この満ち足りた匣庭の中で 一章―Demon of miniature garden―

至堂文斗

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Tenth Chapter...7/28

牛牧高成という人

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 何かが分かると思ったわけではない。
 何かを聞けると思ったわけでもない。
 それでも僕は、傘立てから傘を抜き取り、急いで家を飛び出して、理魚ちゃんの元へと向かっていた。

「……いない……」

 さっきまで彼女が立ち尽くしていた場所に、もうその姿はなかった。だが、あの子の小さな、病弱な体で、それほど遠くまではいけないはずだ。まだ近くにはいるのだろう。
 彼女に会えたらどうするのか。それは正直分からない。何を聞いたとしても、彼女は喋ってくれそうにない。僕は恐らく、ここへ来てから理魚ちゃんが喋るのを聞いたことがないし、貴獅さんも喉の病気で喋るのが難しいのだと口にしていたから、行為そのものが出来ないに等しいのだと思う。
 だが、せめて彼女と対峙したいと、僕はそう感じていた。向き合わなくてはならない問題なのだと、多分、勝手にそう感じていたのだ。……雨の中彷徨い歩く彼女を、心配する思いも勿論あったが。
 しばらくぶらぶらと歩いてみたが、理魚ちゃんらしき人影は見つからない。見当違いな方へ進んでしまったか。これ以上進んでも徒労に終わるような気がして、僕は彼女を探すのを諦めることにした。
 また、どこかで見かけたら、声だけでも掛けてみるか。
 傘を差していても、雨粒はそれをすり抜けて体を濡らしてくる。外にいても仕方ないので、僕は家の方へ踵を返し、歩いていく。そして、家の数軒手前まで戻ってきたあたりで、視界の端に人の姿を捉えた。……もしかして、理魚ちゃんがまたやって来たのだろうかとも思ったが、シルエットは大人のものだ。
 ゆっくりと、こちらに向かって歩いてきたのは、牛牧さんだった。

「おや、真智田くんか。こんにちは。雨の中お出かけかな」
「あ、いや。そういうわけじゃないんですけど」

 理魚ちゃんを探していた、と言う気にもなれず、僕は曖昧に言葉を濁した。牛牧さんは、僅かに眉をひそめたが、それ以上訊ねてこようとはしなかった。

「牛牧さんは、どこか行かれていたんですか?」

 はぐらかすように、僕は牛牧さんに聞き返す。すると彼は、困ったような表情で頭の後ろを撫でて、

「ああ。瓶井さんのところへ行っていたんだよ。年寄りの下らない雑談だ」
「……鬼の話、ですか」

 当てずっぽうで、というか、言いたかったから口にしてみたのだが、牛牧さんは俄かに顔を強張らせた。

「……まあ、当たらずとも遠からず、だ。この村のことを憂いて話していた、というところかな」
「憂いて、ですか」
「老人には、そういう話しか出来んからね」
「いえ、そんな……」

 瓶井さんは七十を過ぎているけれど、牛牧さんはまだ六十代だ。今の世の中、その歳ならまだ老人とは言えないだろう。

「……牛牧さん自身は、電波塔計画についてどう思っているんですか?」
「そうだね。儂自身は、あの電波塔……満生塔と名付けられていたか。それを嫌悪しているわけではないのだ。今は殆ど形の上だけであれ、病院長なのだしね。電波塔だけでなく、それを皮切りに新しい技術が満生台に流入してくるのは、医療の充実、発展にとって重要なことだと考えている」

 そこで、牛牧さんは言葉を切って、

「おっと、突っ込んだ話をし過ぎているかな。まあ、平たく言えばあの電波塔は必要悪だと感じているよ。ただ、村全体の意見として、必要とされているかは何とも言えないが」
「……そうですね」

 僕はそう相槌を打つ。少なくとも、牛牧さん個人の意見は、否定的なものではないようだ。必要悪、という彼の言葉は、僕にとってもしっくりくる表現だったと感じる。
 ふと、牛牧さんの後ろに、初老の男性が傘を差して歩いていくのを見つけた。雨の日なのに、今日は出歩く人が多い気がする。

「多分、あれは反対者集会の参加者だろう。チラシが入っていたと思う」
「ああ、そう言えば。でも、集会って八月二日じゃありませんでしたっけ?」
「誰かと話がしたいという人は、集会場に集まって電波塔批判に花を咲かせているようだ。やはり、瓶井さんの忠告と……永射くんの事故は、大きな影響を与えたのだろう」

 牛牧さんの言うように、その二つの出来事は、住民たちの心を大きく動かしたはずだ。瓶井さんが永射さんへ祟られるぞと警告を発した直後に、彼は水死した。そのインパクトは相当なものだった。

