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異変(1)
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桜那は相変わらず精力的に仕事をこなしつつ、オーディションに挑む毎日を送っていた。
撮影や収録、オーディションと目まぐるしく過ごす中でも、時間を見つけてはなるべく宏章と過ごすようにしていた。
テレビ画面の中で、何かがこちらに向かって跳ねた瞬間——。
「きゃあ!」
ビール片手に真剣に眺めていた宏章に、桜那が悲鳴を上げて強くしがみついてきた。
「そんなに怖い?」
怯える桜那が可愛くて、宏章は笑いながらつい意地悪っぽく言ってしまった。
「怖いに決まってるじゃん!宏章は平気なの?」
「うん!俺、ホラー映画は割と平気。面白いじゃん……」
言いかけて、桜那がまた悲鳴を上げる。
「もう無理、見るの止める!絶対眠れないやつだよ!」
桜那はため息をついて、停止ボタンを推した。
「えぇ!今いい所だったのに……」
「だって怖いんだもん!」
桜那は宏章の腕に絡みついて、涙目になりながら上目遣いで宏章を見上げた。宏章は可愛さのあまり、思わず桜那にキスをした。
そっと唇を離し、宏章が立ち上がる。
「じゃ!俺歯磨きして来る」
「すぐ戻ってきてね!」
桜那が涙目で訴えかけた。
宏章が戻ると、桜那は毛布に包まりながらベッドに横たわっていた。宏章がベッドに潜り込むと、またいつものように桜那は宏章を求めた。宏章の腰の動きと共にベッドが軋み、荒い息遣いと喘ぐ声が部屋中に響き渡る。
「……あっ!……宏章!きて、宏章!」
桜那は抱かれている間、何度も宏章の名を呼んだ。その声を聞くたびに堪らなくなり、宏章は絶頂を迎えた。
「……桜那!……イク」
射精の間、桜那は宏章の腰を両足で押さえて強くしがみ付いた。桜那は自分の中を宏章でいっぱいに満たされる、この瞬間が一番好きだった。
翌朝、桜那はそのまま出勤する宏章を見送った。
「じゃあ、これ出勤ついでに返してくるから」
「うん、ありがとう!気をつけてね」
桜那はにっこり笑って、宏章の首に腕を回しキスをする。
「じゃあ、行ってくる。桜那、ゆっくり休んで」
桜那は宏章を見送ったあと、小さくため息をついて浮かない顔で部屋に戻った。
ソファに腰掛け、台本をパラパラとめくる。
……早くAV女優を引退したい、あと少しなのに。
あのオーディションの後、宏章が側にいる時間は増えた。だがAVの撮影が近づいてくると、言いようのない不安を感じる様になった。初めは意識しなければ気づかない程度だったが、それは次第に無視できないものになっていた。
宏章は相変わらず何も言ってこなかった。
それでも、何かを抱えていることは桜那にも分かっていた。
AVの撮影について、いつの間にか二人とも、その話題を避けるようになっていた。
いっその事、今すぐにでも仕事を辞めてくれと言ってくれた方がどんなに楽だろう。
それを言ってこない。
そのことが、よけいに苦しかった。
夏が終わっても、その感じは消えなかった。
むしろ、静かに重さを増していくばかり。
その日は明日の撮影に向けて、自宅で台本を読み込んだ。今度はナースもので、チープな設定でベタな展開のいかにもな作品だった。
……本番前の前振りなんて、どうせ誰も真剣に見ない。分かってる。
振り切るように、一度台本を閉じた。
再度台本を開き、読み込みに集中する。いつの間にか部屋は薄暗くなっていた。
桜那は顔を上げる。
……もう夜か、そろそろ寝ないと。
明日の撮影に向けて肌のコンディションを整える為に、入念に手入れをして早めにベッドへ入った。だが眠ろうとすればする程、逆に頭が冴えて眠れなかった。
……全然眠れない。
桜那は宏章の声が聞きたくなり、携帯に手を伸ばした。ディスプレイで時刻を確認すると、とっくに日付を跨いでいた。
……止めよう。それに、宏章に何て言うつもりなの?
