この約束を捧げるのはあなただけ。

星ふくろう

文字の大きさ
5 / 15

憐憫と契約 1

しおりを挟む
 そのとき、私は、子供の頃に近所の川で水遊びをしたときのことを思い出していました。
 そうそう深くもなく、幅もないその川は農地の灌漑用に掘られた人の手によるもので、近所の平民の子供たちといつも遊んでいたものでした。
 いつもは数人いた侍女のだれかがともに着いてくるのに、その日に限ってはたまたま、手の空いていたものが誰もおらず、まだ幼い私は一足先にその川にかかっている橋のたもと、川べりに座って水面を手で叩いたり、足でゆすったりとしていた頃。
 彼はしずかに後ろから忍び寄り――そっと背を押された私は見事に水面に前のめりに突っ込んだのでした。
 深くもない水のなかで、いきなりやってきた驚きの瞬間。
 夏場でも昼前の川の水はまだ冷たくて、間抜けにも上半身だけその中に沈めてしまったそのとき。

 世界の違い、ひかりの泡と空気の輪が列をなして漂いゆくその様を目の当たりにして、息ができなくて苦しいはずなのにその瞬間だけは息をすることを忘れていた。
 未知のなにかへの扉が開かれた気がしました。
 それと同じような感覚をいま、私は手にしている書類を見て感じていました。
 錯覚のはずなのに、そうでない感覚。 
 あの男の子に対する怒りと驚きと裏切られた。
 そんな複雑めいたものが胸の奥で渦巻いていた、助け出された?
 いいえ、自分で慌てて顔を上げ、男勝りだった私は彼をひっぱって川の中に突き落として、ちょうどそれを見かけた侍女にとても怒られたのを覚えています。
 
「‥‥‥はあ、本当に。最悪だわ、これ‥‥‥」

 不意に思いだした過去の記憶。
 懐かしい思い出の男子もまた、同一人物。
 そして、いまはあまりにも野蛮ながらあのとき、息ができないように全身を沈めてやるべきだったという後悔が一つ。
 いけませんね、淑女の思想からはあまりにもかけ離れています。
 でも、女性なら一度はこの思いを感じたことがあるのではないでしょうか?
 そう――例えば、恋人はあなたに対して君が本当の愛の対象だよ、なんて。
 そんな甘い言葉を口にしていながら、どこかの街角で偶然にも彼と、彼のいう遊び相手の女性が仲良く歩いている様を目撃した時のような。
 そんな感覚です。

 文面の下部に記されていた一文。
 彼の生真面目だと思っていたあの性格の割に、大胆な行動にでるときのような、狩りをしようとしてそれでいて臆病な猫のような丁寧で、かくかくしていて、読みやすい。だけど、一度見れば覚えてしまう特徴的な字体。
 せめて愛を語るくらいは書けばまだ許せる気も起きたかもしれません。
 でも、そこには私に対する配慮はありませんでした。

「何よこれ。
 ‥‥‥この譲渡契約書には付帯するべき、次の条項を定める。
 アランドル男爵家第二令嬢アミュエラとバール伯爵第三令息カールはともにこの者、奴隷の所有権を有するとともに、カールは先だってステイシアを第二夫人としてこのグラベルの地にて迎えることとする?」

 グラベルは彼の属している陸軍南方方面司令部が定めたの配属先の都市です。
 奴隷の売買において同一都市、もしくは、同じ地方で管理する監督官庁の違う場に個人が移送、それを購入する際には相応しい身分を与える事。
 あれから両親たちが戻る夜半前にすこしでも現状を理解しようとして、いま私は王都の貴族院が設けている役務課というところでこの文面の詳細を調べて貰っているのです。
 カールが結婚前に誰を妻に迎えてどのような愛を語ろうとも、その現在と未来に私が関わらなければどうでもいいことでした。
 しかし、確かにあるアミュエラ、の名前。
 そして彼が選んだあのステイシアに、彼が贈与するとして挙げている目録のいくつかには――

「私と結婚後に、お父様があの人に贈る予定だった土地まで含まれているじゃない!?」

 そう。
 エバンス様が、陸軍の捜査官が我が家を訪れた理由はこのあたりにもあるのでしょう。
 もちろん、私にはステイシアに譲渡するべき気持ちなんてさらさらありません。

「アランドル男爵様??
 男爵令嬢アミュエラ様――」
「あっ、はい――」

 役人が私の名前を呼んだ時。
 もし、あの川が嵐のあとに氾濫して、あの日はさんざん雨が降ったあとだったとしたら。
 どうして、私はそんな中に彼を叩き落としてやらなかったのか。
 そう怒りに両手を握りしめずにはいられなかったのでした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中

桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。 やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。 「助けなんていらないわよ?」 は? しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。 「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。 彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!? 「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」 不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

紅玉楽師は後宮の音を聞く 〜生き残りたい私の脱走計画〜

高里まつり
キャラ文芸
【耳のいい隠れ長公主】✕【したたかな美貌の文官】コンビが挑む後宮の陰謀! 片目が紅い娘・曄琳(イェリン)は訳あって後宮から逃走した妃の娘ーー先帝の血を引く、隠れ長公主。 貧民街で隠れて生活していたのに、ひょんなことから宮廷に舞い戻ってしまった曄琳は、生まれを秘匿し、楽師としてあらゆる音を聞き分けるという特技を活かしながら、宮廷からの脱走を目論んでいた。 しかしある日、後宮で起きた幽鬼騒動の解決に駆り出された先で、運命を狂わされてしまう。 利用できるものは利用します精神の美形の文官・暁明(シャオメイ)と、出生の秘密をなんとか隠して外に出たい曄琳。 二人が後宮での事件を追う中で、母や貴妃の死、過去の出来事が少しずつ絡んで、宮廷の陰謀に巻き込まれていく。契約じみた曄琳と暁明の関係も少しずつ、少しずつ、形を変えていきーー? 曄琳の運命やいかに!

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

書籍化の打診が来ています -出版までの遠い道のり-

ダイスケ
エッセイ・ノンフィクション
ある日、私は「書籍化の打診」というメールを運営から受け取りました。 しかしそれは、書籍化へと続く遠い道のりの一歩目に過ぎなかったのです・・・。 ※注:だいたいフィクションです、お察しください。 このエッセイは、拙作「異世界コンサル株式会社(7月12日に電子書籍も同時発売)」の書籍化の際に私が聞いた、経験した、知ったことの諸々を整理するために書き始めたものです。 最初は活動報告に書いていたのですが「エッセイに投稿したほうが良い」とのご意見をいただいて投稿することにしました。 上記のような経緯ですので文章は短いかもしれませんが、頻度高く更新していきますのでよろしくおねがいします。

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

処理中です...