「鬼の祟りを真剣に信じる者がどれほどいるかはさておき、少なくとも、電波塔やら先進技術やらが街にとって有害だと考える人が増えたのは、間違いない」

 牛牧さんは力なく笑った。その一瞬で、彼が何歳か老け込んだようにも見えてしまう。

「医療センターは発展していってほしいが、この問題は繊細だ。……成行きを、見守る他ないと儂は思っている」

集会場の方へ歩いていく老人を見つめながら、牛牧さんは悲し気な声色でそう言った。

「……そう言えば」

 病院の話題で思い出して、せっかくだからと僕は訊ねてみる。

「瓶井さんから聞いたことがあるんですが、中央広場の石碑を建てたのは、牛牧さんなんですよね」
「ああ……そんなこともあった。もう十年以上前か。一度ヒビが入ったりして、補強工事もしていたな。あれは永射くんが費用を出してくれたはずだ」
「お子さんの療養のために、牛牧さんはここに来たっていうのも聞きましたけど……お子さんが、いたんですね」

 その言葉に、牛牧さんはすっと顔を伏せて、

「……洋一と言った。自慢の息子だったよ」
「……洋一くん」

 だった。それは、つまり。

「難病でね。治療法がなかった。緩和法を試しながら、ずっと過ごしていたんだ。その過程で、居心地の良いこの場所へ移り住んだ。二十歳になるまで生きたいと、言えば現実になると信じているみたいに、何度も繰り返していたよ。だが……叶わなかった。十九歳という若さで、あいつは逝ってしまったのだ」
「……すいません」

 瓶井さんが語れなかった理由が分かった。軽々しく、聞けるものでは決してない、重く、悲しい過去だった。

「この場所で病院を作ろうと決意したきっかけも、洋一だった。平成四年にあいつが亡くなってから、すぐに構想を練り、住民達を長い時間かけ説得して。そして平成八年にようやく着工に漕ぎ着け、二年後に晴れて完成の日を迎えたのだ。当初はどちらかと言えば否定的だった住民も、今では病院をありがたがってくれている。人の想いは変えられる。誰かが道標となることで、想いは後をついてきてくれるものなのだよ」

 牛牧さんの長い人生、その重さの片鱗を感じ取れる、とても含蓄のある言葉だった。僕はただただ、無言で頷く以外、相応しいことが思いつかなかった。

「この困難も、乗り越えられる。満ち足りた暮らしを掲げているのだからね。この街は、これからも前へ進んでいくと、儂は信じているよ」
「……だと、良いですね。本当に」

 僕が言うと、牛牧さんは僅かに微笑んだように見えた。

「真智田くん、君や君の家族はまだここへ来て日が浅いから、それほど気にしてはいないだろうが、しばらくは冷静に、この問題を見届けた方がいい」
「あはは……そうするべきなんでしょうけどね」

 それが出来ない人たちが、集会を開いて批判の言葉を重ねている。そうした集まりが、悪い方向へと転げ落ちていかなければいいのだが。

「おっと、いかんいかん。年寄りなもので、つい長話になってしまった」
「ああ、いや。僕が引き留めたんですから」
「それを幸いと話し始めるのが、老人の悪い癖だ。……うむ、それではね」

 牛牧さんは、片手を少しだけ胸の前で振って、それから身を翻し、立ち去っていった。その後ろ姿を、僕はしばらくの間見守ってから、家まで戻り、中へ入った。
 理魚ちゃんを追いかけたら、牛牧さんから話を聞くことになるとは。何が起こるか分からないものだ。

「ちょっと、玄人。どうしたの、急に外に出ちゃって」

 玄関扉の開閉する音で気づいたのだろう、母さんがやってきて、僕を睨む。

「ああ、うん。この雨の中、外を歩いてる女の子がいたから、気になっちゃって」
「あら……理魚ちゃんって子かしら?」
「あの子、色々あるみたいだからね」

 理魚ちゃんのことは多分、満生台の住民なら誰でも、聞いたことくらいはあるはずだ。母さんが知っているのも特に変ではない。

「心配するのも分かるけど、あんまり人のことばっかり考えないように」
「う、うん。ありがとう、母さん」

 母さんの言葉に、僕は素直に頷く。それで言いたいことは済んだようで、母さんはリビングに戻っていった。僕も、すぐに自分の部屋へ戻ることにした。
 自室に入り、掛け時計を見てみると、もう正午になろうという時間だった。あまりお腹は空いていないが、そろそろお昼ご飯が出来上がる頃か。呼ばれるまでは寝転んで、スマホでもいじっていよう。そう思ってベッドに倒れ込む。

「……ん」

 スマホを取って画面を見ると、龍美からメッセージが来ていた。発言時刻は十五分ほど前だ。

『どこかで虎牙を見かけたら、連絡くれないかしら』

 朝、既読が付いたから、虎牙を心配する気持ちが再燃したのかもしれない。何となく、龍美の文章には、焦燥のようなものが窺えた。

『分かった、何かあったらすぐ言うよ』

 僕は、とりあえずそう返事を送信しておいた。既読は付かなかったが、その内見てくれるだろう。

「玄人、ご飯よー」

 階下から、母さんの声がした。もうお呼ばれの時間のようだ。

「はーい」

 僕も大きめの声でそう答えて、緩々とベッドから起き上がり、部屋を出た。
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