明日の撮影が不安だなんてとても言えない、困らせるだけだ。宏章は何も言わないけど、明日はAVの撮影だっていう事はきっと分かっている。そう思ったら電話をかける事すら躊躇ってしまい、結局よく眠れないまま翌日の撮影を迎えた。
翌日は寝不足であったが、相変わらずの高い集中力で撮影を乗り切った。愛想良くスタッフや監督に挨拶して帰宅すると、どっと疲労感に襲われた。体を休めようとお気に入りの入浴剤を入れて、ゆっくりと湯船に浸かった。目を閉じると、いきなり頭がぐるぐるし始めて、急に息苦しさに襲われた。桜那はパッと目を開き、慌てて体を起こした。
……何?一体何が起こったの?
桜那が両手に視線を向けると、小刻みに震えていた。ぎゅっと両手を握りバスルームの天井を見上げる。四方を何かに見張られている様な感覚になり、恐怖を感じて急いで上がった。バスルームから出ると、震えが止まったので桜那は安堵した。その後はいつも通りスキンケアをしてベッドに入るが、さっきの感覚が忘れられず、なかなか寝付けなかった。桜那がうとうとしかけた時、閃光が走り、大きな音に驚いて目を覚ました。
「きゃあ!」
窓に視線を移すと、外は大雨だった。
……雷か。
桜那がホッとしたのも束の間、また手が小刻みに震え出した。ぎゅっと強く体を抱きしめて目を閉じる。すると今度は、先日見たホラー映画のワンシーンが浮かび上がってきた。沢山の血みどろの手が、自分を目掛けて迫ってくる。桜那は恐怖に堪え兼ねて、咄嗟に宏章へ電話をかけていた。
しばらくコールを鳴らすと、宏章は明らかに寝起きの声で電話に出た。
「……桜那?どうしたの?」
宏章の声を聞くなり、桜那は安心して涙が滲んだ。
「宏章……」
桜那が涙声で呟くと、宏章は目が覚めたのか、急に声が深刻なトーンに変わった。
「桜那?何かあったの?」
桜那は涙を拭い、笑顔を浮かべた。そして心配かけまいと、甘えた声で訴えかけた。
「宏章ー!あのホラー映画思い出して眠れないの!しかも外は雷だし、もう怖くって……」
「なんだ、桜那は怖がりだなぁ」
宏章もまた、ホッとして笑った。
「ごめんね、寝てた?」
「ん、大丈夫。桜那が寝付くまで電話繋いどくよ」
「え?でも明日仕事じゃ……」
「心配すんなって!俺こう見えても体力だけはあるからさ!」
そう言って宏章が笑うと、桜那は胸が温かくなり、次第に心が落ち着いて来た。
「宏章、細身だもんね。私なんて油断するとすぐ太っちゃうから羨ましいよ」
「そうそう!俺昔からあんま太んない体質でさ!でも仕事で重いの持つから腕は立派だよ」
桜那はきゃっきゃと笑い声をあげると、自然と眠くなり、ぽつりと呟いた。
「宏章、ありがと……」
桜那は携帯を握りしめたまま、パタリと寝落ちした。
「……桜那?」
電話の向こうからすうすうと小さな寝息が聞こえてきた。
「おやすみ」
宏章はそっと電話を切った。
翌日、カーテンの隙間から差し込む光で桜那が目覚めた。
……ああ、朝か。久しぶりによく眠れたな……。
気怠そうに携帯に手を伸ばすと、桜那を心配した宏章からメールが届いていた。
『昨日はよく眠れた?また怖くなったらいつでも電話して』
桜那は嬉しそうに笑った。
テーブルに腰掛けて白湯を口にする。温かさに包まれて、ゆったりと朝の時間を過ごした。
『昨日はありがと♡宏章のおかげでぐっすり眠れたよ!今日も夜電話していい?声が聞きたいよ……』
宏章は桜那からのメールを確認して、とりあえず一安心すると、出勤時間が迫っていたので急いで支度した。
……桜那は何も言わなかったけど、昨日は多分AVの撮影の日だよな。
