237色の旋律

星ふくろう

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237色の旋律

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「ねえ、お父さん、なんであっちには行っちゃ行けないの?」
 幼いマイクは父親のフレッドと繋いでいる手を何度か引いて質問する。
 彼がもう片方の手で指差した方向には大きな通りがあり、その先は異質な世界だった。
 どう異質かというと、二人がいる大通りのこちら側は新しい家々が立ち並び、きちんと舗装された歩道が街の隅々まで管理され、1ブロックごとの区切りになる交差点には規則正しい距離で警官が24時間立ち並んで平和への監視を行っているからだ。
 対してあちら側は家々が外見が大きくて立派だが数十年の老朽化によっていまにも崩れそうで、少し触れただけでもろくボロボロと形を失いそうだった。歩道はデコボコで歩きにくそうだし、各ブロックごとの角には警官ではなくいかつい強面のバイカーが集まって煙草を吸い散らかしたり、昼間から酒瓶を煽って街路樹にもたれ掛かり、昼間の陽気に身を任せて昼寝に興じる浮浪者たちがいた。子供心にもそれは安全、という言葉からはかけ離れた存在、そう感じさせる別の部類の大人がたくさんいた。
「いいかい、マイク。
 あそこは危ないんだ。
 どう危ないかは問題じゃない。マイクがハイスクールに通う頃になったら行ってもいい。でもいまは駄目だ」
 フレッドの物言いには何か肝心なことをぼかそうとしているようにマイクには感じ取れた。
「どう危ないかは問題じゃないの?」
 フレッドは少し困った顔をする。
 息子にはきちんとした説明をするべきなのか。
 しかし、彼はまだ幼くて7歳にもならない子供だ。
 だが、何が危険であるかは伝えておきたかった。
「そうだなあ」
 フレッドはユダヤ人特有の立派にたくわえた顎引けを撫でながら、息子の前にしゃがみこんだ。
 この父親は幼い息子であってもきちんと目線を合わせて話をしようとする。
 押し付けることを良しとしない彼の信条の現れでもあった。
「いいかい、マイク。
 人間は良い人もいれば悪い人もいる」
「はい、父さん」
 うん、とフレッドはうなづき言葉を続けた。
「マイクが毎日食べているご飯、そうお肉や野菜、お菓子やジュースはどこで買うかな?」
 マイクは少し考えて答えた。
「それはモール(ショッピングモール)だったり、アッシュおじさんのお店とか……」
 マイクは近所に最近できた大型のショッピングセンターと自宅の近所で古くから店を営んでいる雑貨商の名前を口にした。
「そうだね。
 じゃあ、そこで物を買うためには何が必要だい?」
「え?
 それはお金でしょ?
 僕ももってるよ、ほら」
 というとマイクは1ペンス硬貨をポケットから取り出し、自慢気にフレッドにみせた。
 彼の大事な宝物の一つだからだ。
「いい返事だ。
 じゃあね、マイク。お金はどうやったら手に入ると思うかな?」
 これはマイクには難しい質問だった。
 まだ彼は働いたことがないのだから。でも、家の手伝いをして小遣いを母親から貰うことはあったから、それをフレッドに告げた。
「そう、マイク。
 それだよ」
「それ?」
 マイクは首を傾げる。
「人はね、ある程度のお金があれば生活ができるんだ。
 毎日の食事や衣服も帰るし、住むところにも困らない」
 でも、とフレッドは続ける
「それが出来ない人たちもいるんだ」
 例えばあそこにいる彼らのようにね、とフレッドは指差したりはしないが通りの向こう側でたむろしているバイカーや浮浪者たちをそっと見た。
 マイクは父親の肩越しにおそるおそる同じものを見る。
「じゃあお父さん、あの人たちはどうやって生活しているの?
