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第154話 赫い不浄
しおりを挟む深い、深い闇の底。
セイルの脳裏には、前世の冷たいアスファルトの記憶と、この世界で見た凄惨な光景が混濁して流れていた。
アッシュが血を流し、手足を失い、命の灯火が消えかけていたあの日の絶望。
そして、今また目の前で赤く染まったジャンの腕。
『嫌だ……。もう、誰も失いたくない……!』
その強い拒絶の念が、凍りついた意識を無理やり浮上させた。
「……っ、は……!」
セイルは跳ね起きるように目を開いた。視界が白く霞む。心臓が早鐘を打ち、全身が嫌な汗で湿っている。
「セイル!?」
すぐ横から聞こえた、愛しい男の低い声。
視界が焦点を結ぶと、そこには悲痛な面持ちで自分を見つめるアッシュの姿があった。その瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの安堵と、激しい情念が渦巻いている。
「アッシュ……? 俺……」
「気がついたか。良かった……本当に……」
アッシュがたまらずセイルを抱きしめる。鎧のような逞しい胸板の熱。けれど、セイルの脳裏にはまだ「赫」が焼き付いていた。
「アッシュ!! ジャン兄さんは!? ジャン兄さんは無事なの!?」
セイルはアッシュの腕を振り払うような勢いで身を乗り出した。その瞳は恐怖で大きく見開かれ、呼吸が再び荒くなる。
「私はここだ、セイル」
部屋の隅、影から歩み寄ったのは、左腕に白い包帯を固く巻いたジャンだった。その姿を見た瞬間、セイルの目から大粒の涙が溢れ出した。
「ジャン兄さん……! ああ、良かった……! 良かったぁ……!!」
セイルはベッドから這い出すようにしてジャンに縋りついた。ジャンの腰に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
「すまない、セイル。怖い思いをさせたな」
「う、うぅ……っ! 俺…、俺!、魔法が、使えなくて……っ、すぐ治せたはずなのに……っ!」
ジャンの無傷な右手が、セイルのピンクベージュの髪を優しく撫でる。
「ごめんなさい…、ジャン兄さん、ごめんなさい…!」
「セイル、お前は何も悪くないよ」
セイルにとって、ジャンの流血は単なる怪我ではなかった。それは「家族」という、かつて一度失った温もりを再び失うことへの、強烈な拒絶反応だったのだ。
しばらくして、激しい慟哭が収まり、セイルがしゃくり上げながらも落ち着きを取り戻した。
彼はジャンの腰に顔を埋めたまま、ポツリと、けれど確信に満ちた涙声で漏らした。
「……アッシュ。さっきの奴らの、一人の声……聞き覚えがあるんだ」
アッシュの眉がピクリと跳ねる。彼の周囲の空気が、一瞬にして騎士団長としての峻厳な冷気を帯びた。
「誰だ。心当たりがあるのか?」
「……前に、市場でリメイン出張所をやった時に絡んできたならず者の一人だよ。水魔法で追い払った……。たぶん、逆恨みで俺を狙ったんだと思う……」
セイルの言葉に、アッシュの拳がミシミシと音を立てて握られた。
アッシュは、ジャンに獅噛みつくセイルの肩を、逃がさないと言わんばかりの強さで掴み、自分の方へと向かせた。
「……そうか。ならば、話は早い」
アッシュの黒い瞳の奥に、昏い、底知れない翳が宿る。
「セイル。君を傷つけ、怖がらせ、挙句に俺の義弟であるジャンにまで刃を向けた不届き者だ。……一人残らず、この世に居場所をなくしてやる。徹底的に、な」
「アッシュ……?」
その声の温度の低さに、セイルは背筋にゾッとするようなものを感じた。
アッシュはセイルの額に深く口づけを落とすと、隣に立つジャンを冷徹な目で見上げた。
「ジャン。賊の身柄は近衛ではなく、俺の第一騎士団で預かる。……いいな?」