宏章は何とも言えない複雑な気持ちになり、ため息をついた。支度を終えて、玄関で靴を履いていると携帯が鳴った。てっきり桜那からだと思い携帯を取り出すと、母からの電話だった。
……お袋?珍しいな。
この頃は、用事のある時宏章から母に連絡をするぐらいだった。丁度いいや、また桜那の好きな日本酒を送ってもらおうと、いつものように電話を取った。
「もしもし、何ー?俺もちょうどお袋に連絡しようと思ってたんだよ。前に送ってもらった桜花ってやつ、気に入ったからまた送ってよ」
「あんたは相変わらずねぇ……、まぁ元気そうでよかったわ」
母はやれやれと苦笑いで答えたあと、ため息をついて何か言いたげに無言になった。宏章は不思議に思い、「お袋?なんかあった?」と尋ねた。
「あのね、お父さんここの所体調悪くて……、こないだ検査したらあまり肝臓の数値が良くなくて。今度入院して、もっと詳しく検査する事になったのよ。それでね、来年にはお店畳もうと思ってるの。私も歳だから流石に一人ではね……」
「……え?畳むって?」
宏章は突然の事に戸惑った。
「まあ、お父さんの事がなくてもそろそろ潮時だとは思ってたの。お店だっていつまでもやれる訳じゃないからね」
「親父がいない間、お袋一人で大丈夫なのかよ?俺、一旦帰って……」
宏章が言いかけると、母は遮る様に話し出した。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。お父さんだって、今すぐどうのって話じゃないんだから。あんたにはそっちの生活があるんだし……。仕事だって、せっかく正社員になったばかりなんだから頑張んなさい」
「……でも!」
「あんたが上京したばかりの頃は、根を上げてすぐ帰ってくるだろうと思ってたのにねぇ……、これでも感心してるのよ。とにかくこっちの事は気にしなくていいから。あんたの好きにしなさい」
母はきっぱりと言い切って、電話を切った。
宏章は子どもの頃の記憶が蘇った。幼い頃は店が忙しく、家族で出掛ける事などほとんどなかったが、仲睦まじく店に立つ二人の背中を見て育ち、二人が頑張ってきた事は誰よりも知っている。二人がどれだけ店を大事にしてきたのかも。
同時に桜那の顔が頭を過った。
甘える様な笑顔と、不安定に泣きじゃくる姿。
宏章は困惑したまま携帯を握りしめ、しばらくその場に立ち尽くしていた。
その日は結局、母の電話が頭から離れず、仕事中に凡ミスを連発した。真面目で手際の良い宏章には珍しい事で、同僚も心配する程だった。
ガシャン!
ガラスが割れる音で、宏章は我に返った。
倉庫での作業中、うっかり手を滑らせて酒瓶を破損してしまった。
「すみません!」
宏章が慌てて片付け始めると、同僚も「マジで今日どうした?本当に大丈夫か?」と言って、一緒に片付け始めた。
……だめだ、全然集中できない。
……納品ミスるは、商品は破損するは散々だな。
結局一日中グダグダのまま仕事を終え、帰宅してシャワーを浴びる。何もする気になれず、コンビニ弁当で夕飯を済ませ、ビール片手にテレビをつけるが、内容がまるで頭に入って来なかった。
……疲れたな、今日はもう寝よう。
ため息をついてテレビを消すと、携帯が鳴った。
……悟か。
「おう!宏章!久しぶりだな!今何してんの?」
悟は相変わらずのテンションの高さで話し始めた。外にいるのか、電話の後ろでガヤガヤと音楽が流れている。
「いやなんも……、寝ようとしてたとこだよ」
宏章は気怠そうに答えた。
……相変わらずだな悟は。また遊んでんのか?
