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番外編 ムニル過去編
碧色の鬼灯
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あの日から、ムニルは変わった。否、変わろうと努力をした。どうせ己はいつまでも囚われる身なのだ、と諦めることをやめたのだ。
まず初めに、ムニルは妓主のもとに向かった。己の借金のこと、その残額と年季が明けるのはいつぐらいになるかということ、そういった今まで知ろうともしなかったことを尋ねたのだ。
「お前は身寄りもないし、ここで育ってきた。そういった事を一度も尋ねてこなかったから、私はお前はずっとここにいるつもりなのだと思っていたよ。しかしまぁ、人はいつまでも同じものを愛で続けるとは限らない。それはここにいる妓女にも必ず訪れることだ。それはお前も例外ではないと私は考えている。」
ムニルは妓主の答えに拍子抜けした。たしかに、彼は契約通り仕事を行えば理不尽に扱うことはない。実力主義者で、稼ぎの良い妓女には新しい衣を与えるなど、待遇も良かった。
しかし、ムニルと他の妓女が同じように扱われていると言うことは初めて知った。始めからムニルに価値を見出していた妓主以外の者は、ムニルなど得体の知れぬ化物でしかなかった。そのため、ムニルを引き取った妓主にはムニルを好きに扱う権利があるのだ、と勝手に思い込んでいたのだ。その思い込みによって、ムニルは自ら自由を奪っていた。
妓主は呆けた顔のムニルを見、その事を察したようだった。
「お前は私に対して意を唱えることも、疑問を投げかけることもなかった。だから私は、お前は出来る限りここに残るものなのだと思っていたよ。しかし、そうではなかったようだ…。お前の年季はあと二年で明ける。それが過ぎればお前は自由だよ。ここに残るなり去るなり好きにすればいい。」
(あと二年…)
ムニルは二年後、この花街を出た己の生活を想い描く。それは相変わらず、空白のようで、己が仕事をしているのか、泣いているのか、笑っているのか、そんなこともわからなかった。
(あの時は何もわからなかったけど…。でも、今から考えたって遅くないわよね。だってあと二年あるもの)
突然妓館を飛び出して、己のこの先が分からず戸惑った時と、今は全く違う。時間もあるし、あの頃よりも教養がある。そして、分からないことは学べば良い。ムニルは今まで、己の価値を見いだせていなかったが、勉学や芸事についての自信はついていた。
(認めたくはないけれど…これも旦那様のおかげね)
ムニルは何とも皮肉に思えて苦笑いをした。
__________________
「とうとう今日ですね。」
ムニルが自室で布団の上に座り、顔を出し始めた朝日を眺めていると、そう背後から声がかかった。
「ええ、そうね」
ムニルは声の主であるシウの方を振り返って笑んだ。心は驚くほどに凪いでいた。
(不思議だわ…。ここで生活するのも今日で終わりだなんて。)
ムニルは身に纏っている豪奢な羽織物をに触れる。羽織りものには上質な絹が使われており、鮮やかな碧色に染め上げられていた。
「私、折角の晴れの日に言うのもあれなんですけど、ムニルさんがいなくなることがとっても寂しいです。」
美しく、気丈で凛とした美少女へと成長したシウであったが、今、瞳は潤み、朝日を浴びて優しい光を帯びている。ムニルはこれがシウの本心である事をすぐさま理解した。ムニル自身も己の生き方の全てを変えてくれたこの少女に対しては思い入れは特別に深い。
「そうねぇ、私もあんたと離れることを寂しく思うわ…。そう考えると不思議なものね…。私は一生この閉ざされた偽りの華やな世界で、孤独なまま生きていくと思っていたもの。」
「そんな…。」
「でもそれを変えてくれたのはシウ、あなたなのよ」
ムニルはシウの両肩に、そっと包み込むように手を置いた。じんわりとシウの温もりが掌に伝わる。シウは呆然とした表情を見せた。どうやら思いもしなかったようだ。
「私ですか…?」
