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憐憫と契約 1
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そのとき、私は、子供の頃に近所の川で水遊びをしたときのことを思い出していました。
そうそう深くもなく、幅もないその川は農地の灌漑用に掘られた人の手によるもので、近所の平民の子供たちといつも遊んでいたものでした。
いつもは数人いた侍女のだれかがともに着いてくるのに、その日に限ってはたまたま、手の空いていたものが誰もおらず、まだ幼い私は一足先にその川にかかっている橋のたもと、川べりに座って水面を手で叩いたり、足でゆすったりとしていた頃。
彼はしずかに後ろから忍び寄り――そっと背を押された私は見事に水面に前のめりに突っ込んだのでした。
深くもない水のなかで、いきなりやってきた驚きの瞬間。
夏場でも昼前の川の水はまだ冷たくて、間抜けにも上半身だけその中に沈めてしまったそのとき。
世界の違い、ひかりの泡と空気の輪が列をなして漂いゆくその様を目の当たりにして、息ができなくて苦しいはずなのにその瞬間だけは息をすることを忘れていた。
未知のなにかへの扉が開かれた気がしました。
それと同じような感覚をいま、私は手にしている書類を見て感じていました。
錯覚のはずなのに、そうでない感覚。
あの男の子に対する怒りと驚きと裏切られた。
そんな複雑めいたものが胸の奥で渦巻いていた、助け出された?
いいえ、自分で慌てて顔を上げ、男勝りだった私は彼をひっぱって川の中に突き落として、ちょうどそれを見かけた侍女にとても怒られたのを覚えています。
「‥‥‥はあ、本当に。最悪だわ、これ‥‥‥」
不意に思いだした過去の記憶。
懐かしい思い出の男子もまた、同一人物。
そして、いまはあまりにも野蛮ながらあのとき、息ができないように全身を沈めてやるべきだったという後悔が一つ。
いけませんね、淑女の思想からはあまりにもかけ離れています。
でも、女性なら一度はこの思いを感じたことがあるのではないでしょうか?
そう――例えば、恋人はあなたに対して君が本当の愛の対象だよ、なんて。
そんな甘い言葉を口にしていながら、どこかの街角で偶然にも彼と、彼のいう遊び相手の女性が仲良く歩いている様を目撃した時のような。
そんな感覚です。
文面の下部に記されていた一文。
彼の生真面目だと思っていたあの性格の割に、大胆な行動にでるときのような、狩りをしようとしてそれでいて臆病な猫のような丁寧で、かくかくしていて、読みやすい。だけど、一度見れば覚えてしまう特徴的な字体。
せめて愛を語るくらいは書けばまだ許せる気も起きたかもしれません。
でも、そこには私に対する配慮はありませんでした。
「何よこれ。
‥‥‥この譲渡契約書には付帯するべき、次の条項を定める。
アランドル男爵家第二令嬢アミュエラとバール伯爵第三令息カールはともにこの者、奴隷の所有権を有するとともに、カールは先だってステイシアを第二夫人としてこのグラベルの地にて迎えることとする?」
グラベルは彼の属している陸軍南方方面司令部が定めたの配属先の都市です。
奴隷の売買において同一都市、もしくは、同じ地方で管理する監督官庁の違う場に個人が移送、それを購入する際には相応しい身分を与える事。
あれから両親たちが戻る夜半前にすこしでも現状を理解しようとして、いま私は王都の貴族院が設けている役務課というところでこの文面の詳細を調べて貰っているのです。
カールが結婚前に誰を妻に迎えてどのような愛を語ろうとも、その現在と未来に私が関わらなければどうでもいいことでした。
しかし、確かにあるアミュエラ、の名前。
そして彼が選んだあのステイシアに、彼が贈与するとして挙げている目録のいくつかには――
「私と結婚後に、お父様があの人に贈る予定だった土地まで含まれているじゃない!?」
そう。
エバンス様が、陸軍の捜査官が我が家を訪れた理由はこのあたりにもあるのでしょう。
もちろん、私にはステイシアに譲渡するべき気持ちなんてさらさらありません。
「アランドル男爵様??