 自分のお金で好きなものを買えないんでしょ?」
 フレッドは少し考えて言った。
「マイク、去年の感謝祭(クリスマス)の時に従兄弟のオスカーがきて一緒に祝ったのを覚えているかい?」
 去年の感謝祭?
 マイクの記憶では、オスカーは今年、ミドルスクールの3年になれたと自慢していて年上で、いつもマイクの大事なおもちゃを横取りしては数時間帰してくれない嫌なヤツだった。
「うん……。オスカーは僕のおもちゃをいつも取り上げるんだ。
 飽きるまで返してくれない。嫌いだ」
 よしよし、とフレッドはマイクの頭を撫でてやる。
「でもね、マイク。
 オスカーは自分で持ってないから、マイクが持ってるのを羨ましがって遊びたいだけかもしれないよ? ケイトとリチャード(オスカーの両親)はとても厳しいからね」
 うーん、とマイクは考える。
「だったらー」
 何だい? とフレッドは優しく聞き返した。
「オスカーは僕に貸してって言えばいいのに。
 自分の家にはないから遊びたいんだって」
 フレッドは喜んで微笑んだ。
「そうだね、マイク。
 それが普通なんだ。
 でもね、オスカーはそれが出来ない。
 なぜかわかるかい?」
 マイクは困った顔をした。
 それは多分、オスカーが年下のマイクを子分のように扱って、頼み事をするなんて自分のプライドが許さない。
 そんなふうに考えているからだとフレッドにそっと耳打ちした。そっとだ。
「いい子だね、マイク。
 それはね、大人も同じなんだ。
 でも、オスカーのしていることは大人の世界ではとてもいけないことなんだよ。ほら」
 とフレッドは立ち上がり、交差点に立ち並ぶ警官たちを指差した。
「それをするとあそこにいるお巡りさんたちに捕まって、怒られてしまうからね」
 じゃあ、お父さん。
 とマイクは父親を見上げて言った。
「あそこにいる人たちは悪い人たちなの?」
 フレッドは大きく、ゆっくりと首を振る。
「違うよ、マイク。
 そんな人たちももちろんたくさんいる。
 でももっと多くのいい人があそこにはたくさんいるんだ」
「じゃあなんであそこには行ったらいけないの?
 いい人がたくさんいるんでしょ?」
 フレッドは静かに悲しそうな顔をして言った。
「マイク、最初に話したことを覚えているかい?
 お金の話だ」
「うん、覚えてるよ」
 でも、話が難しいよ、とマイクは言った。
 フレッドの話は教会の牧師様が話す神様の話のようで、幼いマイクにはよくわからない。
「簡単だよ、マイク。
 人は働かないとお金がもらえない。
 お金がないと好きなものが買えないし、生活ができない。
 生活ができないと、人はオスカーのようになってしまうんだ。
 どんなにいい人でもね」
 ああ、そういうことか。
 マイクは納得した。
「じゃあ、あそこにいる人たちはいい人がたくさんいるけど、みんな働けないんだね……。それで、欲しい物があるけど買えないから悪いことをしちゃうんだー」
 フレッドは息子が理解してくれたことに満足した様子だった。
「でもお父さん」
 マイクは一つの疑問を口にした。
「働くことがもしできたとしても、悪いことをするほうがたくさんお金を貰えるならー」
 ああ、息子は気づいてしまった。
 人の悪の側面に。
 フレッドはこれはいいことか悪いことか。
 少し戸惑ったが真実を告げることにした。
「その時は、人は悪いことをするだろうね」
「じゃあ、その人たちは神様を信じないの?
