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涼暮つき

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第三章 青野日南子の場合

青野日南子の場合⑦

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 いつもの路線のバスに乗り、いつものバス停でバスを降りる。
 普段ならここで日南子は必ずと言っていいほど“くろかわ”の明りに吸い寄せられてしまうのだが、今夜その明りが灯っていないのは、今日まで店が夏休みで休業しているから。
「……お腹すいたぁ」
 こんな疲れた日ほど巽の料理が恋しくなる。山吹との食事を断わっておいてここは別とは随分虫のいい話だが、他の店の料理と巽の料理は日南子にとって根本的に求めているものが異なる。
 他の店の料理が美味しくないわけじゃない。どこの店の料理も美味しいと思うし、もちろんそれを楽しんでいるのだが、他と何が違うかと問われれば、巽の料理は毎日食べて飽きない味。それこそ、自分の親の料理に飽きないように、どんなに美味しいものを食べても最終的にここのご飯が恋しくなる。
「巽さんのご飯食べたかったな……」
 そう呟いて小さく息を吐いた。しかも、今日に限って自宅の冷蔵庫は空っぽ。ろくに買い物にも出かけていなかったため、冷蔵庫の食材が底を尽きているうえに、仕事で疲れているいま食事を作る気力もない。
 日南子は仕方なくマンションへ向かう細道を通過し、その先になるコンビニへと向かった。
 コンビニはマンションを過ぎて数十メートル先の角。昼間ならさほど気にならない距離だが、夜遅くに歩くなると普段よりその距離が心なしか遠く感じる。
 日南子は仕事用のバッグを片手に夜道を歩いた。大通りとはいえ田舎町だ。帰宅ラッシュの時間帯を過ぎたその通りは車通りも激減する。
「そういえば……」
 このあたりで先日事件があったことを思い出しその歩調を早める。しかも日南子はその犯人と思しき男に一度遭遇している。
 ふいに後ろを詰めるように近づいてくる足音に心臓がドクンと大きく跳ねあがった。そのまま歩き続けたが、その足音がはますます近づいてくる。
「──っ」
 怖い。心の中で叫びつつ、日南子は不自然にならないようさらにその歩調を早めた。
 もし──、そんなことを考えたが、今度は恐怖が勝ってあの時のように振り返ることすらできない。走って逃げることも考えなかったわけじゃないがパンプスじゃ走ってもたかがしれている。異様なほど上がっていく心拍数。恐怖のあまり日南子は息を殺しながらひたすら後方からの足音から逃げた。

 コンビニの明りをようやく近くに感じて、日南子は迷わず走り出した。背後の足音はさらに近づいて来ていて、それを振り切るように店内に駆け込んだ。
 恐怖のあまり暴れる心臓を持て余したまま、日南子はさりげなく雑誌コーナーへ行った。読みたくもない雑誌を広げて日南子のすぐ後を追うように入ってきた客の様子をさり気なく窺って息を飲んだ。
「……っ、」
 男の背格好に見覚えがあった。日南子が以前遭遇した、例のパーカーの男に似ている気がする。──そう、と思うと同時に雑誌を持った手が震えだした。
 こんな時どうしたら──考えを巡らせている時、日南子の頭に思い浮かんだ顔があった。
「……そうだ、巽さん」
 雑誌を棚に戻し、バックの中からスマホを取り出した。震える手で巽にSNSのメッセージを送る。
 彼が家にいなかったらどうしよう、そんなことが当然頭を掠めたが“いなかったら”と考えるより“いるかもしれない”と考える方が建設的な気がした。とりあえず店の中にいる限りは人目もあるし安全だ、そう考えて心を落ちつけた。
 その時、間抜けな通知音が鳴り、そこに表示されるメッセージにすがるようにスマホを胸に抱きしめる。
【どうした?】
 メッセージは巽から。
【家にいますか? いたら出て来てもらえませんか】
 そう返信した瞬間、手にしたスマホがピリリリ、と音を立てた。
 すぐ電話に出ようとしたが、手が震えてスマホの画面をうまくスライドできないうえに、スマホ自体を手から取りこぼしそうになり慌ててそれをキャッチした。
 どれだけ動揺しているのだろう。深呼吸をしてからもう一度トライ。今度は成功。ようやく電話に出ることができた。
『もしもし、青ちゃん?』
「はいっ。あ、あのっ巽さん? ……っ、」
 言葉を続けようとしたが、気が動転しているのもあり言葉にならなかった。
 この連絡先は「なにかあったら」と巽が日南子に教えてくれたもの。連絡先を教えてもらってから今のいままで、巽に連絡をしたことは一度もない。そんな空気を察してか、電話の向こうの巽が声を落として訊ねた。
『──何か、あったのか? 青ちゃん、いまどこ』
「……き、近所のコンビニ」
『わかった。すぐ行く』
 ほんの数分にも満たない電話。事情などは全く説明すらしていないのに、巽は来ると言ってくれた。その言葉にどれだけほっとしただろう。スマホを胸にギュッと抱いたまま日南子は大きく息を吐いた。

