遊羅々々うらら

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008話 空薙ぐ刃切り開け

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やがて、会好は去っていった。火奴羅も遅れて静かに、揺陽の家へ。
「どうですか。楽しめました?」
「ええ、もちろんです。…会好に逢ったり、してませんよ?」
揺陽はびくっと肩を揺らした。
「えっ…?」
「いえ、会好と関わらないようにと…、云われたものですから。」
「そ、そう…。」
火奴羅は口元にかすかな笑みをこぼした。
(動揺したな…。よし。)

翌朝、火奴羅は夜明け前に目覚めた。眠れない。窓の外は、墨色。見れば靄としており、流れゆく雲を眺めて日の出を待っても、眠たげな藍色、千草色、そして白。いつぞやの晴れ晴れはどこへやら、まったり暗めな空になった。
「あら、火奴羅さん、起きていたんですね。」
身体を起こせば、いつの間にか揺陽が居た。
「揺陽さん。」
「よかったら、今日も私の家に泊まって下さいね。」
「ええ。」
「では、私はこれから朝食を作ってくるので。」
出てゆく揺陽。
「ああ、ちょっとお待ちを。」
「え?」
火奴羅は重い身体を軽く起こした。
「あの、今夜、私から皆さまにお伝えしたいことがある故、今日の夕食は皆さまを集めていただけますか?」
「え、えぇ…。」

村の朝は少し遅い。歩けば目新しい程しんと静かであり、足音の響きが彼方へ消えてゆく。
火奴羅は広場から少ししたところ、ふと立ち止まった。芽果に案内された家の一つ。奇怪な絵が描かれた不思議な家を見る。
(あー…。今のうちに村の方達と知り合っておこうかしら。)
とっとっ、と扉を叩いて、耳を澄ませると、先日と違ってなにやらかたかたと物音が聴こえた。
(よし、いるな。)
がちっ、と音がして、扉が開く。中から出てきたのは、ほとんど目が隠れるほど前髪の長い、背の小さな少年であった。扉を手にかけて、驚いたような顔をする。
火奴羅は深々とお辞儀をしてみせた。
「初めまして…。火奴羅と申します。お休みでなかったでしょうか…。」
「わ、わぁ…。本物だ。」
少年は火奴羅を見上げた。その口元には焦りと笑みが見える。
「お名前…、お聞きしてもよい?」
「僕、雫って言うんだ。」
一言残して少年ははたと扉を閉めた。
(あ、あら?)
火奴羅はきょととして辺りを見回す。すると程なくして少年が戻ってきた。
「これ、見て。」
「わあっ!これ素敵…。」
少年が広げて見せたのは、大きな葉を破って顔を象ったものであった。長く結んだ髪、大きな目。見るに火奴羅を模したものらしかったが、いつか水面鏡に映っていた自分の顔より目が鋭く、しかしどこか虚ろだった。
「どう?」
「ちょっと気に入っちゃった…。あとでゆっくりみてよいですか。」
「やったあ!」
「そうだ、雫さん。今晩、広場でお食事はいかがですか?」
雫は大きく頷いた。
「うん!そうする。」
「では、雫さん、また夜に会いましょう。」
火奴羅は手を振って飛び上がった。

次。ちらほらと話し声が細く聞こえる中、またいつか見た家に向かう。草を粗く編んだだけの大きな布を纏った、すこし暗い家。しかし朝の、気だるげに白けた空に柔らかく照らされた今この時においては、抽象画のような幻想があって素敵に見えた。
こつこつ、と扉を叩いた。しかし反応がない。
(ふーん…。)
もう一度こつっ、と扉を叩く。
がったーん!
派手な音。2階から聞こえた。
(何っ!)
火奴羅が見上げると、窓が大きく開いて、ゆらゆら揺れていた。中を覗いてみる。
「ひぃっ!」
甲高い、少年の声。
「あっ…。」
ふわっと膨らませて、小綺麗に整えた黄色のボブヘアの少年。背は会好よりすこし大きい程度で、痩せ気味。
「あの…、大丈夫ですか?」
少年は部屋の隅にへたり込んで居る。見ると目を大きくして、がくと驚いたような顔で火奴羅を見つめていた。整った部屋だが、棚が倒れている。
「えと、本当に大丈夫?」
少年ははくはくと口を動かしている。
火奴羅はにこっと笑って困ったように戯けてみせた。そして手をひらひらさせる。
「よ、宜しかったら今晩のお食事、広場にいらしてください。皆さんお呼びするつもりですので…。」
振り返り飛んでゆく…。と、思うと止まって、思い出したようにまた振り返った。
「あ、私、火奴羅といいます。よろしくね。」
にこっと笑って、火奴羅は振り返り飛んでゆく。

