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第142話 華魔法の開花
しおりを挟む専門家による「リメイン」の増築・改装作業の就業を翌々日に控えた昼下がり。
セイルは、ブランシュ、アルジャンテ、そして犬の姿をしたノワールを伴い、自身が創造した聖域ヴィラの桟橋に立っていた。
心地よい風がピンクベージュの髪を揺らす。セイルは静かに、空を見つめるようにして、新たな魔力を練り上げていた。その意識は深く、鋭く、一種のトランス状態に近い。
きっかけは前日、故・ジゼル王妃が遺した薔薇公園を散歩で訪れた際のことだ。そこで出会った花の微妖精たちと意気投合し、不思議な魔力を分け与えられたのだ。少し前に、ジゼル王妃の血縁者であるトーヤとシオンを転移魔法で遠いディモルフォセカから招いたことへの、妖精たちなりのお礼らしい。
「……セイル様、凄い。この世界で感じたことがない魔力が、今、産まれようとしています」
ノワールが喉を鳴らし、全身の毛を逆立たせた。セイルから溢れ出す未知のエネルギーに本能的な昂ぶりを隠せない。
「なんという荘厳な魔力だ。淡いオーロラのような光の粒子が、主を包み込んでいく……。これほど美しい光景は見たことがない」
人化したブランシュが、銀髪をなびかせながらその光景に目を見張る。セイルの周囲には、物理的な法則を無視した虹色の輝きが渦巻いていた。
「セイル……無理はしちゃダメだよ?」
アルジャンテが心配そうに声を掛ける。先日の深夜に見せた、過去の記憶による錯乱状態が、まだ彼の記憶に新しいのだ。
「……大丈夫だよ、アルジャンテ。疲労感も不快感も抵抗感も、何一つ感じないんだ。むしろ……すごく、心地良い」
セイルがゆっくりと目を開ける。その茶眼は、内側から発光しているかのような輝きを帯びていた。
練り上げられた魔力が、セイルの脳内に直接「知識」として定着していく。それは彼が元いた世界の記憶と、この世界の理が融合して生まれた、彼だけのオリジナル魔法だった。
「……できた。これは、『華魔法』だ」
セイルが指先を空に向けると、そこから淡いピンク色の花弁が舞い散った。
「――サクラ・イリュージャ」
セイルがその名を紡いだ瞬間、桟橋から湖面にかけて、幻想的な桜の花弁が一斉に弾けた。
その花弁が触れた場所から、生命の輝きが溢れ出す。少しだけ元気を失っていた岸辺の草花が、瞬時に瑞々しさを取り戻し、聖域全体の空気が一段と澄み渡っていくのが分かった。
「これは……回復魔法、ですね。ですが、通常の白魔法・光魔法とは次元が違う」
ブランシュが驚愕に目を見開く。
この魔法は人体だけでなく、妖精、精霊、魔物、動物、さらには自然そのものさえも癒やし、活性化させる力を持っていた。
「……どうやら、この華魔法は少し特殊みたいだ」
セイルは自身の脳裏に浮かぶ魔力の根源を見つめ、冷静に分析する。
「レベルの概念は無く、全部で10個の魔法しか覚えられないみたいだね。俺のオリジナルとして固定されているから、これ以上の改良や改変はできない仕様らしい」
「10個だけ……。でも、その一つ一つが世界を塗り替えるほど強力な予感がします」
ノワールが心酔したような瞳でセイルを見上げた。
セイルは空に舞う桜の幻影を眺めながら、アッシュの顔を思い浮かべる。
不意に、セイルが淡い桜色のオーラに包まれる。それは神からの祝福の様な輝きを秘めていた。
「……あ」
セイルの右目から、一筋の涙が溢れる。
「セイル!?」
アルジャンテが駆け寄ろうとするが、セイルが手でそれを制した。
セイルの精神の深層から、重く沈んでいた「澱」が吸い出されていく。
「……とうさん、かあさん。……それから、裕理。本当に、さよならだね」
かつての世界で先立たれた両親への思慕。そして、自分を裏切り、深く傷つけた元恋人への執着と痛み。それらが、淡いカレイドスコープのような光の中に封印されていく。
「主……!」
「ブランシュ、アルジャンテ、心配掛けたね。……もう、俺は大丈夫だ。もう過去に引きずられて錯乱することはない。花微妖精と、この魔法が……俺をこの世界に繋ぎ止めてくれたから」
心からの、純粋で穏やかなセイルの微笑み。それを見たブランシュとアルジャンテの目からも、安堵の涙が溢れ出した。
「……団長!? どうされたのですか!?」
第一騎士団執務室。春の遠征会議を控え、アッシュと共に詳細な兵站計画を練っていた副団長のメンフィスは、目の前の光景に絶句していた。
鋼の精神を持つと謳われるアッシュ・エリンジュームの左目から、不意に大粒の涙が零れ落ち、机上の地図に染みを作ったのだ。