「そう。私はあんたを見て、自由に行きたいと心から願うようになったの。ありがとう」
「そんな…。でも、ムニルさんが今こうして笑ってくれていると言うことは、私も嬉しいです。」
そうやってはにかみながら答えたシウの瞳からはついに、涙がこぼれた。ムニルは慌てて涙を指で拭う。その指は思わず震えてしまった。
「泣かないでよ。そんなふうにされちゃ、私も泣きたくなるじゃない。」
「泣いてください。でないとなんだか不公平な気がします。」
「何よそれ」
目に涙を溜めたまま、膨れっ面で不満気にそう訴えたシウが、いつもより幼く見えた。思わずムニルはそれが可愛らしくも感じて、笑いがこぼれた。泣きそうになったり、笑ったりと忙しい。
幼子の相手をするように、黙ってシウの頭を撫でていると、しばらくして落ち着いた。シウも同じだったのだろう。涙は止まっていた。
「ひどい顔」
ムニルは苦笑する。シウの目元の紅や、白粉は涙によって、どろどろと溶けて崩れていた。きっと己もも同じようになっているに違いない。
「ねぇ、シウ。あんたは年季が明けたらお母様のところに行くのでしょう?」
「はい」
「もしその時に困ったことがあれば、私はあなたの力になるわ。」
「…ありがとうございます」
どうやって探すのだ、とそのような野暮なことをシウは聞かなかった。必要だと思えば、いつかは必ず出会うだろう。運命とは摩訶不思議なものであると、この花街の世界で十分知った。
(それに、私の姿はきっと目立つ…。探そうと思えば、すぐに足がつくでしょう)
ムニルは無言で立ち上がった。そして、座敷の襖の前に立つ。
「じゃあ元気でね。いつか花街の外で会いましょう。」
そう、シウに背を向けたまま別れを告げた。もう、彼女の顔を見る勇気はなかった。例え嫌な思い出ばかりのこの妓館であっても、多少なりとも心残りというものはあるのだ。
ムニルはその思いを引き剥がすように、襖を開け、すぐさま後ろ手に閉めた。芸事の師範に、あれほどはしたないと言われていたことを破り、大股で足音を鳴らしながら木張の廊下を歩く。
(もう、振り返ったりなんてしない。私はもう、前に進もうと足掻くことしかしないんだから)
暁の空はとうに白み、吸い込まれそうなほどに透き通った青が広がっているのだった。
まず初めに、ムニルは妓主のもとに向かった。己の借金のこと、その残額と年季が明けるのはいつぐらいになるかということ、そういった今まで知ろうともしなかったことを尋ねたのだ。
「お前は身寄りもないし、ここで育ってきた。そういった事を一度も尋ねてこなかったから、私はお前はずっとここにいるつもりなのだと思っていたよ。しかしまぁ、人はいつまでも同じものを愛で続けるとは限らない。それはここにいる妓女にも必ず訪れることだ。それはお前も例外ではないと私は考えている。」
ムニルは妓主の答えに拍子抜けした。たしかに、彼は契約通り仕事を行えば理不尽に扱うことはない。実力主義者で、稼ぎの良い妓女には新しい衣を与えるなど、待遇も良かった。
しかし、ムニルと他の妓女が同じように扱われていると言うことは初めて知った。始めからムニルに価値を見出していた妓主以外の者は、ムニルなど得体の知れぬ化物でしかなかった。そのため、ムニルを引き取った妓主にはムニルを好きに扱う権利があるのだ、と勝手に思い込んでいたのだ。その思い込みによって、ムニルは自ら自由を奪っていた。
妓主は呆けた顔のムニルを見、その事を察したようだった。
「お前は私に対して意を唱えることも、疑問を投げかけることもなかった。だから私は、お前は出来る限りここに残るものなのだと思っていたよ。しかし、そうではなかったようだ…。お前の年季はあと二年で明ける。それが過ぎればお前は自由だよ。ここに残るなり去るなり好きにすればいい。」
(あと二年…)
ムニルは二年後、この花街を出た己の生活を想い描く。それは相変わらず、空白のようで、己が仕事をしているのか、泣いているのか、笑っているのか、そんなこともわからなかった。
(あの時は何もわからなかったけど…。でも、今から考えたって遅くないわよね。だってあと二年あるもの)