 電話を切ってからものの五分と経たないうちに、店に巽が現れた。
 以前日南子が想像したときと同じように、酷く慌てた様子で、額に汗を光らせ、肩を上下させて。
 キョロキョロと店内を見渡し、窓際の雑誌コーナーに立ち尽くしたままの日南子に気づいた巽がこちらに近づいてきて隣に立った。
「もしかして、この間の男?」
「……たぶん。でもはっきりとは……」
 今夜だって日南子は後をつけられただけで、実際には何かされたわけじゃない。ここまでの道のりも偶然だと言い切られてしまえばそれでお終いだ。
「とりあえず、俺に任せな。青ちゃん、何か買い物あったんだろ? とりあえずそれ済ませてくれば」
「……え?」
「何か買うもんあって、ここまで来たんだろ? じゃなきゃ、とっくに家にいるだろ」
 そうだった。夕食を買おうと思ってわざわざマンションを通り過ぎてここまで来たのだった。よほど動揺していたのか、そんな事は日南子の頭からすっぽり抜け落ちていた。
「俺、ちょい電話。大丈夫、ちゃんと近くにいるし」
 日南子が少し冷静さを取り戻して夕食などの買い物をしている間、巽はどうやら近くの交番に電話を掛けているようだった。会話の内容からその旨が窺えた。
 そういうところも、さすがだと思う。日南子一人だったなら、気が動転している中、そんなところにまで到底気が回るはずもなかった。
 手早く買い物を終えて巽の姿を探すと、ちょうど入り口付近に巽がいた。
「帰るか」
 そう言った巽がグイと日南子の腕を掴んだ。何事かと思い巽を見上げると「ちょい、このままな」と小さく言って日南子に目配せをした。日南子は訳も分からず、言われるまま巽を窺いつつ歩く。ただ、掴まれた腕がだんだんと熱を持つのを意識している。
「さっきの男、まだ駐車場でうろついてんだよ。警察には連絡したし、じきに様子を見にくるだろうけど、もし青ちゃん狙ってんだとしたら男の影チラつかせといたほうが安全だろ。……ああいうのは、一人の女の子ターゲットにしやすいっつーから」
 恋人がいる体を装うというわけか。確かに一人暮らしの女性の部屋に、男物の下着を干して犯罪抑止に繋げるアレに近い偽装だ。
 つまり巽が臨時ではあるが日南子の恋人役を買って出てくれているということ。そんな些細な偽装にさえ、なんだか胸がザワザワしてしまうのは、やはり巽に対する何かが日南子の中で変わったからなのか。