 神様はみんなに平等に愛をくれるって牧師様は言ってたよ」
 いいや、とフレッドは首を振る。
「神様はいつもそばにいてわたしたちを見ているよ。
 わたしたちが、自分にたいして正しい行いをしているかを見ていらっしゃるんだ」
「じゃあー……」
 マイクは考えた。
 そして思ったことを父親に話す。
「悪いことをしてお金をたくさんもらう人たちも、本当は正しいことをしてお金を貰いたいんじゃないかな?」
「そうだね、マイク。
 みんな、そう思ってる。
 でも、できないこともあるんだ。
 人は弱いからね。だから神様に祈るんだよ。
 どうか正しい道をお示し下さい、とね」
 でも、とマイクは思う。
 示された道を歩いた先が悪いことをしてお金を貰うのならば、神様は本当に正しいの? と。
 だが、それは言えば父親を怒らせそうだから黙っていた。
「ねえ、父さん。
 結局、なんであそこに行ったらだめなの?」
 フレッドは言葉に詰まる。
 人種差別は偏見などいまの息子には早すぎる話だと思うからだ。
「そうだね……、その悪いことをしてお金を貰ったり、働きたくても働けない人があそこにはたくさんいるから。
 いい人も悪い人になることがたくさんあるところだから、かな」
 マイクにはその答えがどうしても納得ができない。
 父親は何かを隠している。
 でも、それはいま聞いても教えてくれないだろう。
 そう思ったから黙っていることにした。
「はい、父さん。わかったよ」
 いまはそれがマイクが出来る、最大限の返事だった。

 それから数年して、マイクはミドルスクールに通うようになった。
 ユダヤ人専門の学校で泣く、父親のフレッドは白人や黒人も通う公立の学校に行かせることにした。
 幼い頃にマイクが口にしたあの話の答えを、息子が自分で見つけだせる可能性があると思ったからだ。
 友人もたくさんできたが、残念ながら背が低く若干肥り気味のマイクには恋人がいなかった。
 13
歳のある春の日、マイクはたまたま部屋にあったラジオのスイッチを入れた。テストを翌週に控えて勉強していた夜だった。
 気分転換に流行りの音楽を聴こうと思ったのだ。
 しかし放送局を合わせ間違えたのか、そこから流れてきたのは一本のエレキギターから流れ出る、心地よくも大人の色気が漂っていて、その一音一音が恋人がおらずクラスメイトにデブだのチビだのとバカにされた自分の心の奥底にあった何か。
 幼い頃に父親と話した大通りの向こうに見えた人たちに共通していたがよくわからなかった何かに通じるような。
 クラッシックやジャズとはまた違う、魂を揺さぶる何かがそこにはあった。
 続いてバックバンドの演奏と、黒人特有の南部の訛りが混じった歌詞を歌い上げる渋い男性ボーカルの声が響いてくる。
 単純な恋愛をした男女が、女性の浮気で別れてしまい、男性がそれを悲しみながらそれでも俺はお前を愛しているよ、そういう内容の歌詞なのにそこには哀愁と間違いのない愛情を傾けた思いが詰まっていた。
 もちろんマイクは恋愛の経験がないから、恋愛における挫折も恋人から向けられた熱い情熱的な視線も知らないし、それを想像するにしても物足りない物があった。
 それでも、そのたった一曲がマイクの心の奥底に眠っていた何かに火を灯した。それは生涯で忘れ得ぬ体験だった。

 それから数週間の間、マイクは学校が終わるたびに帰宅して、そのラジオから流れてくる曲の数々の虜になった。寝る時間も忘れて聴きいっている息子を母親は心配したが、フレッドはまあ、任せてみようと言った。
 学校の成績が落ちたら、ラジオを取り上げればいいじゃないかと。
 夏が来る頃、マイクはその音楽がブルースという名前であることを知った。
 ラジオはこの地域だけでなく世間の多くの地域に流されていることも知っていたが、彼を魅了したのはボーカルでも、歌詞でもなく、そこから流れてくるギターの音色だった。
「父さん、僕、エレキギターが欲しいんだ」
 あの音を鳴らしたい。
 自分の指で、魔法のように魂を揺さぶる旋律を天まで響かせたい、と。
 フレッドは困った顔をした
 息子は成績は悪くなかった。
 真面目だし、学校の先生からの評判も悪くない。
 でも、マイクの家は彼にエレキギターを買い与えるほどには余裕がなかった。
「そうだね、マイク……。
 父さんは反対はしない。
 でも、あの時の話を覚えているかい?」
 あの時?