突然妓館を飛び出して、己のこの先が分からず戸惑った時と、今は全く違う。時間もあるし、あの頃よりも教養がある。そして、分からないことは学べば良い。ムニルは今まで、己の価値を見いだせていなかったが、勉学や芸事についての自信はついていた。
(認めたくはないけれど…これも旦那様のおかげね)
ムニルは何とも皮肉に思えて苦笑いをした。
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「とうとう今日ですね。」
ムニルが自室で布団の上に座り、顔を出し始めた朝日を眺めていると、そう背後から声がかかった。
「ええ、そうね」
ムニルは声の主であるシウの方を振り返って笑んだ。心は驚くほどに凪いでいた。
(不思議だわ…。ここで生活するのも今日で終わりだなんて。)
ムニルは身に纏っている豪奢な羽織物をに触れる。羽織りものには上質な絹が使われており、鮮やかな碧色に染め上げられていた。
「私、折角の晴れの日に言うのもあれなんですけど、ムニルさんがいなくなることがとっても寂しいです。」
美しく、気丈で凛とした美少女へと成長したシウであったが、今、瞳は潤み、朝日を浴びて優しい光を帯びている。ムニルはこれがシウの本心である事をすぐさま理解した。ムニル自身も己の生き方の全てを変えてくれたこの少女に対しては思い入れは特別に深い。
「そうねぇ、私もあんたと離れることを寂しく思うわ…。そう考えると不思議なものね…。私は一生この閉ざされた偽りの華やな世界で、孤独なまま生きていくと思っていたもの。」
「そんな…。」
「でもそれを変えてくれたのはシウ、あなたなのよ」
ムニルはシウの両肩に、そっと包み込むように手を置いた。じんわりとシウの温もりが掌に伝わる。シウは呆然とした表情を見せた。どうやら思いもしなかったようだ。
「私ですか…?」
「そう。私はあんたを見て、自由に行きたいと心から願うようになったの。ありがとう」
「そんな…。でも、ムニルさんが今こうして笑ってくれていると言うことは、私も嬉しいです。」
そうやってはにかみながら答えたシウの瞳からはついに、涙がこぼれた。ムニルは慌てて涙を指で拭う。その指は思わず震えてしまった。
「泣かないでよ。そんなふうにされちゃ、私も泣きたくなるじゃない。」
「泣いてください。でないとなんだか不公平な気がします。」
「何よそれ」
目に涙を溜めたまま、膨れっ面で不満気にそう訴えたシウが、いつもより幼く見えた。思わずムニルはそれが可愛らしくも感じて、笑いがこぼれた。泣きそうになったり、笑ったりと忙しい。
幼子の相手をするように、黙ってシウの頭を撫でていると、しばらくして落ち着いた。シウも同じだったのだろう。涙は止まっていた。
「ひどい顔」
ムニルは苦笑する。シウの目元の紅や、白粉は涙によって、どろどろと溶けて崩れていた。きっと己もも同じようになっているに違いない。
「ねぇ、シウ。あんたは年季が明けたらお母様のところに行くのでしょう?」
「はい」
「もしその時に困ったことがあれば、私はあなたの力になるわ。」
「…ありがとうございます」
どうやって探すのだ、とそのような野暮なことをシウは聞かなかった。必要だと思えば、いつかは必ず出会うだろう。運命とは摩訶不思議なものであると、この花街の世界で十分知った。
(それに、私の姿はきっと目立つ…。探そうと思えば、すぐに足がつくでしょう)
ムニルは無言で立ち上がった。そして、座敷の襖の前に立つ。
「じゃあ元気でね。いつか花街の外で会いましょう。」
そう、シウに背を向けたまま別れを告げた。もう、彼女の顔を見る勇気はなかった。例え嫌な思い出ばかりのこの妓館であっても、多少なりとも心残りというものはあるのだ。
ムニルはその思いを引き剥がすように、襖を開け、すぐさま後ろ手に閉めた。芸事の師範に、あれほどはしたないと言われていたことを破り、大股で足音を鳴らしながら木張の廊下を歩く。
(もう、振り返ったりなんてしない。私はもう、前に進もうと足掻くことしかしないんだから)
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