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十三章 ワタル七日目

終焉 ①

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 一九八五年、六月九日の日記より。

 『俺はこの日を決して忘れない』



 六月九日、鴇祭の日の朝は、それまでの曇り空が嘘のように、晴れ渡っていた。
 鳥が大空へと羽ばたいていくのなら、こんな空がいいと思えるような、快晴だった。

「……鴇祭、か。もう見れないけど、仕方ないよな……」

 カナエさんには、ふもとの村で待てと言われている。もう村に戻ることがないのだとすれば、俺は二度と鴇祭を見ることはできなくなるのだ。
 それを思うと切なくなってしまうが、仕方のないことだと割り切るほかなかった。

「……さて」

 俺は出発のために、最低限の荷物をまとめる。
 数冊しかない漫画、もはや思い出としての価値しかない玩具、学校の教科書とノート。
 ……そして、ツバサとの交換日記。
 今日もこの日記を、ツバサと交換する。そうしてまた、この日記は続いていかなくてはいけないのだ。
 だから、ツバサ。俺は今日、お前を待つ。
 早く、カエデさんを説得して、村を出てきてくれ。
 荷物をまとめ終えた俺は、朝食を作るためにリビングへ向かった。今日は祭りの日なので、父さんは早起きしているかと思ったのだが、リビングにその姿はない。

「父さん、いないな……」

 家の中にはいるのだろうかと、俺は一度探してみることにした。

「……やっぱ、いない……」

 父さんの部屋を覗いてみたのだが、やはり無人だ。どうも父さんは、家の中にはいないようだった。
 久しぶりに父さんの部屋へ入ったのだが、昔より幾分散らかっている気がする。綺麗好きだったはずの父さんが、物を片付けられないのは、やはり病身ゆえなのだろうか。そう考えると、胸が痛んだ。

「……?」

 部屋を見まわしていると、一つだけ違和感のあるものを発見した。それは、手書きのメモだった。

「なんだろ、このメモ……」

 どうやら父さんが書いたものらしい、何枚かのメモ。だが、どういうわけかその文面は、英語と図式で埋められていた。
 何かの設計図、というのが近いのかもしれない。かろうじてモロトフ、という単語が何度か出てくることくらいは読み取れたが、それ以上はよく分からなかった。
 というよりも、そんなよく分からないものが部屋にあるのが、嫌だった。

「……どこ行ったんだろうな」

 俺はリビングに戻り、一応父さんの分も朝食を作って、出来上がった朝食を一人で先に食べた。
 食べている間に父さんが帰ってこないかと何度も扉に目をやっていたが、結局父さんは帰ってこなかった。
 祭の打ち合わせでもしているのだろうと自分に言い聞かせ、納得しようとしていたが、やはり不安はだんだんと募ってくる。
 ひょっとしたら、もう父さんに会えなくなってしまうなんてこともあるんじゃないかと、嫌な想像ばかりが浮んでしまった。
 食器を片付けて、しばらくぼんやりとテレビを見続ける。昨日開通した大鳴門橋のニュースがまだ続いていたり、海外で先行販売が始まった車の話題などがあった。そんな番組を見ている間も、やはり父さんは戻ってこなかった。一人のリビングに響くテレビからの声は、どこかむなしく感じられた。
 そして、時計の針が九時を過ぎたころ。
 俺は心を決め、最低限の荷物を背に、静かに家を出た。





 生まれてから十五年間、ずっと過ごしてきた我が家。
 行ってきますと、ただいまの繰り返されてきた我が家。
 もう、戻ることはない我が家。
 その姿を目に焼き付けておこうと、俺は振り返る。
 この村で、沢山の大切なことを学んできた。
 大切な仲間に、大切な思い出。それらを全て持って帰って来る場所が、この家だった。
 その全てを、俺は絶対に、忘れたりなんかしない。
 ありがとう。
 そして、さよなら。
 俺は心の中で、別れの言葉を捧げて、家を後にする。

