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番外編 ムニル過去編
碧色の鬼灯
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「嘘だろう…?」
そう、灰色の空に向かって呟く者がいた。茫然と雨に打たれるがままの人々達は、ようやくこの状況に頭もついて来た。
「こいつが…呼んだのか…?」
人々の心と動きは流行病に似ている。誰か一人が流行病に罹ると、その者からその周りにいる者へと次々に伝染していく。
この、誰もが心の中で薄々感づいていたこの事実に、たった一人の一言が無理やり向き合わせることになった。
人は恐ろしい事実、受け入れたくない事には目を背ける。それは本能的に危険だと知っているから、このまま安全な所にいたいからだ。しかし、現実を突きつけられた今、人々の心の中を急速に恐怖が支配し、広がっていく。
「まさか!」
「それなら本当に化け物ではないか…!」
「恐ろしい、恐ろしい…」
「早く殺してしまえ…!」
赤子から離れた場所にいる者たちは、先ほど刀を振り上げたごろつきの男に向かって、殺せ殺せ、とせっついた。一瞬、躊躇ったものの、ごろつきの男は己の刀を振り上げた。
しかし実は、男は雨が降り出した際に、内心少し怯えていた。周囲の者達にその怯えを見透かされることが恥ずかしかったために、覚悟を決めて刀を振り上げる。思わず刀を握り締めた手はぶるぶると震え、雨に濡れた柄によって手が滑りそうになった。
そして、再び振り下ろそうとしたその時、
「待ってくれ…!!」
と一人の男が飛び出して来た。男は慌てて刀を振り下ろすのをやめる。本物の化け物を殺さずに済むかもしれないので、内心ほっとしていることに、ごろつきの男は気がついた。
飛び出して来た男は、この花街の中でも一、二を争う妓館の妓主だった。彼は妓女が売れるためならば、どんなことも厭わず、計算高いことで有名だ。しかしその一方で、男の経営する妓楼の祇女達に、感謝の意を込めて毎年一着着物を与えるまめな男としても有名だった。そのため、彼は一目置かれている。
しかし、男の次の言葉には、流石に花街の者達も理解できなかった。
「この子を引き取らせてはもらえないだろうか。」
周囲の者は妓主の真意を図りかねた。あきらかに厄介事を抱え込むことが分かりきっているのに、この男は化け物を引き取るのか。人々はひそひそと言葉を交わし合っていたが、皆の意見は次第に固まっていった。
自分たちに火の粉さえかからなければいい。妓主は遣り手だ。気にすることはない、と。
そして人々は各々の持ち場へとぽつりぽつりと戻っていき、いつもと変わらぬ花街の風景が戻ってきた。
・・・
五つになり、妓館で下働きとして雑用を任せられるようになった頃、ムニルは己の大まかな出自を知っていった。まだ幼いため、妓館にいる者たちの言葉の全てを理解できるわけではない。しかし、自身を見る目、影で密やかに交わされる言葉から、決していいように思われてはいないことを感じ取っていたし、汚らわしいものを見るかのような視線には慣れて麻痺した。
しかしムニルは己が何一つ恵まれていないわけではないことを知っていた。この花街では美しいものほど愛される。一方で、愛されなくなった妓女たちは隙間風の入る暗い部屋に住み、ぼろのような服を纏って客を待つような店もある。この世界は美醜や人を惹きつける技によって、大きく様子が異なっていた。
ムニルは一番人気の妓館の下男として、雑用をこなす日々だったが、それでも三度の飯が出て、温かい布団で眠ることができた。だが、己が恵まれた環境にいることは理解しているものの、化け物と影で罵られる己が、なぜこのような待遇を受けているのかはわかっていなかった。
淡々と雑用をこなす中、ある日ムニルは妓主に呼び出された。
「旦那様、何かございましたか」
ムニルはまだ幼く、舌足らずな口調で妓主にそう尋ねる。
妓主の部屋は滅多に入ることはなく、ムニルも記憶の中では一度しか入ったことがない。緊張して、思わず辺りを見渡した。
虎の毛皮が飾られ、細かい細工と有名な絵師による水墨画の衝立、異国情緒溢れる壺や透明に輝く陶器など、見事な調度品が所狭しと並べられており、何やら圧迫感がある。幼いムニルは余計に上がってしまった。
「ああ。ムニル、これからお前も唄や舞、などを習いなさい。」
「え…?俺が、ですか…?」
突然のことにムニルは目を瞬かせた。唄や舞は、この先妓女となる幼い少女たちが習うものだ。妓女達は美貌だけでなく、芸術の才や教養を求められた。これは花街を訪れる客の多くが、高官や豪商のため、彼らとの話題作りなどに関わってくるのだ。芸術、教養は非常に重要で、絶世の美女ではないものの、知識が豊富で舞や唄の上手い妓女が一番人気となることも少なくなかった。
しかしなぜ、雑用ばかりしている男の己が、少女達と共に舞や唄を学ばねばならないのか。ムニルはとんと見当がつかない。
と、その時、卓の前に座っていた妓主が立ち上がった。そして、ムニルの方へと歩いてくる。
(た、叩かれる…?)