どうせいつもの様にフラフラ遊んでるんだろう。宏章は悟の身軽さと奔放さが羨ましく思えた。
「あのさ、今度またライブイベントに参加しようと思ってるんだけど、宏章またギター弾いてよ」
……またかよ。
最近はそれなりに仕事が忙しく、休みの日はなるべく桜那と過ごす為に予定を空けていた。何より今のこの気分では、とてもギターなんて練習する気にもなれなかった。
「……悟、俺もうギターは……」
宏章が断ろうとして言いかけると、悟が嬉しそうに被せて話し始めた。
「俺さ、年明けたら地元に帰るんだ。地元でラーメン屋やろうと思って!資金とかある程度目処立ったし、言った事なかったけど、自分の店持つのが夢だったんだよ!それで地元帰る前に、最後にライブやりたいなって思ってさ!」
悟は心底嬉しそうに声を弾ませた。
悟は新潟出身で、上京してからずっと飲食店で働いていた。フラフラ遊んでいるとばかり思っていたが、ちゃんと夢があり、それに向けて励んでいた事に宏章は驚いた。
「……分かった。引き受けるよ」
宏章はそう言う事ならばと、これが最後だという気持ちで引き受けた。
「マジで?サンキュー!無理言って悪かったな」
「いや、地元帰っても頑張れよ」
……全然知らなかった。あいつもちゃんと、将来の事考えてたんだな。フラフラしてるのは俺の方だ。
悟にも桜那にも夢や目標があって、それに向けてひたむきに頑張っている。それに比べて自分は、ただ何となく毎日を過ごしているだけ。それこそ正社員になったのも、仕事にやり甲斐を感じた訳ではなく、生活の為に流れで引き受けただけだ。宏章は一人取り残されたような気分だった。
それから数日が経ち、桜那はまたよく眠れない日々が続いた。仕事中は持ち前の集中力で乗り切れたが、夜になると動悸がして、手足がソワソワした。
……どうしちゃったの?私。こんな事、今まで一度もなかったのに。
桜那は堪り兼ねて、翌日病院を受診した。
そのクリニックは、桜那が性病検査で定期的に受診していて、侑李の妹の羽田野杏奈が院長を務めていた。杏奈は婦人科の医師として勤務する傍ら、時々コメンテーターとして情報番組に出演しており、侑李と共に桜那の数少ない良き相談相手だった。
「なんか、ここの所中々寝付けなくて……。オーディションの前とか緊張しちゃって、手足が震える様になっちゃって……」
桜那がため息をつきながら、疲れた表情で症状の説明をする。ここの所眠れない日々が続き、目の下には隈ができていた。
「そう……、桜那ちゃんは頑張り過ぎちゃう所があるから。今でも充分頑張ってるんだから、焦らないようにね。じゃあ軽い眠剤と安定剤出すから、それで様子見てみて」
「……」
桜那は俯いて、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。
「桜那ちゃん、何かあったらいつでも私に相談して。お姉ちゃんでもいいし……、一人で抱え込まないで」
杏奈が心配そうに桜那の顔を覗き込む。
「杏奈先生、ありがとう。最近なんだか焦っちゃって……、また相談に乗ってね」
桜那は心配かけまいと笑顔を見せると、クリニックを後にした。
杏奈にも、本当の悩みはとうとう打ち明ける事が出来なかった。
撮影や収録、オーディションと目まぐるしく過ごす中でも、時間を見つけてはなるべく宏章と過ごすようにしていた。
テレビ画面の中で、何かがこちらに向かって跳ねた瞬間——。
「きゃあ!」
ビール片手に真剣に眺めていた宏章に、桜那が悲鳴を上げて強くしがみついてきた。
「そんなに怖い?」
怯える桜那が可愛くて、宏章は笑いながらつい意地悪っぽく言ってしまった。
「怖いに決まってるじゃん!宏章は平気なの?」
「うん!俺、ホラー映画は割と平気。面白いじゃん……」
言いかけて、桜那がまた悲鳴を上げる。
「もう無理、見るの止める!絶対眠れないやつだよ!」
桜那はため息をついて、停止ボタンを推した。
「えぇ!今いい所だったのに……」
「だって怖いんだもん!」
桜那は宏章の腕に絡みついて、涙目になりながら上目遣いで宏章を見上げた。宏章は可愛さのあまり、思わず桜那にキスをした。
そっと唇を離し、宏章が立ち上がる。
「じゃ!俺歯磨きして来る」
「すぐ戻ってきてね!」
桜那が涙目で訴えかけた。