 幼い頃の話だろうか?
「お金は働かないと貰えないんだ。
 でも父さんたちにはお前にギターを買ってやれる余裕はないんだ。
 意味は分かるね?」
 つまり、アルバイトをしてお金を貯めなさい。
 それが出来なければ、ギターは本当に欲しい物ではないものだろうからね。
 フレッドはマイクにそう告げた。
「わかったよ、父さん。
 僕、自分の力でギターを買う」
 翌週、マイクは新聞記事の隅にある広告の中から新聞配達のアルバイトと、年齢ギリギリだったが近場の雑誌社の中で、一度集められた配送物を社内の担当者まで配達する仕事を見つけて両方に応募した。
 丁度長い夏休みが始まる前だったから、どちらの仕事にも受かることができてマイクは持ち前の真面目さと勤勉さで効率よく、素早く仕事を終える方法を実行できた。
 それは上司の目に留まり、マイクはほかにどんな仕事をしているのかと、雑誌社の配送部のチーフから質問された。
 新聞配達と雑誌社の両方で働いている。夏休みが終わればミドルスクールに戻る、そうマイクは告げた。
「そうか、なら来週からうちだけにしろ。
 時給は多めに払ってやる。ミドルスクールが終わればうちでアルバイトをしろ。16時から20時まで働いていい」
 それは破格の条件だった。
 帰宅してフレッドにそのことを話すと、父親は勉強が疎かにならないのならば続けていい、そうマイクに許可を与えた。
 最初の一月が終わり、アルバイト代が出るとマイクは楽器店に向かった。
 目的のギターを買うためだ。
 だが、マイクの住んでいる地域の楽器屋には彼の給料の何倍もするギターしか並んでいなかった。
「ねえ、おじさん。
 古いのでもいいんだ。僕はエレキギターが欲しいんだよ。
 ブルースを勉強したいんだ」
 まだ12、3、4歳の少年に泣きつかれ困った店主が大通り向こうの黒人たちがたくさんいる楽器店ならあるかもしれないとマイクに教えた。
 でも、一人でいくんじゃないぞ。
 あそこは危険だからな。
 そう付け加えるのを忘れなかった。
「ありがとう、おじさん」
 そう言ってマイクは店を後にしたが、内心とても困っていた。
 あの地域にいくには一人では心細いし、何よりフレッドに頼んでもダメだと言われるだろう。もっと働いてお金を貯めなさいと。
「困ったな。
 行けばあるかもしれないのに、手に入らないなんて……」
 数日後、雑誌社の休憩室でマイクはハンドラジオを手にブルースを流して聴きいっていた。すると同じアルバイトでハイスクールに通う黒人のマッジが珍しく声をかけてきた。
「よお、マイク。
 お前、白人のくせにブルースを聴くのか?」
 マッジはマイクの席の前に乱暴にこしかけてそう言った。
「白人じゃないよ、ユダヤ人だ。
 うん……、僕はこの曲たちが大好きなんだ。
 ロックとかジャズもいいけど。
 このギターの音が大好きなんだ」
「へえ……。お前、ギター弾けるのか?」
 マッジは意外そうな顔をした。
 黒人意外にブルースを好きなやつなんて初めて見た。
 そういう顔だった。
「ううん」
 とマイクは首を振った。
「お金が足りなくてギターが買えないんだ。でも、買える場所は知ってる。
 だけど、そこに行くのは恐いんだ」
「それってー」
 マッジはマイクが考えている店の名前を口にした。
「うん、そうだよ」
 マイクの返事に、マッジは質問する。
「なあ、マイク。
 お前、俺が恐いか?」
「え?」
「いいから答えろよ。
 俺は黒人であの地域に住んでるんだ。 
 お前はそれを聞いても俺が恐いかと聞いてるんだ」
 マッジはいささか不機嫌そうだが、何か大事なことを聞いているような気がしてマイクは素直に返事をすることにした。
「恐くないよ。
 恐いのは正しくないとわかっていても、お金のためにそれをやめれない人だけだよ。僕はそう思う」
 マッジは続けて質問した。
「なら、俺はどっちだ?」
 どっち?
