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第七章 青野日南子の場合
青野日南子の場合②
しおりを挟む切れた電話を片手にぼんやりと立ちつくす。
「──いまの、何?」
一緒に飯でも、って。
月曜といえば“くろかわ”の定休日だ。休みの日にわざわざ──ということは、二人きりでという事なのか、それとも他に誰かいるのか。
突然の誘いがただただ嬉しくて、勢いで返事をしたものの細かいことは何も聞けないまま切られた電話。
「……」
いままで、巽からこんなふうに誘われたりしたことはない。誘われるといっても「店、寄る?」とかどちらかと言えば店主と常連客という関係を逸脱しないもの。
でも、今回はそれとちょっと違う。休みの日に、わざわざ日南子を誘ってくれたということ。その誘いに特別な意味があるってうぬぼれてもいいのだろうか?
「──期待し過ぎちゃダメだよね」
ピュウウウ、と冷たい風が吹いて日南子はブルっと身体を震わせた。
スマホをコートのポケットに突っ込んで、再び待合所に入って残ったカップコーヒーを飲む。
それでもにやけてしまう顔は抑えようとしても抑えきれなくて、コーヒーを全て飲み干し、着けているマフラーを引き上げてどうにか顔を隠した。
声を聞くと思い出す。
あの日優しく頬に触れた彼の温かな手を。
ゆっくりと近づいてそっと触れた唇の温かさを。
「──っ」
少なくとも嫌われてはいない。巽があんなことをできる程度には好意を持たれているんじゃないかと思う。
「はぁ」
思い出すんじゃなかった。
再び恥ずかしさが蘇える。日南子はさっき引き上げたばかりのマフラーをさらに引き上げて顔を隠す。
もっと、触れたい。もっと触れられたい。そんな気持ちがあったのかと自分でも戸惑っている。
彼の懐に──もっともっと入って行けたらいいのに。
* * *
そうしているうちにやってきた約束の日。
あれから巽からの連絡はなく、日南子も仕事が忙しかったり、友人との約束があったりと“くろかわ”に寄るタイミングがなかなか掴めず、迎えた朝。
あの日は電話に舞いあがっていたこともあり、実は、約束は夢だったとかいうオチではないかと危惧したものの、起きてすぐ確認した巽からのLINEのメッセージに、ほっとした。
【今夜の、覚えてる?】
忘れるわけがない。
営業日でもないのに巽に会えるうえ、一緒に食事ができるのだ。
【おはようございます。今夜仕事終わったら、伺います。楽しみにしてます】
そう短いメッセージを返す。本当は、かわいらしい絵文字やスタンプなんかも駆使してみたいのだが、子供っぽく思われるかな、とか。ハートなんか使ったら引かれるかな、とか考えて無難な顔文字を選んで送信する。
「……寒いっ」
クシュン、とひとつくしゃみをして、ベッドから抜け出しダイニングに移動するとテレビをつけた。
≪──全国的に今朝は朝から大変な冷え込みとなっています。昨夜から発達した大型の低気圧の影響で、各地で大雪の荒れ模様となっております。では、各地の天気です……≫
「各地で大雪……か。どうりで冷えると思った」
そう呟いて、洗面所で顔を洗う。
このあたりは比較的温暖で、雪など滅多に振らない地域だが、特別に気温が低い日はそれでも注意が必要だ。雪に慣れていない地域というものは、少し積もっただけで交通が麻痺してしまうこともある。
*
「なあに、ニヤついてんのかなー、青野?」
そう声を掛けて来たのは先輩社員の白田雪美。日南子を見て楽しそうに笑っている。
日南子は慌てて表情を引き締め、ホールに山のようになった段ボールの箱を開けた。
「ニヤついてません」
「ニヤついてたでしょーよ、今! こんな荷物の山見てげんなりするならともかく、嬉しそうにしてるとか気持ち悪い」
「酷い雪美さんー! 気持ち悪いはさすがに傷つきますから」