火奴羅は空から村を見下ろした。話し声。村の広場に戻ると、既に賑やかがあった。
「火奴羅ちゃん。」
振り返ると、奏と散星が居る。
「奏、散星。おはよございます。」
「早いのね。会好が心配?」
大人びて澄ました散星が、今は少し暗く見える。
「ええ、突然の事なんでね…。あなたたちは。」
「うん、私達もおなじ。」
「そうだよね、どうしよう。」
奏の煌びやかな目の輝きも今は、曇り空を映して冴えなかった。
「お聞きしたいことがあります。」
火奴羅はじっと彼女達の目を見とめた。桜色の瞳が、至極冷静だった。
「私達に。」
「どうしたの?」
「貴方達の他に…、会好と良く話す方はいますか。」
「え、会好と…?」
「うーん、印子かしら。」
「そうね、仲良いもんね。」
「印子、さん。」
(聞かない名だな。)
「ご案内していただけたら…。」
「え、う、うん。」
「付いてきて!」
「ありがとございます。」
賑やかな声が遠のいてゆく。

「ここだよ。」
森の奥。上の窓から小さな青い花が溢れるように垂れていて、見ると周りも花が身を寄せあって日を仰いでいる、周りより高めの家。傘の色は明るめの椿色。
「でも火奴羅、朝ごはんできちゃうよ。」
「そろそろ行かないとね。」
「そうですね…。」
見上げると、揺れる枝葉に吸い込まれそうな心地。
「私は別で朝を済ませます。貴方達はお行きになって。」
「え?」
「良いの?」
「ええ。ありがとうございました。」
白い遠くに消えてゆく。火奴羅はひらひらと手をして見せた。
(…さて。)
火奴羅は家の前に立って向き合った。その壁は、見ると一瞥では分からない、うっすらとしたなにかの絵が、よく見れば夜空に浮かぶ月のようで、色材のはかない青が夢を想起させる。
(ゆくか。)
火奴羅は扉をこつこつと叩いた。
しかし返事がない。
(あら。なんだろ。)
火奴羅は飛び上がって、上の窓を覗いた。
(ああ、あれが…。)
そこにいたのは、眠っている少女であった。会好と同じ程の身長、髪は白く長くてさらりと癖がなく、顔立ちもすっと細めで大人びている。そんな少女が、会好のものと似たような大きな綿の上で、すやすやと寝ているのであった。
(起こしてはいけないかしら…。)
火奴羅はそっと窓に手を触れた。手を触れた刹那、家の中、天井にかけてあった鈴が、ころころと軽快に鳴った。
(わわ!)
目が飛び出そうな心地の火奴羅。そして目覚める少女。