「……驚かせて、すまない。何でもない……大丈夫だ」
アッシュは声を震わせながらも、自身の胸に手を当てた。
契約獣であるノワールからの思念――「パルス」が、濁流のように流れ込んでくる。それは単なる情報の伝達ではない。セイルの魂が浄化され、重い過去の呪縛から解き放たれた瞬間の、震えるような「解放感」そのものだった。
「メンフィス、すまない。少しだけ、時間をくれ……」
アッシュは椅子を引き、両膝に肘を突いて深く前屈みになった。
止まらない左目からの涙は、セイルが流した涙とリンクしている。セイルが味わった苦しみ、そして今手に入れた救い。それをアッシュは我がことのように共有し、独り静かに震えていた。
「……セイル、良かったな。本当に……」
最愛の男がようやく手に入れた真の安らぎ。アッシュは溢れる涙を拭うこともせず、その「痛み」の終わりを共に噛み締めていた。
聖域では、セイルを包む桜色のオーラが収束し、彼の額へと吸い込まれていった。
セイルは今一度、静かに魔力を練り、別の術式を口にする。
「――ロサ・レーゲン」
刹那、セイルの体と、聖域の外に広がる深い森に、真紅の薔薇の花びらが雨のように降り注いだ。
優雅な光景。しかし、異変はすぐに起きた。
森の奥から聞こえるのは、魔物たちの断末魔。
降り注ぐ花びらが触れた瞬間、特定の魔物たちの心臓が弾け、その肉体は瞬時に霧散する。後には、セイルの元へと引き寄せられるように集まる無数の魔石だけが残った。
「……! 花びらが触れた対象を即死させる魔法ですか!?」
ブランシュが戦慄する。鮮血のように赤い薔薇の花弁は、一見、優雅な舞踏のように見えたが、その本質は冷徹な「淘汰」だった。
「……違うよ、ブランシュ。これは『調律』に近いんだ」
セイルは静かに答える。その瞳に冷酷さはなく、ただ圧倒的な理だけが宿っていた。
「この魔法で絶命したのは、森の生態系を壊そうとしていた変異種や、理性を失ってただの害獣と化したものだけ。清らかな魂を持つ者や、自然の循環の一部である者には、これはただの心地よい香りにしか感じられないはずだよ」
セイルが指を鳴らすと、宙に浮いていた魔石たちが、音を立てて無限収納へと吸い込まれていく。
「『ロサ・レーゲン』。美しさと残酷さは、常に表裏一体なんだね。俺を癒やしてくれた花の微妖精たちが教えてくれたのは、愛する場所を守るための、牙の剥き方でもあったんだ」
セイルの立ち姿には、もはやかつての脆さは微塵も感じられない。
過去の未練を光に溶かし、彼はこの世界で、アッシュと共に生きていくための「強さ」を完全にその身へと宿したのだった。
「……さて、少し頑張りすぎたかな」
セイルはふう、と小さく息を吐いた。
新しく刻まれた『華魔法』の知識は、驚くほど自然に彼の一部となっている。全10種のうち、今解放されたのは回復の『サクラ・イリュージャ』と、選別の『ロサ・レーゲン』。どちらも美しく、そしてあまりに強大な力だ。
「セイル様、お顔の色が……見違えるようです」
ノワールが犬の姿のまま、セイルの足元に鼻先を寄せた。先ほどまでの、どこか遠くを見つめるような儚さが消え、今のセイルからは大地に深く根を張った大樹のような、揺るぎない生命力を感じる。
「ありがとうノワール。帰ろっか」
セイルはノワールを抱き上げるとブランシュ・アルジャンテを手招いた。
「ふたりも、今日は見守ってくれてありがとね。未知の体験だったから、ふたりが居てくれて心強かったよ」
ブランシュとアルジャンテがセイルに寄り添う。主の晴れやかな微笑みに、ブランシュは騎士のように深く頭を下げ、アルジャンテはその細い指先をセイルの手の甲に重ねて安堵の吐息を漏らす。
「貴方は私たちの最愛の主です。どこまでもお供いたします」
ブランシュの誓いに、アルジャンテも力強く頷く。
セイルはノワールと共に転移魔法を展開し、慣れ親しんだエリンジューム邸の自室へと戻り一息つくと、庭園のガゼボに移動した。
「さてノワール、お茶にしようと思うんだけど、人化して付き合ってくれる?昨日スリーティアーズを作ったからさ」
セイルが指を鳴らすと、ガゼボのテーブルに純白のクロスが広がり、華やかなスリーティアーズが現れた。
一番上には、真珠のように艶やかなバニラのマカロンと、濃厚なカカオの香りが漂うショコラのマカロン。
二段目には、外はサクッと、中はしっとりと焼き上げられたキャラメルスコーンに、焦がしバターの風味が食欲をそそるオランジェフィナンシェ。
そして一番下の段には、リメイン店主としての拘りが詰まった、海老とアボカドの色彩豊かなスクエアサンドウィッチが並んでいる。
