魔眼で暗示を掛けたんだ」
「魔眼……暗示……」

 優奈は呆然と、ひたすらに新の言葉を繰り返す。
 指で自身の目を指さして、新は続けた。

「吸血鬼の能力の一つだ。こう、相手の目を見て命じると、相手に強い暗示を掛けることができる。使う時にはこう、目が光る。多分この光のパターンか何かで洗脳してるんだと思うが」
「洗脳って物騒な……」
「お前も使えるぞ」
「えっ」
「多分、何度か使ってるだろ。無意識に」
「…………」

 その指摘に、優奈は視線を落とす。やっぱり、という気持ちがどこかにあった。

 思い出すのは、野々宮が死んだと連絡を受けて事務所に向かった時だった。しつこいナンパ男に出くわしたが、その引き際は奇妙なほどにあっさりしていた。今日、ここに来る途中も、不調を心配してくれたご婦人がいたけれど、優奈が強い口調で断ると同じように簡単に身を引いた。

 電車の中で女子高生が「目が光った」と話していた。あれは、嘘ではなかったのだ。

「前にも言ったが、吸血鬼を存在させているのは血に宿る『血の力』だ。お前は吸血鬼になりたてで、怪我を治すために血の力を消費した。元々、吸血鬼化の直後は、身体を作り替えるために大量の力が消費されてる。その状態で、更に魔眼を使って力を消費したんだろ。それでギリギリだった身体が、飢餓状態に陥った」

 思い出す。事務所に辿り着いた後、帆理を見て突き上げてきた、気が狂いそうなほどの空腹感を。

『食いたいか』

 あの時――その背に生やした漆黒の翼で、空から降り立った新はそう聞いた。

 優奈は伸ばした自身の手を掴んで、頭を振って、自分の中に初めて生まれたその感情を頑なに否定した。
 死にそうな空腹感だった。目の前の帆理の首筋に、今すぐにでも噛みつきたかった。

 けれど同時に嫌だと思った。

 だって、だって――優奈は――

「……私、人間じゃなくなっちゃったんですね……」

 ぽつりと零す。呟きは夜の帳に、静かに消えていった。

「そうだな」

 と、ややあってから新は言った。

「それでも生きてるし、俺は俺で、お前はお前だ」

 その一言に、何故だか目の前が、急に滲んだ。

 嘘だと思いたかった。

 人間じゃなくなったなんて、一度死んで、吸血鬼になったなんて、そんな非現実的なこと、あるはずがないと思った。ましてや吸血鬼なんて、人の生き血を啜って生きる怪物になったなんて、信じたくなかった。

 目の前の人に噛みついて、血を啜って、ぐちゃぐちゃに、食べたいなんて。そんな気持ち、嘘だと思いたかった。

 だからあの時、優奈はただひたすらに自分の手に爪を突き立てて、首を振った。

『……そうか』

 新はそう言った。淡々とした、夜のような声だった。
 そうして優奈の顎を掴んで上を向かせると、その瞳を光らせて、告げたのだ。

「大丈夫だ。だからそんな――泣きそうな顔、しなくていい」

 ――と。

 そこで優奈の意識は、一度途切れた。その後のことは点々と断片的に、霧がかかったように覚えている。

 野々宮の遺体を確認したこと、警察から聴取を受けたこと。主を失った事務所は必然と閉まることとなり、優奈は無職となった。難しい法的手続きは、意外にも全て新が引き受けてくれた。優奈は弁護士資格もないし、正社員でもなく、何もできなかった。

 ただ、淡々と、それらのできごとは流れていった。けれど淡々と出来ていたのは、新がかけてくれた暗示のおかげだったのだろう。きっと全てを覚えていたら、正気ではいられなかった。

 自身が襲われたこと。吸血鬼化したこと。人を襲いたくなったこと。野々宮が死んだこと――

 そうして日々が淡々と過ぎて、野々宮の葬儀が済んで、諸々の難しい手続きが終わって、さぁこれからどうしよう――と。新が優奈に連絡を入れてきたのは、そんな時だった。

『うちで働け』

 事務所閉鎖の過程で優奈の番号を知った新は、開口一番そう言った。
 お願いでも勧誘でもない。命令だった。

『……なんなんですか、藪から棒に偉そうに』

 失業保険を受け取るための、謎の待機期間中。やることもなく、自宅でサブスクの映画を漁っていた優奈は、その横暴な態度に、電話越しだというのに苦虫を噛み潰した顔をしてしまった。

『お前、まだ次の仕事決まってないんだろ。長らく雑用がか……仕事の出来る助手が欲しいと思ってたんだ。丁度いいからお前、うちに来い』
『今、雑用係って言いかけましたよね』

 魔眼の暗示は、直接目を見なければできない。だから優奈は、新に暗示を掛けられたわけではない。けれど何故だか、優奈はその誘いを承諾してしまった。

 まさかそこが、人外専門のあやしい法律事務所だなんて、思いもしなかったけど――

 いつの間に横になったのか。新は片腕を頭の支えに、縁側に寝そべっていた。いつも通りの、相変わらずのだらけ姿。

 なのに今の優奈は、その姿に安心感を覚えた。

「ねぇ、新さん」

 尋ねる。

「どうして私を雇ってくれたんですか?」
「あぁ?」

 案の定、新は不機嫌そうに返した。

「言ったろ。雑用係が欲しかったんだよ」
「……隠そうともしなくなりましたね」

 男性にしてはやや細い背中を、半眼で眺める。

 ふぁ~あと、新は大あくびをした。

 新は、紛れもなく吸血鬼だ。

 昼に起きていられるし日の光も大丈夫と言っても、やはり主な活動時間は夜になる。朝からずっと起きていて。もうずっと前のよう感じてしまうが、今日は須崎夫婦のこともあったのだ。それ以前に、何日も莉奈に分身を張り付けていた。疲労は溜まっているのだろ。

 優奈はそっと、マグカップのお茶を一口啜った。もうぬるいを通り越して、冷たくなっている。それに――

「にっが」

 べ、と舌を出して、優奈は新に文句を言った。

「新さんこれお茶っ葉入れすぎですよ。それに熱々のお茶で淹れましたね? 相変わらず、淹れるの下手なんですから」
「淹れてもらって文句言うな。俺はコーヒー派なんだ」

 そういう割には、初めて優奈に出したコーヒーの分量は適当だった覚えがあるけど。

 優奈はパクリとケーキを一口食べた。甘かった。美味しかった。
 それからまたお茶を飲む。やっぱり苦い。

 それでも、不思議と笑みが零れた。

「ふふ……美味しい」

 優奈はもう人じゃない。それでも人の時と同じように、美味しいものを美味しいと感じることが出来る。

 優奈の瞳から、一筋の涙が零れる。
 ケーキが甘くて、お茶が苦い。

 優奈は、優奈のままだ。

 そのことに、次から次へと涙が溢れた。
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