 どういう意味だろう。
 いまの会話の流れから返事するとしたらー。
「君はいいやつだよ」
 マッジは嬉しそうにニヤリと笑った。
「今度の土曜日、空いてるか?
 うちに来ないか? あの地域だけどよ」
 どうしよう?
 でもマッジはいい奴だ。
 申し出を受けることにした。
「OK。
 うちは122ブロックの緑のビルの2階だ。205号室。
 ヤバイやつに絡まれたら、グリーンヒルのマッジの友達だって言え。
 そしたら大丈夫だ」
 グリーンヒル?
 その意味がよくわからなかったが、とりあえずわかったと告げた。
 ちょうど休憩時間が終わり、その日はマッジに会うことはなくマイクは帰宅した。その週の金曜日は月末で、アルバイト代が手に入った。
 土曜日になってマイクはフレッドに、あの地域に行くことを告げるべきかどうか迷ったが、嘘はつきたくなかったから正直にしゃべることにした。
 フレッドは最初は駄目だと突き返そうかと思った。
 だが、雑誌社の配送部で一緒に働いている友人だと聞くと考えを少しばかり改めることにした。マイクのアルバイト先はどこの誰ともわからない人間を雇うような、適当な人選をする会社ではないと知っていたからだ。
「もし何かあれば、すぐに警官に助けを求めるんだ、いいね?」
 まだ14歳にしかならない息子を送り出していいものか、一抹の不安はあったがそう教えて送り出すことにした。
 マイクが大通りを越えて行くことを心配そうに見つめる警官の視線を背に浴びながら、彼はマッジが教えてくれた122ブロックまで足を運んだ。
 道の両脇にはガラの悪そうな黒人たちの集まるパブやバーが軒を連ねていて、一見すると飲み屋街のようにも見えた。どこからか懐かしいブルースを奏でるギターの音色が響いてきた。
 緑のビルは一件しかなく、入ろうとすると入り口の階段にたむろしていたニ、三人の黒人の若者に待てよ、と行く手を遮られた。
 マッジの友達です……、小さな声でマイクがそう告げると彼らは意外そうな顔をして笑い出した。
 マッジの友達?
 白人のお前が?
 俺たちが黒人なんだぜ?
 あいつが友達になるわけないだろ?
 そうあざけりを受けたが、同じアルバイト先の仲間です、とそう言うと待ってろと言われた。
 一人がビルの奥に引っ込んでいき、マッジを連れてきた。
「こいつ、お前の友達って本当か?」
 リーダー格の少年がマッジに問いかける。
「そうだよ、兄貴。
 今日、友達がくるって言ったろ?
 こいつ、ブルースが好きなんだよ。ギター買いたいっていうからさ……」
 ブルース好きの白人?
 それを聞いてその場にいた二人が笑い出したが、マッジの兄という少年に睨まれて黙った。
「ブルース、好きなのか?