宏章が戻ると、桜那は毛布に包まりながらベッドに横たわっていた。宏章がベッドに潜り込むと、またいつものように桜那は宏章を求めた。宏章の腰の動きと共にベッドが軋み、荒い息遣いと喘ぐ声が部屋中に響き渡る。
「……あっ!……宏章!きて、宏章!」
桜那は抱かれている間、何度も宏章の名を呼んだ。その声を聞くたびに堪らなくなり、宏章は絶頂を迎えた。
「……桜那!……イク」
射精の間、桜那は宏章の腰を両足で押さえて強くしがみ付いた。桜那は自分の中を宏章でいっぱいに満たされる、この瞬間が一番好きだった。
翌朝、桜那はそのまま出勤する宏章を見送った。
「じゃあ、これ出勤ついでに返してくるから」
「うん、ありがとう!気をつけてね」
桜那はにっこり笑って、宏章の首に腕を回しキスをする。
「じゃあ、行ってくる。桜那、ゆっくり休んで」
桜那は宏章を見送ったあと、小さくため息をついて浮かない顔で部屋に戻った。
ソファに腰掛け、台本をパラパラとめくる。
……早くAV女優を引退したい、あと少しなのに。
あのオーディションの後、宏章が側にいる時間は増えた。だがAVの撮影が近づいてくると、言いようのない不安を感じる様になった。初めは意識しなければ気づかない程度だったが、それは次第に無視できないものになっていた。
宏章は相変わらず何も言ってこなかった。
それでも、何かを抱えていることは桜那にも分かっていた。
AVの撮影について、いつの間にか二人とも、その話題を避けるようになっていた。
いっその事、今すぐにでも仕事を辞めてくれと言ってくれた方がどんなに楽だろう。
それを言ってこない。
そのことが、よけいに苦しかった。
夏が終わっても、その感じは消えなかった。
むしろ、静かに重さを増していくばかり。
その日は明日の撮影に向けて、自宅で台本を読み込んだ。今度はナースもので、チープな設定でベタな展開のいかにもな作品だった。
……本番前の前振りなんて、どうせ誰も真剣に見ない。分かってる。
振り切るように、一度台本を閉じた。
再度台本を開き、読み込みに集中する。いつの間にか部屋は薄暗くなっていた。
桜那は顔を上げる。
……もう夜か、そろそろ寝ないと。
明日の撮影に向けて肌のコンディションを整える為に、入念に手入れをして早めにベッドへ入った。だが眠ろうとすればする程、逆に頭が冴えて眠れなかった。
……全然眠れない。
桜那は宏章の声が聞きたくなり、携帯に手を伸ばした。ディスプレイで時刻を確認すると、とっくに日付を跨いでいた。
……止めよう。それに、宏章に何て言うつもりなの?
明日の撮影が不安だなんてとても言えない、困らせるだけだ。宏章は何も言わないけど、明日はAVの撮影だっていう事はきっと分かっている。そう思ったら電話をかける事すら躊躇ってしまい、結局よく眠れないまま翌日の撮影を迎えた。
翌日は寝不足であったが、相変わらずの高い集中力で撮影を乗り切った。愛想良くスタッフや監督に挨拶して帰宅すると、どっと疲労感に襲われた。体を休めようとお気に入りの入浴剤を入れて、ゆっくりと湯船に浸かった。目を閉じると、いきなり頭がぐるぐるし始めて、急に息苦しさに襲われた。桜那はパッと目を開き、慌てて体を起こした。
……何?一体何が起こったの?
桜那が両手に視線を向けると、小刻みに震えていた。ぎゅっと両手を握りバスルームの天井を見上げる。四方を何かに見張られている様な感覚になり、恐怖を感じて急いで上がった。バスルームから出ると、震えが止まったので桜那は安堵した。その後はいつも通りスキンケアをしてベッドに入るが、さっきの感覚が忘れられず、なかなか寝付けなかった。桜那がうとうとしかけた時、閃光が走り、大きな音に驚いて目を覚ました。
「きゃあ!」
窓に視線を移すと、外は大雨だった。
……雷か。
桜那がホッとしたのも束の間、また手が小刻みに震え出した。ぎゅっと強く体を抱きしめて目を閉じる。すると今度は、先日見たホラー映画のワンシーンが浮かび上がってきた。沢山の血みどろの手が、自分を目掛けて迫ってくる。桜那は恐怖に堪え兼ねて、咄嗟に宏章へ電話をかけていた。
しばらくコールを鳴らすと、宏章は明らかに寝起きの声で電話に出た。
「……桜那?どうしたの?」
宏章の声を聞くなり、桜那は安心して涙が滲んだ。
「宏章……」
桜那が涙声で呟くと、宏章は目が覚めたのか、急に声が深刻なトーンに変わった。