日南子は段ボールの中の入荷商品を次々と品出しカゴの中へ詰め込みながら答えた。
「なーんか、黒川さんといいことあった?」
雪美は元々勘が鋭いほうだが、こと恋愛に関してはその勘が研ぎ澄まされる。隠したところで結局は話す羽目になるのだからと、半ば諦めたように口を開いた。
「──今夜、巽さんに食事に誘われてるんです」
「え? デートって事?」
雪美が驚いて目を見開く。
「そういうんじゃなくて……一緒に飯でもどうだ、ってお店に誘われてて」
「でも。二人きりって事でしょう?」
「うん。たぶん、ですけど」
確信はないが、他に誰が来るとか聞かされてはいない。
「あらら。やるじゃん、青野」
雪美が嬉しそうな顔で、日南子の肩をぺシッと叩いた。
「そりゃー、顔もニヤけるし、仕事も張り切っちゃうわけよね。んじゃ、さっさと帰れるようにサクサクっとこの辺の荷物片しちゃわないとね!」
「はいっ!」
日南子が勢いよく返事をすると、雪美がクスと笑う。
「本当に好きなんだねー、黒川さんのこと」
「え?」
「だってほら。前、ちょっと付き合ってた彼とのデートのとき、青野そんなにいそいそしてなかったもん」
「──そ、かな?」
「そうよー! 全然違う!」
指摘されて改めて考えてみる。
そうなんだ。傍から見ても分かるくらいに違うんだ。確かに、楽しみだっていうワクワクした気持ちはあったような気はするけれど、こんなにもドキドキそわそわ落ちつかない気持ちになったことはなかった気がする。
朝から気温が低く、日中になってもほぼ気温は変わらず。
午前中はかろうじて薄日が差していたのだが、午後になってますます雲行きが怪しくなってきた。
「なんか、雪でも降りそうだな」
日南子がホールでメーカーから入荷したばかりの荷物を開けていると、ちょうど外回りから戻ってきた同期の社員が薄暗い空を見上げながら言った。
「あ。藤倉くんお帰り。いまお昼?」
「お疲れ。ああ、ちょっと午前まわるとこ多くて」
「寒いねー、今日」
そう言って日南子が、ハァッと両手を口元にあてて温かな息を吹きかけると、藤倉も両手を擦り合わせながら笑った。
「さっき、山の方雪チラついてた」
「本当⁉」
「夕方くらいからヤバイかもな。今日は早いトコ仕事終わらせないと」
「うん。そうだねー」
日南子も厚い雲で覆われた空を見上げながら、作業の手を早めた。
滅多に雪など降らない地域とはいえ、年に一、二回は平野部でも数センチほど積もることもある。寒波が来ているとなれば、可能性はないとは言い切れない。
「青野ー! ホクヨの客注ファイル、数多いから倉庫入れといて」
雪美が店舗のほうから顔を覗かせた。
「三ケースでしたよね?」
「うん。あと、そこの荷出し終わったら、伝票類在庫少ないから発注掛けといて」
「はーい! わかりました」
荷出しした商品を、次々と雪美が店頭に出していく。他の社員も同じように仕事をしているが、その仕事が誰よりも早いのが雪美だ。早いだけでなく、正確。商品知識も豊富で、現在副店長。来年の春、出産で退職する現店長のあと、この店の店長に就くのはすでに確定している。
日南子も入社三年。同期ですでに副店長に就いているものもいる。
負けていられない、というのではないが、そういう責任のある仕事に就いている同僚や先輩たちに少しでも追いつきたい。
恥ずかしくない大人になりたい。胸を張れる自分でいたい。
そういう思いが強くなったのは日南子がいま、本気の恋をしているからだろうか。
*
仕事を終えたのは閉店時間から、三十分後の午後八時。二階の休憩室で着替えを済ませ、下の事務所に降りて来ると、最後まで残っていた営業課の部長が待ちかねたように席を立った。
歳は日南子たちの父親世代。温厚な性格と、熱心な仕事ぶりから部下からの信頼も厚い理想の上司だ。
「部長。お疲れ様です」