少女は寝起きの、虚ろな瞳で辺りを見渡すと、火奴羅と目があった。彼女はぱちりと目を開けて、すこし驚いた情を見せたが、綿の寝床から離れ、火奴羅の方に寄った。
そして窓を内側に開いた。あまり動揺が見えない。
「おはよう。もしかして、火奴羅さん?」
「え、ええ…。」
「どうぞ、入って。」
少女は窓を押さえて火奴羅を通した。
その部屋は、淡く色付けされた可愛らしい絨毯や小物がいくつかあるだけの、こざっぱりとしたものだった。
「私、印子というの。よろしくね。」
「ええ、よろしくお願いします。私、火奴羅といいます。」
「昨日、貴方がいたの、みたよ。ずいぶん馴染めたみたいね。」
印子の微笑みはいたく優しげ。
「皆さまお優しくて。」
「それで、今日は何しに来たの?」
「ええ、実は…。」
火奴羅はすっと澄まして見せた。
「実は、会好の事なんですが。」
印子はやはり落ち着いて、指先で髪を回している。
「うん…、そうね。そういうと思った。」
「え…?」
「実はね、昨日の夕方、会好に会ったのよ。」
(…!)
火奴羅は静かに驚いた。

「詳しく、聞かせていただけますか。」
指の髪がはらはらと解けてゆく。印子の目つきが、すこし変わった。
「昨日の朝、会好がやけに元気なのを見た。その隣に貴方がいたので、ああ、気が合ったんだな、と思ったの。でもそのあとお昼を済ませて寝てると、会好が訪ねてきた。ひどく浮かない顔でいたので、あなたと何かあったのかと。」
「さようで…。でも、私も身に覚えがないのです。」
「そうだったの。私も会好に聞いたよ。何があったか。でもあの子、気が沈んでる時って自分で抱え込んじゃうのね、結局教えてもらわなかったのよ、核心的なことは。」
申し訳なさそうな微笑みが、冷えた風に彩りを添える。
「ときに、揺陽さんのこと…、何か云ってました?」
「えっ?あ、揺陽と会ったって言ってたよ。」
(やはりな…。これが聞きたかったのだ。)
「そう、よく分かったね。ある程度見当ついてるのね。それで、この後どうするの?」
火奴羅は軽い深呼吸で息をつけた。
「会好の笑顔をもう一度…。」
「そうね。…それがいいね。」
「ええ。」
印子はすこし悲しそうな顔になった。
「あら?なにか…?」
「あ、いいえ。」
取り繕った顔が切ないのは、いつも同じ。
「ああ、そう…。今夜の夕食、よかったら村の広場に来てください。」
「え?あ、うん。わかった。」

窓が開いて、外から光が溢れた。白い空の裂け目に、ときめきの青が差す。
「頑張ってね。」
「ありがとうございます。」
火奴羅はふわっと浮いて、窓から外に飛び出した。
「また来ますね。今度は、貴方に会いに。」
すこし晴れやかな光を背に、火奴羅は振り返ってみせる。
「ふふ、ありがとう。」
印子は手をひらひらさせて、心地よく笑った。
火奴羅もにこっと笑った。そして勢いよく飛び立った。

(ふふ。意外な収穫だったな。)
火奴羅は空にいながら、腕を掲げて伸びをした。裂け目の青は心の鏡。
(よかった、これで良い。)
火奴羅はまた、いつかのあのきのこの、傘の上に降り立った。
村が一望できる場所。
(思い残すことは何もない。…すこし名残惜しい気もするけど。)
見下ろせば、いつか落ちた果実と、寄り添う花。既に傷んでいるようで、しかし未だ寄り添って佇んでいる。
火奴羅はちらり、仲良しの小さな彩りを眺めたら、胸いっぱいに、森の風を吸い込んだ。
そして、肩を下ろして、ふうっと吹いた。さらさら、木々がささやきかける。
(ここからが本番。行こう。)
飛び立つ火奴羅を、青と白の空が包んで、さわやかに影を描いた。