 何が好きなんだ?」
 意外にも真面目な顔をして聞いてくるから、マイクはラジオで繰り返し何度も聞いた曲名をいくつか挙げた。
 この曲はこれが切ない、この曲はここが男の情けなさを歌っていてギターがそれを更に心に響かせる、この曲のこのフレーズはどうしても弾けるようになりたい。そうマイクは大まじめに彼に伝えた。
「待ってろ」
 マッジの兄は弟と仲間をそこに残すと、一旦、ビルの中へと消えた。
 出てきた時、ボロボロのアンプと数本の新品の弦の詰まった袋と、読み古して破れそうな譜面が綴じられた本と、そして一本のギターケースが手にあった。
「やるよ」
 短く言うと、彼がそれらをマイクに押し付けた。
「そんなに好きなら、弾いてみろ。
 最初は指先が割れるからマニキュアを塗るんだ。そしたら少しはましになる。調律は耳で覚えろ。分からなけりゃあの人に聞きにこい」
 指差した先には、一人の30代前半の黒人がギター片手に思いつくままブルースを弾いていた。先ほどのギターの音色は彼のものだった。
「でも、これ……」
「タダじゃない。
 でも弟のダチだ。いまいくらある?」
 マイクは給料のほどんどを素直に出した。
「多すぎだ。
 これでいい」
 彼はそこから一ドル札を数枚抜くと、あとはギターの部品とかの足しにしろ、そう言ってビルに消えて行った。
「あの……」
 マイクはどうすればいいかわからなかった。
 マッジを見ると彼はニヤリと笑って言った。
「な?
 来てよかったろ?」
 と。

 それからしばらくの間、マイクは成績を落としたらギターを取り上げるぞという父親の言いつけを守りながら、雑誌社の配送部のアルバイトに精を出し、暇な時にはマッジの部屋を訪れ(マッジはベースに夢中だった)、時にはあの階段の黒人のブルースマンの横で彼にギターを習って過ごした。
 そんなある日のことだ。
 ラジオを聴いていると、有名なブルースマンたちが演奏するバーの場所をDJが話す会話が流れてきた。
 そのバーの場所を耳にして、マイクは思わず飛び上がりそうになった。
 自分の住んでいる街の、マッジたちが住むビルの、ほんの数ブロック先にそれがあるというからだ。
 マイクは15歳を迎えようとしていて、もう子供ではなくなっていた。
 DJの話では彼がこの数年間、ラジオを通して耳にしてきた伝説にも近いブルースマンたちは毎日そのバーで演奏しているのだという。
 その頃になるとマイクは耳にしただけで譜面も必要とせずに、自分の心の衝動のままに、ブルースを奏でれるようになっていた。
 行きたい。
 会いたい。
 この心の中から、全身からあふれ出る旋律を彼らに。
 自分に教えてくれた憧れのスターたちとともにギターで語り合いたい。
 迷いはどこにもなかった。
 マイクは机の上に置いてある時計に目をやった。
 時間は夜の21時過ぎ。
 父親のフレッドは外出すると文句を言うだろうか?
 それでも関係なかった。
 今しかない。
 今、会いたいのだ。この全身を突き動かす衝動を抑えることはできなかった。
 少年はギターケースにエレキギターを詰め込み、家を駆けだしていた。
 どこをどう走ったかなんて覚えていなかった。
 息を切らしながら目的地についた時、彼の全身は汗だくだった。
「ぼうず、ここは大人しか入れないんだ。
 ギターケースなんて持ち込めない。
 白人は帰って寝るんだな」
 バーの入り口で用心棒のような大柄な黒人が、多少のあざけりを交えて言った。
 それでもマイクはひるまなかった。
「僕はブルースを弾きに来たんだ。
 そこをどいてよ」
 おやおや、そんな顔を用心棒はする。
 こんな年端もいかない小僧が中で十何年もかけてショーを行えるようになった本物のブルースマンたちの真似事をしてみせるって?