「……ああ。お前の気が済むようにしろ。俺も、セイルを泣かせた代償は高くつくということを、身をもって教えてやりたいところだ」
普段は冷静なはずのジャンまでもが、セイルを守るための「暴力的」とも言える独占欲を隠そうとしない。
「セイル、今日はもう休め。もう二度と、君の視界に『不浄な赫』は映させない」
アッシュの腕が再びセイルを独占するように抱きしめる。その温もりは優しく、けれど絶対に離さないという執着に満ちていた。
「ジャン兄さん、光魔法で治癒を……」
「後でいい。今は休みなさい」
セイルは、守られている安心感と、愛する男たちが自分を巡って帯びていく「狂気」に近い熱量に戸惑いながらも、今はただ、その腕の中に身を沈めることしかできなかった。
アッシュはセイルを寝台へ横たわらせると、毛布を顎の下まで丁寧に掛け直した。
「眠れ、セイル。……次に目が覚める時には、お前の世界を脅かすゴミは、この国のどこにも残っていない」
アッシュの低く甘い囁きが、セイルの意識を再び深い眠りへと誘う。極限の精神的疲労により、セイルはそのまま重い微睡みへと落ちていった。
セイルの呼吸が安定したのを確認し、アッシュがゆっくりと立ち上がった。
寝室を出て、重厚な扉が閉まった瞬間。二人の男から「家族」としての温もりが完全に消え失せた。
「……賊の数は七人。三人は俺がその場で叩き伏せ、逃げた残りは追っ手の騎士たちが拘束した」
アッシュが廊下の壁に背を預け、冷たく言い放つ。
「隠れ家にいたボスや残りの残党も一人残らず捕らえたと報告が上がっている」
「全員、生かして捕らえてあるんだろうな?」
ジャンが包帯の巻かれた腕を一瞥もせず、冷酷な微笑を浮かべた。その表情は、普段の「良き義弟」の面影など微塵も感じさせない、スパティフィラム侯爵家当主としての顔だった。
「当然だ。近衛に引き渡せという王命が出る前に、俺の第一騎士団の地下尋問室へ放り込んだ。……ジャン、お前の腕を斬り、セイルを精神的に追い詰めた罪だ。ただの死罪で済むと思うな」
アッシュの周囲に、物理的な圧を伴うほどの魔力が渦巻く。
「セイルは、お前の血を見て意識を失った。あいつがどれほど『失うこと』を恐れているか……。それを逆撫でした奴らの指を、一本ずつ、文字通り『消去』してやる」
「フッ……。アッシュ、お前は甘いな」
ジャンが静かに笑い、アッシュの瞳を覗き込んだ。
「指を消すだけか? 奴らには市場でセイルに絡んだ過去があるらしいな。ならば、セイルが丹精込めて作った料理を、二度と味わえないよう舌を抜き、二度とあの子を直視できないよう眼を潰すべきだ。……その後で、一生光の届かない地下で、セイルが与えてくれたはずの『日常』を、後悔と共に反芻させるのが筋だろう」
「……ジャンも、大概だな」
アッシュは苦笑いするが目は笑っていない。
「セイルは俺たちの『光』だ。それを泥靴で踏みにじろうとした不浄な者どもに、人権など存在しない」
二人の高位貴族による、あまりにも淡々とした会話。そこには騎士道精神も、法による裁きへの敬意もなかった。あるのは、自分たちの唯一無二の宝物を傷つけられたことへの、昏い独占欲と復讐心だけだ。
「……今夜中に、全ての情報を吐かせる。逆恨みだけか、あるいはバックに別の貴族がいるのか。……もし後者なら、その家ごと潰す」
アッシュがネイビーブルーの騎士礼服の袖を乱暴に捲り上げた。
「資金洗浄のルートや、裏の繋がりを洗うのは私の得意分野だ。……アッシュ、セイルが起きる前に、全て終わらせるぞ」
二人は冷徹な視線を交わすと、静まり返った廊下を歩き出した。
向かう先は、宮廷の地下深く。
そこには、自分たちがどれほど恐ろしい「獣」の逆鱗に触れたのかも知らずに、震えて待つ賊たちが待っている。
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