男爵令嬢アミュエラ様――」
「あっ、はい――」
役人が私の名前を呼んだ時。
もし、あの川が嵐のあとに氾濫して、あの日はさんざん雨が降ったあとだったとしたら。
どうして、私はそんな中に彼を叩き落としてやらなかったのか。
そう怒りに両手を握りしめずにはいられなかったのでした。
そうそう深くもなく、幅もないその川は農地の灌漑用に掘られた人の手によるもので、近所の平民の子供たちといつも遊んでいたものでした。
いつもは数人いた侍女のだれかがともに着いてくるのに、その日に限ってはたまたま、手の空いていたものが誰もおらず、まだ幼い私は一足先にその川にかかっている橋のたもと、川べりに座って水面を手で叩いたり、足でゆすったりとしていた頃。
彼はしずかに後ろから忍び寄り――そっと背を押された私は見事に水面に前のめりに突っ込んだのでした。
深くもない水のなかで、いきなりやってきた驚きの瞬間。
夏場でも昼前の川の水はまだ冷たくて、間抜けにも上半身だけその中に沈めてしまったそのとき。
世界の違い、ひかりの泡と空気の輪が列をなして漂いゆくその様を目の当たりにして、息ができなくて苦しいはずなのにその瞬間だけは息をすることを忘れていた。
未知のなにかへの扉が開かれた気がしました。
それと同じような感覚をいま、私は手にしている書類を見て感じていました。
錯覚のはずなのに、そうでない感覚。
あの男の子に対する怒りと驚きと裏切られた。
そんな複雑めいたものが胸の奥で渦巻いていた、助け出された?
いいえ、自分で慌てて顔を上げ、男勝りだった私は彼をひっぱって川の中に突き落として、ちょうどそれを見かけた侍女にとても怒られたのを覚えています。
「‥‥‥はあ、本当に。最悪だわ、これ‥‥‥」
不意に思いだした過去の記憶。
懐かしい思い出の男子もまた、同一人物。
そして、いまはあまりにも野蛮ながらあのとき、息ができないように全身を沈めてやるべきだったという後悔が一つ。
いけませんね、淑女の思想からはあまりにもかけ離れています。
でも、女性なら一度はこの思いを感じたことがあるのではないでしょうか?
そう――例えば、恋人はあなたに対して君が本当の愛の対象だよ、なんて。
そんな甘い言葉を口にしていながら、どこかの街角で偶然にも彼と、彼のいう遊び相手の女性が仲良く歩いている様を目撃した時のような。
そんな感覚です。
文面の下部に記されていた一文。
彼の生真面目だと思っていたあの性格の割に、大胆な行動にでるときのような、狩りをしようとしてそれでいて臆病な猫のような丁寧で、かくかくしていて、読みやすい。だけど、一度見れば覚えてしまう特徴的な字体。
せめて愛を語るくらいは書けばまだ許せる気も起きたかもしれません。
でも、そこには私に対する配慮はありませんでした。
「何よこれ。
‥‥‥この譲渡契約書には付帯するべき、次の条項を定める。
アランドル男爵家第二令嬢アミュエラとバール伯爵第三令息カールはともにこの者、奴隷の所有権を有するとともに、カールは先だってステイシアを第二夫人としてこのグラベルの地にて迎えることとする?」
グラベルは彼の属している陸軍南方方面司令部が定めたの配属先の都市です。
奴隷の売買において同一都市、もしくは、同じ地方で管理する監督官庁の違う場に個人が移送、それを購入する際には相応しい身分を与える事。
あれから両親たちが戻る夜半前にすこしでも現状を理解しようとして、いま私は王都の貴族院が設けている役務課というところでこの文面の詳細を調べて貰っているのです。
カールが結婚前に誰を妻に迎えてどのような愛を語ろうとも、その現在と未来に私が関わらなければどうでもいいことでした。
しかし、確かにあるアミュエラ、の名前。
そして彼が選んだあのステイシアに、彼が贈与するとして挙げている目録のいくつかには――
「私と結婚後に、お父様があの人に贈る予定だった土地まで含まれているじゃない!?」
そう。
エバンス様が、陸軍の捜査官が我が家を訪れた理由はこのあたりにもあるのでしょう。
もちろん、私にはステイシアに譲渡するべき気持ちなんてさらさらありません。
「アランドル男爵様??
男爵令嬢アミュエラ様――」
「あっ、はい――」
役人が私の名前を呼んだ時。
もし、あの川が嵐のあとに氾濫して、あの日はさんざん雨が降ったあとだったとしたら。
どうして、私はそんな中に彼を叩き落としてやらなかったのか。
そう怒りに両手を握りしめずにはいられなかったのでした。
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