広場に戻ると、昼の支度がほぼ終わって、村の皆が集まっていた。会好の姿は、あいかわらず見えない。
「散星、奏。」
いつも一緒にいるふたり。
「あ、火奴羅ちゃん。」
「印子とお話しできた?」
今日の献立は、紅い果実の詰め合わせ。焼き目がついて甘い香りが立つ。
「ええ、おかげさまで。」
火奴羅はさっと皿を取りに行って、ふたりが囲んだ卓に戻った。
「ねえ火奴羅、会好、まだ元気がないみたい。」
「なんとかならないものかな。」
やはり会好が心配なようで、気のない彼女達。
「ええ、ご心配なく。私がなんとかします。」
火奴羅はにこっと笑ってみせた。
「本当?」
「何か考えがあるの。」
「はい。ときに相談なのですが…。」
火奴羅はずずと身を乗り出した。目に真の情を宿す。
「今夜の夕食に、会好を連れてきてください。」
「え?」
「あ、ん…。できるかな。」
火奴羅はやはり真剣、しかし口調は淡々と。
「村の皆さんが集まること、大切なお知らせがあることを伝えていただければ…、おそらく会好もその気になるかと。」
「うん。」
「村の方々皆さんが夕食に集まるようには、私で手配しておきましたので。それから、私、火奴羅の頼みであることは、隠しておいてください。」
「え、そうなの。」
「ええ。」
火奴羅はすこし声を抑えた。
「会好を元気にするための、大切な作戦です。成功の鍵は…、あなた達。だから、お願い!」
火奴羅はふたりの手を、そっと握った。
「わ、わかった!」
「頑張るね。」
いつかの驚きは何処へやら、奏と散星も、目をきりりとして見せた。

昼食後、火奴羅は夜までおとなしく揺陽の家で過ごした。雲はやがて散り散りに、空も露わになって美しく、夕陽の赤が眩しかった。そして日が沈み行くとき、風に流れた雲が集いて大きくなり、星々が少しずつ煌めきだした藍色のところと、空を二つの色に分けた。
(まるで海のよう。)
火奴羅は空を恍惚と眺めた。
(会好も見ていたら…。)

そして夜。雲がまだ少し残っているようで、朧気、月が夜空に溶けている。村の者たちが夕食の用意をと少しずつ広場に集まると、火奴羅は家を抜け出し、木の高いところまで飛んだ。
(よし、ここなら大丈夫。)
木の中、枝葉に腰掛けて、微かな葉の隙間からこっそりと村を見渡せる場所。
村の者が夕食の香りに誘われ次々にやってきた。さわさわとした話し声。不思議な高揚が見えた。
(いい感じ。)
火奴羅は体を揺るがせて、細枝に手をかけ、外の様子を覗いた。もうじき供される料理の湯気が、かすかに、甘く香ったその時。
奥の方から現れた、印子と、散星と奏の姿。そしてその後ろに、会好がいた。
(うまくやったようだな。)
彼女たちも席に座り、夕食を待った。そして芽果が大鍋を石の杓子で打ち鳴らし、心地よく、力強く響く快音と共に、夕食の時が始まる。
(よし、行くか。)

がっさあと、木々の擦れる音。村の者たちが一斉に振り向くと、木の葉が舞って、月光を映してきらきらと瞬いた。
そして彗星の如く、寒桜色の光玉が彼らの前に舞い降りたら、纏った光をほどいて姿を現した火奴羅が、楽劇の幕開けのように、右腕を前に曲げて深々と一礼を見せた。
「皆様。今宵はお集まり頂き、誠に有難うございます。」
して静寂。村の見張った目が集まる。いつか、火奴羅が初めて此処を訪れた時のよう。
「お集まり頂いたのは他でもなく、皆様にお伝えしたいことがある為です。どうか驚かず、お聞きください。」
やがて木々の揺れは収まり、本当の静寂が辺りを包んだ。火奴羅はちらりと広く見据えて、一息。
「私は…。私火奴羅は、明日の夜明けと共にこの村を発ちます!」
そよ風がざわめく。さらさらと木の葉が叫び散らす。村の者たちは忙しなげに、さわさわと小さく話し始めた。
ぴしぃっ!
火奴羅は指を鳴らした。すっと静まりが訪れる。
「皆様の心暖かいおもてなし、心から受け取りました。本当にありがとうございます。私はこれより出発の準備がございますので、これにて失礼致します。」
そして火奴羅は、また光を纏いて素早く飛び、森の奥に消えた。