 まだ、村が静かな朝の内に、俺は今みたいに、村の皆に別れを告げて回るつもりだった。
 そして、自分の気持ちにも整理をつけて、村を去りたかったのだ。
 村を反時計回りにぐるりと一周し、それからふもとの村への道を下っていく。俺はそう決めていた。だから、まず最初にやって来たのは、ツバサの家だった。
 天の家と地の家。相容れないのだと理不尽に突き付けられた現実だけど。そんなことは、もう関係なくて。
 ……ツバサ。俺は、お前のことを待ってる。
 だからまた、ふもとで落ち合おう。先に……行ってるからな。
 ここで二人、築き上げてきたものは、とても大切な宝物だ。
 その宝物を失くさないよう、いや……もっと価値あるものに出来るよう、これからも一緒に過ごしていこう。
 それじゃあ、また。
 心の中でツバサへの言葉を唱え終わると、次はカナエさんの家へ向かった。

 カナエさんの家は、学校のすぐ近くにある。宇治家はずっと、村の子供たちの先生であり続けていた。
 その役目も、もうすぐ終わる。
 けれど、彼女が俺たちの先生だということは、永遠に変わらない事実だった。
 ……カナエさん。あなたがどうして父さんを好きになったかは分からないけれど。
 どうか、悲しい顔はしないでほしい。またいつか、明るい笑顔で俺たちの輪に加わってほしい。
 その日を心待ちに、しています。
 そう告げ終わると、俺は北へ足を運び、ヒカルの家へと向かった。

 村の北側にある、大きな木造の家屋。村一番の大地主である青野家には、他の子の家に比べればそう立ち入る機会は多くなかったけれど。
 ここで遊べるときには、普段よりテンションが上がったりしたっけ。
 今までありがとう、ヒカル。お前がいてくれたおかげで、俺は良い感じに 無鉄砲でいられてたと思う。お前のその性格のおかげで、俺は安心して 馬鹿をやれたんじゃないだろうか。
 ……また、いつか会おう。
 それまでの、お別れだ。
 涙は見せない。俺はそのまま、緑川家へ向かう。
 橋を渡るときの、小さな川のせせらぎも、今は哀愁を誘った。
 緑川家。村でただ一つの医院だ。
 暗い一面を知ってしまった今でも、ここが村の皆を救う、大切な場所であるという思いは変わらない。
 そして、クウもまた俺たちの心をずっと明るくしてくれていた、大切な。
 お前と一緒に騒げるのが、本当に楽しかった。お前は最高の遊び仲間で、いつでも何かを競い合っていた。
 あの日のドッジボールの決着は、いつか必ずつけよう。
 ……それじゃあな。
 また会えると信じて、俺はクウの家を去る。
 次に向かうは、黄地家だった。

 古びたトラックが止められている、村のパイプライン的な存在だった黄地家。
 この一家から、幼い命が失われたという悲劇は、家族だけでなく村全体が、大きな悲しみに包まれて。
 それはずっと、皆の心に残り続けていくのだろう。
 それなら、せめて。これより後は、幸せが続いてほしいと願うほかない。
 ……タロウ。また、一緒に遊ぶことができなくて、本当にすまない。
 ジロウくんが元気になったらって、ずっと言い続けて。でも、結局どうにもならなくて。……お前との約束も、最後には無意味になってしまった。
 その必要もなくなったわけではあるけれど……。
 お前は、この村の最後をどう思っているんだろうな。
 ……またいつか、聞かせてもらいたい。
 さよなら、タロウ。

 こうして俺は、村を回って、別れの言葉を告げ終わり。
 村を出て、ふもとへの道を独り歩き始めた。





 ふもとの村の道を歩き始めてすぐ。
 俺の眼前に、一人の男が姿を現した。
 どうやら、その身なりからして、佐渡コンツェルンの人間らしい。
 サングラスに黒スーツという、黒ずくめの姿だったので、薄気味悪さを感じながらも、俺はゆっくり近づいていく。

「……どうも、はじめまして。あなたは……?」
「はじめまして。赤井渡様ですね。佐渡副社長よりお話は伺っております。ふもとの村までご案内するようにと言われておりますので、どうぞついてきてください」
「わ、分かりました」

