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第77話 安息
しおりを挟むセイルと酒を交わして以来、ソレントは酒を呑む機会が増えた。増えたといっても、セイルと呑む以外は気心の知れたゼニスやペリエが務めるエムのカウンターの片隅でキャンドルを眺め、物想いに耽けりながらグラスを傾ける程度ではある。
ソレントが、ローズレッドの柔らかな髪を僅かに揺らし、仄かな酔いを味わっていると、不意に彼の前に新しいマティーニが滑るように置かれた。
「ソレント、あちらの方から」
ゼニスの低い声に視線を上げる。ゼニスは少しだけ顎で奥の席を示した。そこには、元第二騎士団団長ペリエの後にその座を引き継いだ、ティントレット・スウォードが座っていた。
ティントレットはソレントよりも三つ上の30歳。清潔に整えられたブラウンのミドルロングヘアーが、彼の真面目さを表しているようだ。騎士礼服こそ脱いでいるが、その立ち姿には騎士団長としての威厳が感じられた。
「……ティントレット団長?」
「ソレント参謀、御一緒しても?」
その問いに、ソレントは戸惑いを一瞬見せたが、すぐに柔らかな笑みを返した。
「どうぞ……、」
ティントレットはソレントの隣の椅子に静かに腰を下ろした。ゼニスが二人の様子を伺いながら、ティントレットの前にウィスキーのロックを置く。
「団長が私に…、何かお話でも?」
ソレントは、ティントレット団長と二人きりで話す程の深い接点はなかったはずだと首を傾げた。宮廷の仕事で関わることはあっても、社交的な場では無かったと記憶している。
ティントレットは静かにグラスを回した。
「いえ、特に話は。ただ…、貴方の側で酒を呑みたかっただけです」
ソレントは瞠目した。その素直で不躾な言葉が、彼の真面目な印象とあまりにもかけ離れていたからだ。しかし、ティントレットの黒い瞳は真っ直ぐソレントを見ており、そこに冗談の気配は微塵も感じられない。
「……それは、どういう意味でしょうか?」
ソレントは警戒心を滲ませながら、ティントレットの視線を受け止めた。彼は、その柔らかい外面とは裏腹に、宮廷の裏表を知り尽くした近衛騎士隊の参謀だ。不用意な言葉一つで、面倒な公的、あるいは私的な駆け引きに巻き込まれることは避けたい。
ティントレットは一口、ウィスキーを口に含み、ゆっくりと喉を鳴らした。
「そのままの意味です、ソレント参謀。私は、貴方の傍にいる時、最も心が安らぐ。貴方の笑みは、宮廷の喧騒を忘れさせる。それは、長らく私にとっての密かな安息でした」
ティントレットは、ソレントが「リメイン」の常連であることも、この「エム」で物想いに耽っていることも知っていた。近衛騎士隊参謀として、王太子クレアの側近として、秘めた慕情を隠し、常に神経を張り詰めているソレントが、気を抜ける場所を欲していることも。
「……随分と、一方的なご意見ですね」
ソレントは表情を崩さなかった。
「私と貴方に、そのような個人的な安らぎを共有するような関係性はなかったはずですが」
ティントレットは、ソレントの冷ややかな言葉に、わずかに口元に自嘲的な笑みを浮かべた。
「知っています。だから、今まで声をかけるのを躊躇っていました。私は貴方と同じく、国を支える立場にある。私的な感情が、公務に影響を与えることを望まないからです」
グラスをテーブルに置き、ティントレットはソレントの肩越し、バーの奥の壁に視線を向けた。
「だが、貴方が、あのセイル殿と親しく酒を酌み交わしているのを見て……、少し、焦燥感を覚えました」
セイル。ラルク国王やその子供たちをも魅了する「リメイン」の店長。そして、アッシュという公認のパートナーを持つ男。先日の泥酔の現場を見られていたのかと、心の中で焦燥した。
「セイル殿と私とでは、置かれている立場も関係性も全く違います。彼は俺の単なる……、飲み友達ですから」
ソレントは努めて冷静に言った。しかし、ティントレットの次の言葉は、その冷静さを一気に打ち崩した。
「そうでしょうか? 貴方は、あの秘密を抱えた男とそう簡単に『ただの飲み友達』になれるほど、無防備な方ではないでしょう」
ティントレットはソレントに向き直り、真剣な眼差しを向けた。
「貴方は、常に誰かの『裏』を見抜こうとしている。その貴方が、あれほど無防備に笑える相手は、貴方にとって特別な存在なのではありませんか? 私は……、その特別を、貴方と共有したかった」
その言葉は、ソレントが自身でも意識していなかった深層心理を突いていた。クレア王太子への慕情、そして周囲の期待に常に完璧に応えようとする自分自身。その緊張を解いてくれるセイルの存在は、確かに彼にとって得がたいものだった。
「ティントレット団長、貴方は……」
ソレントは言葉を失った。この男は、真面目で堅物に見える外見とは裏腹に、人の機微に聡く、そしてそれを躊躇なく口にする大胆さを持っている。
「私は貴方を慕っています、ソレント参謀。公務への真摯さも、殿下への忠誠心も、そして……、時に見せる、貴方の諦めたような寂し気な瞳も」
ソレントの心臓が、ドクンと大きく鳴った。その瞳は、誰も見抜くことのできない、彼自身の最も個人的な部分だった。
「どうか、私のこの気持ちを、単なる好奇心や遊びだと捉えないでいただきたい。貴方と、公的な立場を超えた、私的な時間を共有したいと願っています」
ティントレットは、ゼニスが用意したウィスキーを一口飲み干し、氷をグラスの中で遊ばせた。