風。灯火の光だけ、落ち着かずはたはたと揺れている。聴こえる。すすと誰かの息づかい。服の擦れるささやき。空が高くなってゆく。黒い空に何もかも吸い込まれていきそう。そして確かに、暗がりに立つ料理の香りが、惑いて闇に溶けていった。
「会好、どうしようか…。」
散星は今までになく落ちた声をしている。
「私、まだ火奴羅と一緒にいたいよ。」
奏は今までになく静かな声をしている。
「楽しかったから…。少しの間だけど。」
「ね、会好。大丈夫?」
会好は俯いていた。
「会好、ちょっと。」
誰かが会好の肩に手をかける。振り向くと、揺陽が居た。
「ちょっと、こちらにいらっしゃい。奏と散星は、ここでお待ちね。」
会好はまた何も言わず、揺陽の後についた。
(ふふ、計画通り。)
木の葉の影に隠れて、火奴羅は素早く彼女達を追ってゆく。
(いよいよ、核心に触れる時。)

森の奥。誰も居ない暗がりで、揺陽は止まった。
「火奴羅がいなくなるんですって、よかったわね。」
会好は黙ったまま、地を見つめていた。
「…悲しいのですか。あんな者のために。」
そしてふと顔を上げた。何か言いかけて、辞めた。
「忘れなさい。影で悪口を言う者の事なんか、忘れてしまいなさい。」
(悪口…?)
火奴羅は木の上、生い茂る葉の中で聴いていた。
(なるほど…。私が会好に陰口をしたと、そう云うことになっていたのね。そういうことねぇ。)
「今夜はゆっくり休みなさい。明日になれば、何もなかったことになります。」
「うん。」
会好は一言だけつけて、ゆっくりと帰っていった。
(さて、総仕上げと行こ。)
音を立てず、火奴羅はするりと森を抜けて飛んだ。そして揺陽の家へ。

「あら、火奴羅さん。」
帰ってきた揺陽。火奴羅は寝支度を済ませていた。
「おかえりなさい。」
「それにしても驚いた。明日帰ってしまうんですね。」
「ええ。」
揺陽は屈託無い、安らかな微笑みでいた。
「今夜はゆっくり休んでくださいね。」

火奴羅は寝転びながら綿の上、雲の流れと月を瞳に映して時を過ごした。やがて月が、丸い月が天に昇って窓から消えた時、火奴羅は静かに起き上がった。
(そろそろ行こう。)
夜風に揺られて、火奴羅は夜空の下。しん、と物悲しげな村の風。薄暗く月が照らして、大地はぼんやりと姿を見せている。草花が風に揺られて、柔らかく瞬きを見せると、朧気なる空が雲を通して、星が同じように揺らめいた。

「会好。」
火奴羅は窓枠に腰掛けた。闇の中で、甘い香りが乱れた。
「え…。」

すこし赤らんだ目の、彼女がそこに。会好は目をこすって、再び顔を上げると、いつかのように、目を大きくして驚いた。
火奴羅はにこりと笑うと、窓からゆらりと部屋に入って、横たわる会好の手を引いて、窓際に連れ出す。
「夜分遅くに…、ごめんなさいね。お話させて。」
月明かりに淡く照らされただけの、薄暗い世界。それはまるで蒼が差したモノクロ写真のように、静かに、穏やかに佇んで居る。火奴羅は風を乱さぬよう、静かに語りかけた。
「揺陽さんから、何か聞いたかな。多分、私が影で何か云っていたと。」
うつむいたまま。会好は何も言わず、うつむいたまま。
「会好。あれは嘘だ。」
ぴくり、会好の身体が揺れる。
「それでいい。何も云わなくていいから…。会好、顔を上げて。」
火奴羅は会好の肩に手を掛けた。会好がゆっくりと顔を上げると、火奴羅は視線で会好の瞳を捕らえた。
刹那、突風が駆け抜けた。星々が、草花が、木の葉たちが、いつか湖の水面に日の光が映ってきらきら瞬いたように、ころころと、揺れた。