「桜那?何かあったの?」
桜那は涙を拭い、笑顔を浮かべた。そして心配かけまいと、甘えた声で訴えかけた。
「宏章ー!あのホラー映画思い出して眠れないの!しかも外は雷だし、もう怖くって……」
「なんだ、桜那は怖がりだなぁ」
宏章もまた、ホッとして笑った。
「ごめんね、寝てた?」
「ん、大丈夫。桜那が寝付くまで電話繋いどくよ」
「え?でも明日仕事じゃ……」
「心配すんなって!俺こう見えても体力だけはあるからさ!」
そう言って宏章が笑うと、桜那は胸が温かくなり、次第に心が落ち着いて来た。
「宏章、細身だもんね。私なんて油断するとすぐ太っちゃうから羨ましいよ」
「そうそう!俺昔からあんま太んない体質でさ!でも仕事で重いの持つから腕は立派だよ」
桜那はきゃっきゃと笑い声をあげると、自然と眠くなり、ぽつりと呟いた。
「宏章、ありがと……」
桜那は携帯を握りしめたまま、パタリと寝落ちした。
「……桜那?」
電話の向こうからすうすうと小さな寝息が聞こえてきた。
「おやすみ」
宏章はそっと電話を切った。
翌日、カーテンの隙間から差し込む光で桜那が目覚めた。
……ああ、朝か。久しぶりによく眠れたな……。
気怠そうに携帯に手を伸ばすと、桜那を心配した宏章からメールが届いていた。
『昨日はよく眠れた?また怖くなったらいつでも電話して』
桜那は嬉しそうに笑った。
テーブルに腰掛けて白湯を口にする。温かさに包まれて、ゆったりと朝の時間を過ごした。
『昨日はありがと♡宏章のおかげでぐっすり眠れたよ!今日も夜電話していい?声が聞きたいよ……』
宏章は桜那からのメールを確認して、とりあえず一安心すると、出勤時間が迫っていたので急いで支度した。
……桜那は何も言わなかったけど、昨日は多分AVの撮影の日だよな。
宏章は何とも言えない複雑な気持ちになり、ため息をついた。支度を終えて、玄関で靴を履いていると携帯が鳴った。てっきり桜那からだと思い携帯を取り出すと、母からの電話だった。
……お袋?珍しいな。
この頃は、用事のある時宏章から母に連絡をするぐらいだった。丁度いいや、また桜那の好きな日本酒を送ってもらおうと、いつものように電話を取った。
「もしもし、何ー?俺もちょうどお袋に連絡しようと思ってたんだよ。前に送ってもらった桜花ってやつ、気に入ったからまた送ってよ」
「あんたは相変わらずねぇ……、まぁ元気そうでよかったわ」
母はやれやれと苦笑いで答えたあと、ため息をついて何か言いたげに無言になった。宏章は不思議に思い、「お袋?なんかあった?」と尋ねた。
「あのね、お父さんここの所体調悪くて……、こないだ検査したらあまり肝臓の数値が良くなくて。今度入院して、もっと詳しく検査する事になったのよ。それでね、来年にはお店畳もうと思ってるの。私も歳だから流石に一人ではね……」
「……え?畳むって?」
宏章は突然の事に戸惑った。
「まあ、お父さんの事がなくてもそろそろ潮時だとは思ってたの。お店だっていつまでもやれる訳じゃないからね」
「親父がいない間、お袋一人で大丈夫なのかよ?俺、一旦帰って……」
宏章が言いかけると、母は遮る様に話し出した。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。お父さんだって、今すぐどうのって話じゃないんだから。あんたにはそっちの生活があるんだし……。仕事だって、せっかく正社員になったばかりなんだから頑張んなさい」
「……でも!」
「あんたが上京したばかりの頃は、根を上げてすぐ帰ってくるだろうと思ってたのにねぇ……、これでも感心してるのよ。とにかくこっちの事は気にしなくていいから。あんたの好きにしなさい」
母はきっぱりと言い切って、電話を切った。
宏章は子どもの頃の記憶が蘇った。幼い頃は店が忙しく、家族で出掛ける事などほとんどなかったが、仲睦まじく店に立つ二人の背中を見て育ち、二人が頑張ってきた事は誰よりも知っている。二人がどれだけ店を大事にしてきたのかも。
同時に桜那の顔が頭を過った。
甘える様な笑顔と、不安定に泣きじゃくる姿。
宏章は困惑したまま携帯を握りしめ、しばらくその場に立ち尽くしていた。
その日は結局、母の電話が頭から離れず、仕事中に凡ミスを連発した。真面目で手際の良い宏章には珍しい事で、同僚も心配する程だった。
ガシャン!