「あのなあー」
 そう再度の制止をしかけた時、横合いから声がかかった。
「いいじゃないか」
「え、でも……」
 マイクが見るとテラス先のテーブルにあの、階段のブルースマンが座って一杯やっていた。
「ここはブルースを聴いて弾く場所だ。
 坊主、弾けるんだろ?」
 サングラスをかけた彼は、嘲笑ではなく丁寧な口調でマイクに問いかける。
 マイクは大きくうなづいてギターケースを持ちあげてみせた。
「入れてやりな。
 弾けなくても、恥をかくのはその子だ」
「え、ええ……」
 用心棒は幾分不満げに、その巨体を譲った。
 マイクはバーの入り口をそっと、中で開かれているはずの演奏を邪魔しないように開ける。
 入ってみると、ショーというよりは数人のギターを抱えた黒人の中年の男性たちがバーで一杯やりながら静かにその演奏に耳を傾ける飲み客相手に演奏している風景が目に入ってきた。
 最初にマイクに気が付いたのは、バーテンだった。
 しかし、ギターケースを抱えた白人の背の低い少年がこの場にいるという、あまりにも不似合いな光景につい言葉をかけるのを忘れた。
 次に気が付いたのは4人いたギタリストの一人、背の高い黒人の男性だった。
 彼がギターを鳴らしながらふと、手元から視線を上げるとそこには明らかにアルコール目当ての客ではない人物がいた。
 彼は手を止めて少年に問いかける。
「坊主、何かようかい?
 すまないが、ショーの途中なんだ。サインならあとからでいいかな?」
 彼は珍しいがブルース好きな少年が、ギターケースにサインをもらいに来たファンの一人だろ勘違いした。
 他の三人も手を止めて、最初の男性が言ったことと同じことを優しく少年に言った。
 だが、少年から返ってきた返事は予想外のものだった。
「サインは欲しいけど、僕はそれ以外のことをしたいんだ」
 最初の男性は首を傾げた。
 この少年は何をしたいのだろう? 予測がつかなかった。
 そうこうしてるうちに、少年はギターケースからエレキギターを取り出して店のアンプにケーブルを繋ごうとしていた。
 左端に座っていた恰幅のいい男性が、おいおい、と笑い声をあげた。
「君、まさかここで弾こうってのか?
 おれたちと一緒に?」
 観客とバーテンと、4人のブルースマンのうちの三人が仕方ないなあという笑い声を上げた。
 でも、一人だけが違う言葉を放った。
「坊主、名前は?」
「マイク、マイクだよ」
 マイクはアンプから流れ出る音に合わせてギターのチューニングをしようとしていた。
「そうか、俺はビリーってんだ。
 お前、弾けるのか?」
 俺たちとブルースをやりたいのか?
 そういう問いかけだった。
 マイクは調律をその会話の中で終わらせていて、ビリーを見つめてから、尊敬と畏敬と挑戦の混じった眼差しでバーを見渡すと、最初の音を鳴らした。
 それは自分が聞いてきたこの二年間の間に偉大なるブルースマンたちから与えられた音楽の礎であり、彼らへの憧れから必死にマイクの奥底から這い上がってきた魂の旋律であり、そして一人の少年の人生全てを代弁した魂の旋律だった。
 あとは言葉など要らなかった。
 ビリーは即座にギターを握ると、このあまりにも若くて小さな巨人に同じく魂の旋律で返事をかえした。それは他の三人も同じで最初はあっけに取られていたがやるじゃないか、そういう顔つきになりブルースにはブルースで演奏による会話が始まった。
 この奇跡の夜はマイクがギターを手に入れてから丁度237日目。
 237色の旋律を奏でて完成した、時代が動いた夜である。
 この夜、マイクは夜明け近くまでギターをかき鳴らし、その場にいたブルースマンたちを呆れさせるほどに音楽に熱中したという。
 この小さなブルースマンの名は、マイク・ブルームフィールド。
 20数年後にボブ・ディランと共に共演してギターの天才と言わしめたブルースマンであり、古き時代の黒人たちのアメリカにおける歴史を代わりに若い黒人たちの世代に伝えた歴史の代弁者であり、サンタナやその他の世界的なギタリストたちが集まってヘロイン中毒をやめてくれ、あんたは音楽業界の宝だと更生を促した人物であり、わずか半世紀足らずの人生を路上に止めた車の座席で薬物中毒により死亡した、本物のロックにおけるギターヒーローだった男である。
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