火奴羅は会好を見つめた。会好は火奴羅を見つめた。月の微笑みを見ない。風のささやきを聴かない。ただ、暖かくて静かな心のときめきの中で、何も言わず、ただ、じっと目を合わせて居た。
「信じてくれたかしら。」
「…火奴羅。」
会好はまたすこし俯いた。
「もう一度、言って。」
火奴羅は彼女の肩を、優しく支えた。そして静かな言葉に、確かな力強さを込めた。
「私はあなたのこと、悪く云ったりしない。…絶対に。これからも、ずっと。」
俯く彼女の顔から、きらり、光が落ちて、弾けた。そして会好は倒れこむように、火奴羅の胸に顔をうずめた。暖かな、陽の香りがする。
「あなたは、この世界で多分最初に出来た、本当の友達だから。」
火奴羅は会好の髪に触れた。安らかな、森の香りがする。
「会好…。誤解を解くのが遅くなったね。ごめんなさい。」
会好は火奴羅の腰をきゅっと掴んだ。
「怖かった…。怖かった。」
火奴羅は目を伏せた。
「よかった。信じてくれたね。」

光。柔らかな光が満ちる。
「晴れてきたな。」
見ると雲の裂け目に、大きく、月が佇んで居る。
「ねえ、火奴羅。」
「うん。」
「本当に、外の世界に帰るの?」
流れた雲が星屑を残してゆく。いつぞやの、星空。
「…そのつもり。」
「ね、だったら…。」
会好は窓から身を乗り出した。髪が、風に揺られてちらちらと瞬いた。
「…私、やっぱり、外の世界に行ってみたいと思うの。」
そして会好は振り向いた。その眼に、空が映って輝く。
「だから私も行く!」
火奴羅の瞳も輝いた。そして、にっと笑った。
「ふふ。そう云うと思った。」
火奴羅の手を引く会好。
「ね、今いこ。」
「え、今?」
「…誰にも知られずに、行きたいの。」
火奴羅は指先を頬にとんとんと当ててみる。
「…行こうか。」
「うん!」
会好は火奴羅の手を取って、窓から弾け飛んだ。

少し強めの風。涼しくて心地良い。会好と火奴羅は、落ち葉のように、森の向こう、初めて会好が火奴羅と出会った場所へ、音もなく、風と共に流れてゆく。
「わあっ。」
静かに会好がささやいた。
「みて。あれ。」
会好が指差す方向を見ると、火奴羅は目を丸くした。
「あ、すごいっ。」
ぼんやりと白い光が溢れていた。見ると、あの広い湖。その輝きは暖かく、遠くても、胸に触れる心地がする。
「私、こんなの初めて見た。…夜に湖を見に行ったことはあるけど。」
会好は目を輝かせた。
「なんだか懐かしい。いつか見た事があったっけ。」
「私も、そんな気がする。」
辺りはすっかり晴れて、月がまたさらに大きい。やがて、あの日出会ったあの場所が見えてきた。ちょうど木漏れ日のように、白い線がその一点を妖しく照らしている。

「待ちなさい。」
鋭い声が風を裂いた。
火奴羅は会好の手を取って止まった。風に髪がふわりと揺れる。
「え。」
会好と火奴羅は振り返った。
暗がりの中、ぼんやりと影が。少しづつ近づいて、姿が露わになる。
「揺陽…。」
会好の声は静かに夜に消えた。
「火奴羅さん…。全く、困ったお方。」
火奴羅は会好の前に立った。顔を澄まして瞳を据える。
「結局こうなってしまうのですね。残念です。」
「つまり、私が会好を連れて外に行くことを恐れていたと。」
揺陽の目は鋭かった。この村には似合わない、強さを持っていた。
「外の世界は野蛮です。全ての修羅が、互いにその命を狙って眼を赤くしている。会好はそんな所に居てはならないのです。」
揺陽は地面に座り込み、両手を地に突き立てた。大地はばりりと轟音を散らし、不穏な揺れを見せる。
「いやあっ!」
会好は火奴羅の背に顔を沈めた。
大地がすこし盛り上がり、途端にぎらりと怪しく金色の光が。揺陽の体を囲ってその輝きは、大地を破って、触手のように弾け伸びた。鋭い、結晶の塊。その剣先が、真っ直ぐ見据えて、火奴羅の胸元に突き立てられた。静寂を裂く一閃の出来事は、あまりにも、長かった。