どれも小ぶりで少量なので、数時間後の夕食には影響しないだろう。
「了解しました。セイル様の淹れる茶は最高ですからね」
ノワールがふわりと光に包まれ、しなやかな筋肉を持つ青年の姿へと戻る。濡れたような質感の黒髪をかき上げ、アクアマリンの瞳を細めて椅子に腰かけた。
「今日はニルギリを淹れるね。この爽やかな渋みが、スイーツの甘さを引き立ててくれるんだ」
セイルが優雅な手付きでティーポットを傾ける。澄んだオレンジ色の液体がカップに注がれ、清涼感のある香りがガゼボを満たした。
「……ふぅ。落ち着くね」
セイルがニルギリを一口飲むと、庭園の花を眺めながら一息つく。
「……仕事中なのに、多分ノワールを通して俺の精神、アッシュに伝わっちゃったよね」
「はい。今は落ち着いて業務に励んでいる様です。早く帰りたい様ですよ」
「……そっか。アッシュ、困らせちゃったかな」
セイルは自嘲気味に微笑み、海老とアボカドのサンドウィッチを口に運ぶ。
プリッとした海老の食感と、熟成されたアボカドの濃厚なコク。レモンマヨネーズの酸味が後味を締め、自身の腕前ながら、食べると心が解けていくのが分かった。
「困るなどと。主にとっては、セイル様の魂の平穏こそが何よりの報酬でしょう」
ノワールは人化させた長い指先で、丁寧にスコーンを手に取った。
「それにしても……『華魔法』。先ほど放たれた二つ以外にも、あと八つあるのですね」
「うん。でも、残りの八つはまだ『蕾』の状態なんだ。俺がこの世界でさらに絆を深めたり、新しい感情を知るたびに一つずつ開花していくみたいだよ」
セイルは、かつて自分を縛り付けていた「過去」が、今はもう遠い海の底に沈んだ遺物のように感じていた。寂しさはある。けれど、それ以上に今の自分を形作っているアッシュや仲間たちへの愛おしさが、胸の内を温かく満たしていた。
夕刻、エリンジューム邸の門を潜る馬車の音が響く。セイルがメイドと執事を従え玄関ホールへ向かう。
「アッシュ、おかえりなさい。早かったね」
セイルが歩み寄ると、アッシュは言葉を返さず、いきなり彼を強く抱きしめた。
逞しい腕がセイルのスリムな体躯を閉じ込める。微かに香る鉄と馬の匂い、そしてアッシュ自身の温もり。
「……セイル、お前……」
「ごめんね仕事中に。ノワールから全部伝わっちゃったんだよね」
アッシュは顔を上げ、セイルの瞳をじっと見つめた。そこにはもう、夜半に時折見せていた、硝子細工のような危うさは微塵もなかった。ただ、深く、澄み渡った茶眼が彼を映している。
「……謝る必要はない。お前が、本当の意味でこの世界を『自分の居場所』として受け入れてくれた。それが分かって、俺は……これ以上ないほど幸せだ」
アッシュの大きな手がセイルの頬を包み込む。
その指先が、セイルの右目の端を優しく撫でた。
「あの時、俺の目からも涙が溢れた。だがそれは悲しい涙ではなかった。お前の魂が、ようやく重荷を降ろした音のように聞こえたんだ」
「アッシュ……」
セイルは、自身の身体に馴染んだ『華魔法』の術式を、最も大切な男に捧げるために起動させた。
「サクラ・イリュージャ」
セイルが囁くように紡いだ言葉と共に、夕暮れの玄関ホールに淡い桜色の花びらの光が溢れた。
「まぁ……」
「……なんと麗しい」
周りに居たメイドや執事達がその光景に感嘆の息を零す。
花びらがアッシュ達の身体に触れた瞬間、一日中、重責と向き合っていた彼らの精神的な疲労が、嘘のように霧散していった。
「これは……温かいな。光魔法の治癒とは違う、心が内側から満たされるような感覚だ」
アッシュは驚きに目を細め、掌に舞い落ちた光の花びらを見つめた。それは実体を持たず、彼の肌に吸い込まれるようにして消えていく。
「アッシュ、今日はお疲れ様。俺を繋ぎ止めてくれて、ありがとう」
セイルの柔らかな微笑みと、舞い散る光の桜。
その幻想的な光景に、居合わせた使用人たちは皆、うっとりと見入っていた。アッシュもまた、自身の中に流れ込む穏やかな魔力に目を細め、セイルの腰を抱き寄せる手に力を込めた。
「これが、お前が新しく手に入れた力か。……本当に、お前らしい魔法だな」
「ふふ、そうかな?花の微妖精達のおかげだよ。……さぁアッシュ、着替えて夕食にしよう。父上達が待ってるよ」
セイルはアッシュから離れると右手を伸ばした。
アッシュはその大きな掌でセイルの手を包み込み、指を絡めた。
二人の間に流れる空気は、これまでにないほど深く、穏やかな信頼に満ちているのだった。
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