「貴方が、私を安息の場所として選んでくれるのなら、私にできる限りの安らぎを提供しましょう。貴方の全てを、私が受け止めます」
ソレントは、その言葉の重みに動けなくなった。彼は、自分自身が持つ孤独と、誰かに全てを委ねたいという密かな願望を、この団長に見透かされていることに戦慄していた。彼の隣に座るこの男は、騎士団長という公的な顔の下に、強烈な情熱と独占欲を秘めている。
「……安息、ですか」
ソレントは、自分のグラスに残ったマティーニを飲み干した。口の中に残るのは、ジンの苦味と、ティントレットの言葉の熱さだった。
「団長、その言葉……、簡単に撤回できるものではないと、ご存知の上で仰っていますか?」
ティントレットは、初めて柔らかな笑みを浮かべた。その笑みには、一切の迷いがない。
「もちろんです、ソレント参謀。私は、一度決めたことは、決して曲げない主義ですので」
ゼニスが二人の間に、そっと新しいコースターを差し出した。ソレントは、そのコースターに指を滑らせながら、ティントレットの真剣な瞳を見つめ返した。
『この男は、本気だ。そして、私は……、この誘いを断れるだろうか?』
ソレントは知っていた。この一歩が、彼自身の張り詰めた人生に、大きな波紋を立てることを。それでも、その誘いかけに、抗いがたい魅力を感じていた。
「わかりました、団長」
ソレントは、グラスをゼニスの方に押しやった。
「もう一杯、いただけますか? 今度は……、貴方の為に」
ティントレットの茶瞳に、歓喜の光が灯った。
いつしか、ソレントは酔いの世界に彷徨い、ティントレットの肩に頭を預けていた。ソレントの腰に、ティントレットの腕が回される。その指先が、ソレントの細身の体躯を、優しく、しかし確実に所有するかのように撫でた。
ゼニスとペリエはひっそりとその場から離れ、別の客と話をしていたが、時折二人の様子を伺うゼニスの眼差しには、全てを見通すような諦念と、少しの好奇心が混じっていた。
「…ソレント参謀」
ティントレットの低い声が、ソレントの耳元で囁かれる。
「はい…?」
「貴方が、欲しい」
その言葉は、静かなバーの喧騒の中に、鮮やかな熱を放った。ソレントは、肩に預けたままの顔を、わずかにティントレットの方に向けた。酔いで潤んだ瞳が、戸惑いと期待を滲ませながら、ティントレットの真剣な眼差しと絡み合う。
「団長……、それは、貴方の安息の為ですか?それとも……」
ソレントは、掠れた声で、そこまで言うのが精一杯だった。
ティントレットは、ソレントの柔らかな頬に手を添え、親指でその下瞼を優しく撫でた。
「安息は、その結果に過ぎません、ソレント参謀。私は、貴方の全てを欲している。貴方の孤独も、貴方の忠誠心も、そして貴方が誰にも見せない、その奥底の情熱も」
ティントレットは、ソレントの薄い唇に、深いキスを落とした。ウィスキーとマティーニの混ざった大人の味が、二人の間で熱を帯びる。ソレントは、一瞬の戸惑いの後、そのキスを受け入れた。強引だが、決して乱暴ではない、騎士団長らしい統制の取れたキスだった。
「……団長、俺は、明日も公務があります」
キスが途切れた時、ソレントは息を弾ませながら、僅かに抵抗の言葉を口にした。
「知っています。だから、今夜は、貴方を朝まで眠らせるつもりはありません」
ティントレットは、立ち上がると、ソレントの腰に回していた腕をそのままに、彼を抱き寄せた。ソレントは驚きに声を上げる間もなく、ティントレットの逞しい腕の中に閉じ込められる。
「ゼニス、済まないが、勘定はまた後日。私が纏めて必ず」
ティントレットは、ソレントを抱えたまま、バーの奥の出口へと向かった。
ゼニスはカウンターから静かに見送り、ペリエと顔を見合わせ、肩をすくめた。
「ティントレットらしいな。ソレント参謀も、満更でもなさそうだったし」
ペリエが言う。
「ああ。まさか、あの真面目なティントレットが、あんな情熱的な面を持っているとはな。ソレントは、厄介な相手に目をつけられたもんだ」
ゼニスはそう言いながら、二人が座っていたカウンターの席を拭いた。グラスの横には、ソレントが飲み干したマティーニと、ティントレットのウィスキーのグラスが残されていた。
「ま、ソレントがそれを望むなら、いいさ。彼には、あれくらい強引な安息が必要だったんだろう」
ゼニスはそっとグラスを下げた。今夜、「エム」の片隅で、二人の騎士の物語が、ひっそりと始まったのだ。
「団長、下ろして下さい……、歩けます」
バーを出て、人気の少ない夜道。ソレントは恥ずかしさから、ティントレットの胸元で身動ぎをした。
「離しません。私から離れられては困る。それに、貴方の今日の安息は、私によって完全に奪われるべきでしょう」
ティントレットは、ソレントを抱きしめる力を強めた。その腕の筋肉質な感触が、ソレントの身体に熱を伝える。
「ふふ……、安息を奪うとは、随分と矛盾した安息ですね」
ソレントは、ティントレットの肩に顔を埋め、くすりと笑った。この全てを投げ出してしまうような状況に、彼は抗いがたい解放感を覚えていた。
「私にとっての安息は、貴方自身です。それを手に入れる為なら、私は矛盾すら厭いません」
ティントレットはそう断言し、近場の宿へと向かう道を急いだ。ソレントは、彼の熱い胸の鼓動を聞きながら、初めて、他人に全てを委ねる幸福を知った。
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