ふと、火奴羅の側を何かが横切った。ちらり、目をやると、随分と傷んだ果実が、弾けた地の欠片と共に飛んで、ぽたん、と落ちて転がってゆく。火奴羅は揺陽に目を合わせた。そしてまた、凛とした情を宿す。

揺陽の身体がびくりと揺れた。
「驚かないのですか。」
「ええ。」
揺陽は怒りに満ちた情で、凄むような声をした。
「甘い!ならば本当に、貴方を穿つ!」
「いいえ。それはできません。…できないでしょう?」
火奴羅は結晶の刃先を優しく、妖しく指でなぞった。そして揺陽を一度見据えると、おもむろに、背を大きく反らせた。
(火奴羅…?)
会好は口元に手をして、不安げに火奴羅を見つめていた。風はぴたと止み、気味の悪い静けさを香らせる。
刹那、火奴羅は思い切り体を起こした。茜色に輝く水が花開くように飛び散って、月星の下できらきらと輝いた。
「あ…っ!」
会好は声が出なかった。
「火奴羅…さん…。」
揺陽は目を丸くした。彼女の体の光が、するするとほどけていった。
「これが、長年修羅の世を生きた者の強さです。」
結晶が茜色に濡れてゆく。
「そして、これでも会好を守りたいと、願う私の覚悟です。」
火奴羅の声は静かに、穏やかに夜空に広がっていった。
「…お分り頂けたかしら。」
揺陽は呆気にとられた表情をふりほどいて、静かに、頷いた。
「よかった。」
火奴羅はふんわりと微笑んで、身体を寒桜色に光らせた。茜色の水も、共鳴して淡くほわわと光る。火奴羅の身体を貫いた結晶が、光に包まれ、瞬時に溶けて消えた。
火奴羅はきゅっと振り向いて、会好の方に歩み寄った。そして自身の胸を撫でて見せる。会好は震える手で、火奴羅の胸に手を当てた。
「治ってるっしょ。」
胸の奥に、確かな身体の感触がある。
「…ほんとだ…!」
ふふ、と微笑みかけて、火奴羅は振り向いた。
「私は、長い間、止まることなく浮浪の旅を続けて参りました。八十の世界に入り、八百の景色に包まれ、万の命と出会いました。それでもなお、私は旅を続けます。惑いて踊りを続けます。」
「火奴羅さん。」
「だから、空を眺めて綺麗と云った会好を、連れて行きたいのです。すこし、切なそうな顔をしたから。美しい世界へ、私が連れて行けるから。」
やがて残った金色の結晶は砕け、細やかに光り輝く粉になって夜空に広がった。
「…会好。やっぱり、諦めてなかったのね。」
「うん…。」
揺陽はすっと身体を起こした。
「会好。」
そして真面目な顔をする。
「必ず帰って来なさい。いつか成長した姿を、帰って私に見せて。よいですか。」
「揺陽…。」
会好は大きく頷いて、顔を上げた。真っ直ぐ、揺陽を見つめた。
「うん、分かった。」
「火奴羅さん。それまで会好を頼みます。必ず会好を連れて、あなたも帰って来なさい。」
「ええ、必ず。」