 黒服の男は、俺がここへ来るのをずっと待っていたらしい。俺が了解の意思表示をすると、くるりと背中を向け、ふもとの村へと歩き始めた。その足取りが、中々速かったので、俺は慌てて彼についていく。
 ……大企業なら、車くらい用意していないのだろうかと、そんな疑問を抱きながらも。
 歩き始めて二時間ちかく経って。
 森を抜け、ふもとの村が下の方に見え始める。
 道や田畑も綺麗に整備されていて、鴇村との違いを実感させられた。
 やはり鴇村は、時代に取り残された村だったといえるだろう。
 そんなことを思っていると、

「それでは、私はこのあたりで失礼させていただきます」
「え? 宿があるところまで来てくれるんじゃ?」
「申し訳ございません。私も多忙な身でございまして。宿の場所はお教えいたしますので、あとはワタル様お一人で向かわれてくださいませ」
「はあ……」
「こちらが宿泊代です。十分に足りるでしょう」

 そう言って、黒服の男は俺に何枚かの紙幣を手渡す。
 それを見てみると……なんと、一万円札が三枚、つまり三万円が手渡されていた。

「あの、これ……」
「当座の資金とお考えください。すぐに迎えには来ますがね。万一のことがあった場合、です」
「……あ、ありがとうございます」
「それでは、私はこれで」

 黒服の男は、軽く頭を下げると、すたすたと歩き去ってしまった。
 それも、ふもとの村の方角ではなく、何もない雑木林の方へ。

「……どこへ行くんだろう。……まあ、いいか」

 高級車が目立つから、人目につかない場所に置いてあるのかもしれない。それくらいに考えて、俺は貰ったお金を握りしめながら、村の宿へと向かった。
 村の宿は、ヒカルの家並みかそれ以上の大きさがあって驚かされた。近くに建っている民家も、ほとんどが鴇村の地主の家と同じレベルの大きさだった。
 とにかく俺は、入り口らしきところから宿の中に入ってみる。
 中に入ると、年配の女性が受付をしていた。にこやかな笑顔で、俺に挨拶をしてきたので、俺も挨拶を返す。

「すいません。部屋を借りたいんですけど」

 こう言えばいいのかな、と考えつつ、俺は受付の女性に話しかける。
 こんなことをするのは初めてなのだ。何一つ分からなくとも仕方ない。

「おや、お泊りですか? 失礼ですけど、親御さんが一緒ではなくて?」
「は、はあ。お……僕だけです」
「まだ中学生くらいに見えるけれど……本当に、一人で?」
「ええ、本当に……」

 そりゃあ、子ども一人で宿をとるなんていうのは、怪しまれるだろうな。いくら俺でも、それくらいは分かる。
 しかし、この宿屋にもカズヒトさんから話が通っていたりとか、しないのだろうか。……してないようだから、仕方ないが。
 受付の人に提示された金額に、一万円札を差し出すと、彼女は目を丸くしたが、なにか事情があるのだと察してくれたのか、何も言わずに部屋を案内してくれた。
 俺はお礼の言葉を述べて、教えられた部屋に向かった。
 部屋に入ると、俺はすぐに荷物を降ろす。最低限の物しか入れてはいないが、やはり二時間の道のりを背負ってきたのはきつかった。
 壁に掛けられた時計を見ると、もう正午を過ぎている。この宿屋では昼食は出ないそうなので、もし食べるなら、どこか外で食事処を探すしかなさそうだ。

「……はー……」

 畳の上に寝転がる。い草の香りはどこでも同じだ。自分の部屋を思い出して、懐かしくなる。
 ……まだ、家を出て数時間しか経っていないのだけれど。
 寝転がると、途端に疲れが押し寄せてきた。色々考えたいことはあったけれど、それらは全て、眠気に押しやられてしまう。
 昼食も別にいいか、と思えてきて、俺は畳の上で大の字になったまま、しばらくの間浅い眠りについたのだった。





 …………夢の中で。
 俺は何か大切なものを喪って、泣いていた。
 それが何かも分からないままに、ただ悲しくて。
 一人で赤い空を見上げ、涙を流し続けていた。

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