ガラスが割れる音で、宏章は我に返った。
倉庫での作業中、うっかり手を滑らせて酒瓶を破損してしまった。
「すみません!」
宏章が慌てて片付け始めると、同僚も「マジで今日どうした?本当に大丈夫か?」と言って、一緒に片付け始めた。
……だめだ、全然集中できない。
……納品ミスるは、商品は破損するは散々だな。
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ため息をついてテレビを消すと、携帯が鳴った。
……悟か。
「おう!宏章!久しぶりだな!今何してんの?」
悟は相変わらずのテンションの高さで話し始めた。外にいるのか、電話の後ろでガヤガヤと音楽が流れている。
「いやなんも……、寝ようとしてたとこだよ」
宏章は気怠そうに答えた。
……相変わらずだな悟は。また遊んでんのか?
どうせいつもの様にフラフラ遊んでるんだろう。宏章は悟の身軽さと奔放さが羨ましく思えた。
「あのさ、今度またライブイベントに参加しようと思ってるんだけど、宏章またギター弾いてよ」
……またかよ。
最近はそれなりに仕事が忙しく、休みの日はなるべく桜那と過ごす為に予定を空けていた。何より今のこの気分では、とてもギターなんて練習する気にもなれなかった。
「……悟、俺もうギターは……」
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「俺さ、年明けたら地元に帰るんだ。地元でラーメン屋やろうと思って!資金とかある程度目処立ったし、言った事なかったけど、自分の店持つのが夢だったんだよ!それで地元帰る前に、最後にライブやりたいなって思ってさ!」
悟は心底嬉しそうに声を弾ませた。
悟は新潟出身で、上京してからずっと飲食店で働いていた。フラフラ遊んでいるとばかり思っていたが、ちゃんと夢があり、それに向けて励んでいた事に宏章は驚いた。
「……分かった。引き受けるよ」
宏章はそう言う事ならばと、これが最後だという気持ちで引き受けた。
「マジで?サンキュー!無理言って悪かったな」
「いや、地元帰っても頑張れよ」
……全然知らなかった。あいつもちゃんと、将来の事考えてたんだな。フラフラしてるのは俺の方だ。
悟にも桜那にも夢や目標があって、それに向けてひたむきに頑張っている。それに比べて自分は、ただ何となく毎日を過ごしているだけ。それこそ正社員になったのも、仕事にやり甲斐を感じた訳ではなく、生活の為に流れで引き受けただけだ。宏章は一人取り残されたような気分だった。
それから数日が経ち、桜那はまたよく眠れない日々が続いた。仕事中は持ち前の集中力で乗り切れたが、夜になると動悸がして、手足がソワソワした。
……どうしちゃったの?私。こんな事、今まで一度もなかったのに。
桜那は堪り兼ねて、翌日病院を受診した。
そのクリニックは、桜那が性病検査で定期的に受診していて、侑李の妹の羽田野杏奈が院長を務めていた。杏奈は婦人科の医師として勤務する傍ら、時々コメンテーターとして情報番組に出演しており、侑李と共に桜那の数少ない良き相談相手だった。
「なんか、ここの所中々寝付けなくて……。オーディションの前とか緊張しちゃって、手足が震える様になっちゃって……」
桜那がため息をつきながら、疲れた表情で症状の説明をする。ここの所眠れない日々が続き、目の下には隈ができていた。
「そう……、桜那ちゃんは頑張り過ぎちゃう所があるから。今でも充分頑張ってるんだから、焦らないようにね。じゃあ軽い眠剤と安定剤出すから、それで様子見てみて」
「……」
桜那は俯いて、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。
「桜那ちゃん、何かあったらいつでも私に相談して。お姉ちゃんでもいいし……、一人で抱え込まないで」
杏奈が心配そうに桜那の顔を覗き込む。
「杏奈先生、ありがとう。最近なんだか焦っちゃって……、また相談に乗ってね」
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杏奈にも、本当の悩みはとうとう打ち明ける事が出来なかった。
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※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
たとえ夜が姿を変えても ―過保護な兄の親友は、私を逃がさない―
佐竹りふれ
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重なる吐息、耳元を掠める熱、そして——兄の親友の、隠しきれない独占欲。
19歳のジャスミンにとって、過保護な兄の親友・セバスチャンは、自分を子供扱いする「第二の兄」のような存在だった。
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