柔らかな風が、再び流れ始めた。ふと、どこからか、微かに声が。
「火奴羅ー…」
さわさわと、そよ風にのって声が、少しづつ大きくなってゆく。
「あ、みんな…。」
会好は小さくこぼした。その声のもと、火奴羅も目をやると、村の者たちが次々と、暗闇から現れるのが見えた。
「火奴羅!」
それは印子。そしてその後ろに、散星、奏、秋河と続く。会好は咄嗟に火奴羅の背に隠れた。
「火奴羅ちゃん、もしかして、もう行っちゃうの。」
「おい!火奴羅、話が違うぜ!」
「そうよ、こんな夜遅くに…。」
そのざわめきは風の森か、それとも村の衆の声。
すると、揺陽は何も言わず、すうっと腕を掲げた。さらりと鎮まりが訪れる。
「皆様…。申し訳ない。でももう行きます。」
すると会好は、火奴羅の背からひょこっと顔を出した。
「あ、会好!」
散星が叫んだ。会好はすうっと深呼吸して、にこっと笑ってみせた。
清々しい笑顔だった。
「皆んな。私も、旅に出ます!」

「え…っ!」
「あ…。」
どわっとざわめき。そして静かになった。皆驚きに惚けた顔を、しかし印子だけ、悲しそうな微笑みをしていた。
「会好…!」
散星の言葉を切って、揺陽はまた腕を挙げて制した。
「皆さん。会好と火奴羅さんの旅立ちです。祝いましょう!」
揺陽の声と同時に、世界が柔らかな光に包まれる。
「わあっ!」
会好が叫んで、指をさした。見ると、湖のあたりから、白い光の線が柔らかく、瑞々しく通って、夜空を照らしているのであった。
村の者たちが皆、空を見上げている。白く照った顔が、地に鮮やかな影を残した。
(美しい。まるでこの地に意志があるように、祝うように…。)
火奴羅と会好も、じっと、空を見上げていた。

揺陽はいつかのように、懐から笛を取り出した。そしておもむろに、ある旋律を吹き始めた。すこし不思議な旋律。
すると、芽果がそれに乗って、言葉にならない歌を歌った。灯楼が重ねるように歌った。散星が歌った。そして一つ、また一つと声が加わって、最後には、会好と火奴羅の前に集う皆が奏でる大合唱となった。
一つの笛の音流れは、歌声を豪奢に纏いて尚美しく、そして輝かしく旋律を紡いでいる。そして音達はまるで糸が綴織の壮大な絵を作り上げてゆくように、空を、世界を包んで打ち鳴らした。

笛を吹きながら、揺陽は少し、涙を流した。きらりと輝いて、光の中に散った。
そして揺陽は微笑んだ。輝かしい、屈託無い笑顔だった。この合奏に、もう笛は要らない。揺陽はよく通る声をした。
「さあ、行きなさい。愛しき世界を照らすのよ!」
笛の音の無い歌は、少し穏やかに。
「行こう、火奴羅。」
「うん、行こうか。会好。」
そして揺陽はまた笛音を流した。調べは一気に迫り上がって、最後を飾る壮観を呈す。
火奴羅は気付いたように、背に目をやった。先程の、朽ち果てた果実が目の前に。
火奴羅は手を伸ばした。すると会好が実を手に取って、枯れた花の側にそっと置いた。

そして火奴羅は会好の手を引いて、洞窟の中へ駆けていった。振り返って、思い切り手を振った。会好も手を掲げた。答えるように、村の者たちも一斉に手を挙げた。
洞窟の天井が光った。菌輪の中、白い輝きの先へ、火奴羅はふわり、会好を抱えて飛び上がった。

光に満ちた世界の中、まだ、歌が聴こえる。
「ね、会好。」
火奴羅は胸元の会好にささやいた。
「どしたの?」
「…私は、会好に広い世界を見せたいと云って、会好を連れてきたでしょう。」
「うん。」
「その気持ちは、嘘じゃない。だけどほんとは、もひとつ理由があるの。」
会好は火奴羅の腕に横たわりながら、笑顔を見せた。
「なあに?」
「私は、今までずっと独りだったから。独りで、ちょっと寂しかったから…。だから、あなたと一緒にいたかった…。」
「…嬉しい?」
「ん。」
火奴羅と会好はすこし顔を見合わせて、ふふ、と笑った。
「だから、守らせてね…。あなたを。」
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