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第三章 青野日南子の場合
青野日南子の場合⑧
しおりを挟む「大丈夫。もう大丈夫だからな」
巽のその柔らかな声に、堪えていたものが一気に涙となって溢れ出した。緊張と不安とで張りつめていた気持ちが、いまやっと本当の意味で緩んで行くのを感じる。
「……そうだよな。青ちゃん、女の子だもんな。我慢することねぇから、泣いちゃいな」
その言葉に堰を切ったように涙が頬を伝う。まるで子供みたいだ。こんな顔をぐちゃぐちゃにして泣くなんて。
「……っ、う。………ぅ、……こ、怖っ、怖か……っ」
「もう大丈夫だから」
「……っ、うん」
「わかったから、無理に喋べんなって」
「……っ、ん」
嗚咽が酷くて心の中の声がまったく言葉にならない。
怖かった。不安だった。切羽詰まったような状況で、咄嗟に思い浮かんだのは巽の顔だった。あの時、巽の顔を見てほっとした。──来てくれてどんなにほっとしたか。
いま。こんな状況で気づいたことがある。
肩を抱く手が少しぎこちないのも、ポンポンと頭を撫でてくれる手が戸惑いがちなのも、巽だから心地いい。
誰かの体温が、気配が、こんなにも自分の心を安心させることがあるなんて知らなかった。
山吹のキスを思わず避けてしまったときのことを思い出した。あのとき避けてしまった理由がわからなかったけれど、反射的に身体がそれを拒否したのだ。
いま、日南子は巽に抱き寄せられているこの状況を嫌だとは思わないし、拒絶もしていない。それどころか、もっと近づきたいとすら思っている。
“代わりがないものが絶対あるんだよ”
いつか緑が言っていた。
日南子にとって代わりのないもの。他のものじゃ、他の誰かじゃだめなもの。
それは、もしかしたら──。
*
それからどれくらい経っただろう。涙が落ち着くのを待ってゆっくりと顔を上げると、巽が日南子を見つめて小首を傾げた。巽の手がそっと伸びて、日南子の目元に残った涙を指で掬う。
「少しは落ちついた?」
そう訊ねた巽の優しげな笑みに、胸がギュギュッとなる。日南子がこくんと小さく頷くと、彼が安心したように眉を上げて笑い、両手で日南子の顔を包み込むようにして親指で涙の後を擦った。
ドキドキする。巽に触れられると。
なのに、それを止めたいとも逃げたいとも思わないのは。
これはもう、もしかしたら──なんて考えるより先に、身体がそれを理解している気がした。
「んじゃ、な。明日から普通に店やってっから、またいつでも来な」
ふいに身体が離れて、巽が自然な距離を取る。
「ほら。ちゃんと飯食って、風呂入って早く寝ちまえ。──な?」
「……はい」
「また何かあったらいつでも連絡してくりゃいいし」
「はい」
返事をすると、巽がもう一度手を伸ばして日南子の頭に触れた。余程不安そうな顔をしていたのか、まるで子供をあやすみたいにくしゃくしゃと日南子の頭をかき混ぜて笑う。
「大丈夫、大丈夫。おやすみ」
優しい声色。髭面、ごつめの黒縁眼鏡。一見怖そうな見た目とは裏腹に、彼の眼鏡の奥の瞳は驚くほど優しい。
「……おやすみなさい」
日南子はその場に立ちつくしたまま走り去っていく巽の後ろ姿を見送った。
「……巽さん」
小さく名前を呼んでみる。
「──っ、」
普段なにげなく呼んでいる名前なのに、今更声に出すのが照れくさいとか訳が分からない。
まだ感触が残っている。
頭に触れた巽の手のひらの感触、その温度。抱き寄せられたときに感じた体温、匂い。その何もかもが。
……好き、かもしれない。
いや。もうすでに、そんな曖昧な感情ではない気がする。
知ってしまった。
彼が慌てて駆けつけてくれた時の顔。見たこともない慌てた顔だった。お店で見せるような余裕で大人な表情とは全然違っていた。
もっと、知りたい。もっと彼のいろんな顔をみたい。その顔をできれば私だけが見ていたい。
出会ってから随分経つのに、こんな感情が自分の中にあることさえ気づかなかった。
胸の中でいっぱいになっているこの感情に名前をつけるとしたら、
「……恋、なのかな」
たぶん、他のどんな言葉より、この言葉が一番しっくりくると自覚した蒸し暑い夏の夜。
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