ムニルは思わず体を竦ませた。この妓主が醸し出す雰囲気は、雑用で失敗し、機嫌を損ねてしまった妓女に何となく似ている。ムニルは何度か妓女に叩かれたことがある。強く叩かれるわけではないが、叩いた後の彼女達の目は恐ろしく冷え切っていて、侮蔑の色が浮かんでおり、幼いムニルに恐怖を植え付けていた。
そう、灰色の空に向かって呟く者がいた。茫然と雨に打たれるがままの人々達は、ようやくこの状況に頭もついて来た。
「こいつが…呼んだのか…?」
人々の心と動きは流行病に似ている。誰か一人が流行病に罹ると、その者からその周りにいる者へと次々に伝染していく。
この、誰もが心の中で薄々感づいていたこの事実に、たった一人の一言が無理やり向き合わせることになった。
人は恐ろしい事実、受け入れたくない事には目を背ける。それは本能的に危険だと知っているから、このまま安全な所にいたいからだ。しかし、現実を突きつけられた今、人々の心の中を急速に恐怖が支配し、広がっていく。
「まさか!」
「それなら本当に化け物ではないか…!」
「恐ろしい、恐ろしい…」
「早く殺してしまえ…!」
赤子から離れた場所にいる者たちは、先ほど刀を振り上げたごろつきの男に向かって、殺せ殺せ、とせっついた。一瞬、躊躇ったものの、ごろつきの男は己の刀を振り上げた。
しかし実は、男は雨が降り出した際に、内心少し怯えていた。周囲の者達にその怯えを見透かされることが恥ずかしかったために、覚悟を決めて刀を振り上げる。思わず刀を握り締めた手はぶるぶると震え、雨に濡れた柄によって手が滑りそうになった。
そして、再び振り下ろそうとしたその時、
「待ってくれ…!!」
と一人の男が飛び出して来た。男は慌てて刀を振り下ろすのをやめる。本物の化け物を殺さずに済むかもしれないので、内心ほっとしていることに、ごろつきの男は気がついた。
飛び出して来た男は、この花街の中でも一、二を争う妓館の妓主だった。彼は妓女が売れるためならば、どんなことも厭わず、計算高いことで有名だ。しかしその一方で、男の経営する妓楼の祇女達に、感謝の意を込めて毎年一着着物を与えるまめな男としても有名だった。そのため、彼は一目置かれている。
しかし、男の次の言葉には、流石に花街の者達も理解できなかった。
「この子を引き取らせてはもらえないだろうか。」
周囲の者は妓主の真意を図りかねた。あきらかに厄介事を抱え込むことが分かりきっているのに、この男は化け物を引き取るのか。人々はひそひそと言葉を交わし合っていたが、皆の意見は次第に固まっていった。
自分たちに火の粉さえかからなければいい。妓主は遣り手だ。気にすることはない、と。
そして人々は各々の持ち場へとぽつりぽつりと戻っていき、いつもと変わらぬ花街の風景が戻ってきた。
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五つになり、妓館で下働きとして雑用を任せられるようになった頃、ムニルは己の大まかな出自を知っていった。まだ幼いため、妓館にいる者たちの言葉の全てを理解できるわけではない。しかし、自身を見る目、影で密やかに交わされる言葉から、決していいように思われてはいないことを感じ取っていたし、汚らわしいものを見るかのような視線には慣れて麻痺した。
しかしムニルは己が何一つ恵まれていないわけではないことを知っていた。この花街では美しいものほど愛される。一方で、愛されなくなった妓女たちは隙間風の入る暗い部屋に住み、ぼろのような服を纏って客を待つような店もある。この世界は美醜や人を惹きつける技によって、大きく様子が異なっていた。
ムニルは一番人気の妓館の下男として、雑用をこなす日々だったが、それでも三度の飯が出て、温かい布団で眠ることができた。だが、己が恵まれた環境にいることは理解しているものの、化け物と影で罵られる己が、なぜこのような待遇を受けているのかはわかっていなかった。
淡々と雑用をこなす中、ある日ムニルは妓主に呼び出された。
「旦那様、何かございましたか」
ムニルはまだ幼く、舌足らずな口調で妓主にそう尋ねる。
妓主の部屋は滅多に入ることはなく、ムニルも記憶の中では一度しか入ったことがない。緊張して、思わず辺りを見渡した。
虎の毛皮が飾られ、細かい細工と有名な絵師による水墨画の衝立、異国情緒溢れる壺や透明に輝く陶器など、見事な調度品が所狭しと並べられており、何やら圧迫感がある。幼いムニルは余計に上がってしまった。
「ああ。ムニル、これからお前も唄や舞、などを習いなさい。」
「え…?俺が、ですか…?」
突然のことにムニルは目を瞬かせた。唄や舞は、この先妓女となる幼い少女たちが習うものだ。妓女達は美貌だけでなく、芸術の才や教養を求められた。これは花街を訪れる客の多くが、高官や豪商のため、彼らとの話題作りなどに関わってくるのだ。芸術、教養は非常に重要で、絶世の美女ではないものの、知識が豊富で舞や唄の上手い妓女が一番人気となることも少なくなかった。
しかしなぜ、雑用ばかりしている男の己が、少女達と共に舞や唄を学ばねばならないのか。ムニルはとんと見当がつかない。
と、その時、卓の前に座っていた妓主が立ち上がった。そして、ムニルの方へと歩いてくる。
(た、叩かれる…?)
ムニルは思わず体を竦ませた。この妓主が醸し出す雰囲気は、雑用で失敗し、機嫌を損ねてしまった妓女に何となく似ている。ムニルは何度か妓女に叩かれたことがある。強く叩かれるわけではないが、叩いた後の彼女達の目は恐ろしく冷え切っていて、侮蔑の色が浮かんでおり、幼いムニルに恐怖を植え付けていた。
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