 マンションまでの暗い夜道を巽と並んで歩く。掴まれた腕から伝わる巽の温もり。
 不思議とさっきまであった手の震えが治まって、恐怖でドキドキとしたままだった心臓もだいぶ落ち着いてきている。
 さっきまでの不安な気持ちが嘘のようだ。ただ、巽が傍にいるだけで心強い。
「巽さん」
「んー?」
「今日は……ありがとうございました」
 あらたまって礼を言うと、巽が横でクスと小さく笑った。
「駆けつけるっつったろー?」
 本当に来てくれた。まるでヒーローのように直ぐ様。
「何で……私、何も言えなかったのに分かったんですか?」
 あの時──巽が電話をくれたとき、日南子は何も言えなかった。なのに、彼はすぐ事情を察知したかのようにあらゆる事に迅速に対処してくれていた。
「そりゃ──俺なりに青ちゃんの性格分かってっからな」
 そう答えた巽がまた笑う。
「青ちゃん基本真面目だし。たいした用もなく連絡して来るような子じゃねぇだろ。ましてや、“緊急用”って教えた連絡先にさ。連絡あった瞬間、何かあったと思った。店休みでよかったわ、速攻来れたし」
「……」
 湧き上がる不思議な気持ち。巽の言葉は温かく、いつも日南子の心に沁みる。
 何も言わなくても、察してくれる。この人の傍は、心地いい。
「青ちゃん、何買ったんだ?」
 ふいに訊かれてハッと我に返る。巽が日南子が手に提げたビニール袋を覗き込むような仕草をしたので、日南子はそれを軽く掲げてみせた。
「あ。えーと、夕食です。……今日お店忙しくって疲れたから作る気しなくて」
「そっか。たまにはいいよな、コンビニ飯も」
「……はい。本当は巽さんのご飯食べたかったんですけど、お店お休みだったので」
 わざと少し咎めるような口調で言った。もともと今夜は“くろかわ”の休業日であって、日南子もそれを分かっていたのだから半ば八つ当たりのようなものだ。
「──悪かったよ」
 そう言われて日南子は巽を見つめた。
「今日もし店開けてたら青ちゃん絶対来たろ? そしたら怖い思いしなくてすんだかもしれないのにな」
 その言葉にどこか巽が自身を責めているような気がして慌てて頭を振った。
「何言って……。巽さんのせいじゃないですから」
  それどころか、こうして駆けつけてくれたことを感謝している。巽の姿を見て、日南子がどれだけ安心したことか。今もそうだ。巽が傍にいてくれていることをこんなにも心強く思っている。
「嬉しかったです。巽さん、来てくれて──」
 巽が一瞬驚いた顔をして何か言おうとしたが、気づけばマンションの前に着いていた。
 さっきあんなに長く感じたコンビニまでの道のりが、巽と一緒だとあっという間だ。日南子の腕を支えるようにしていた巽の手がゆっくりと離れる。
「──それじゃ。明日から店開けるからまたいつでも来いな?」
 その時、ふいに暗闇の中からガサガサという音がして、日南子は反射的に「きゃっ、」という声を漏らし巽に飛びついていた。
 あんなことがあった後、恐怖に敏感になっているのか再び心臓がせわしなく動き始める。
「……っ」
 震える指で巽の服を掴むと、巽が日南子を安心させるようにそっと頭に手を置いた。その手が柔らかく日南子の頭をポンポンと撫でる。
「大丈夫。風だよ、風。……そこのゴミ袋が風でガサガサいっただけだって」
「……」
「……青ちゃん?」
 日南子が俯いたまま顔を上げないのを心配するかのように、頭上から巽の柔らかな声が響く。
 顔を上げられなかったのは、いつのまにか込み上げて零れる寸前の涙に日南子自身も戸惑いを感じていたから。
 こんなところで泣くなんてダメだ。いきなりこんな顔を見せたら巽が驚くだろう。
「──ごめんな。怖かったよな」
 そう言った巽の手が戸惑いがちに日南子の肩を抱いた。そっと肩に置かれた手が優しく日南子の身体を引き寄せ、日南子はされるがままに体重を預けるとコツン、と額が巽の胸にぶつかった。
 ──温かい。
 抱き寄せられてドキドキしているのは、さっきまでの嫌なドキドキとは違う。シャツからふわりと香る洗剤の香りと、巽自身の匂いがこんな時なのに心地良くてなぜか涙が溢れてくる。



   


   
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