「おー。お疲れ、終わった? みんなさっさと帰ろう。外、けっこう降ってる」
夕方からフワフワとした風花が舞い始め、夕方気温が下がって来ると同時にこの地域には珍しい少し大粒の雪が降り出した。降りだした雪は断続的に降ったり止んだりを繰り返しながら夜になり、さっき店を閉める頃には普段は木枯らしが吹きぬけるだけの街の街路樹にうっすらと白い雪が積もっていた。
「部長、もしかしてわざわざ残っててくださったんですか?」
「女の子たちこんな天気に遅くまで仕事してんのに、俺だけさっさと帰れないだろ。何かあっちゃ大変だし。電車なんか遅延が出てるって話だよ」
「え。そうなんですか? 私、電車ですー!」
ひとり電車通勤の一年後輩の鈴木が不安そうな顔をした。
滅多に雪など降らない地域では、少量の雪でも交通機関が麻痺してしまうことがあるが、まさにそれだ。
「白井さんは車だっけ? 近いんだったよね?」
「あ、はい。今んとこ路面は大丈夫そうなんで徐行して帰ります」
「青野さんは?」
部長が今度は日南子に訊ねた。
「私はバスです」
「なんにしろ、早く帰ったほうがいいよ」
「それじゃ、お疲れ様です」
「みんな、気をつけてな」
そう言って、事務所の前で車の部長と雪美が従業員駐車場のほうへと歩き出し、日南子と鈴木は駅方面へと歩き出した。
「電車、大丈夫かな」
「バスも少し遅れが出てたりするかもしれませんね」
ふわふわと真っ暗な夜空を舞う雪を見上げながら、日南子たちはその足を早めた。
駅に着くと、駅前には大勢の人が溢れていた。乗用車専用の送迎のレーンには車が隙間なく縦列駐車されており、普段なら数人の人が並んでいるだけのタクシーの列も、見たこともない長い行列ができている。
「交通、影響出てますね……」
鈴木が不安そうに呟いた。現在雪は小康状態。JRは幸いにも運転を見合わせているほどではなく、各区間徐行運転を行っているようだ。
「うん。帰り気をつけてね、鈴木さん」
「はい。青野さんも」
「じゃ、お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
駅の前で鈴木が駅の構内へ入って行く後ろ姿を見送ってから、日南子もバスのターミナルへと向かった。エスカレーターを下り一度地下通路へ出てから再びエスカレーターを昇りターミナルへ出ると、そこも普段見ないような人だかりができていた。この状態では、普段通りの時間には到底帰れそうにないのだけは分かった。
「……巽さんに、連絡しなきゃ」
日南子はバックの中からスマホを取り出した。すると、すでに巽からの着信とメッセージが一件ずつ残っていた。直接電話をしたほうが早いと、そのままダイヤル。何回目かのコール音の後、
『──もしもし、青ちゃん?』
少し慌てた様子の巽が電話に出た。もしかして、心配してくれていたのだろうか。
「あ。巽さん。あの、日南子です」
『うん。声で分かるよ。──そっち、どうだ? 電車とか遅延出てるって話だけど』
「そうなんです。駅、凄い人で──。バスも遅れてるみたいで乗り場も人で溢れてて。このぶんだと、帰るの遅くなりそうで……」
天候が原因であるだけに、誰を責めるわけにもいかないが、なぜ今日に限ってという思いがほんの少し湧き上がる。せっかく彼が食事に誘ってくれたのに。せっかく一緒に過ごせる時間ができたのに。
『迎えに行こうか?』
そう訊かれてその嬉しさに一瞬迷った。けれど、この駅周辺の混雑ぶりを見る限り、ここに巻き込んでしまうのも申し訳ない。
「いえ……大丈夫です! さっき車の送迎レーンも迎えの車で溢れてて……駅前混乱してるみたいなんで。バスは動いてるみたいなので少し遅くはなりますけど、ちゃんと帰れると思いますから」
そう答えると、しばらく電話の向こうで沈黙があった。
『──分かった。じゃあ、待ってるから。どんだけ遅くなってもいいから必ず来て。何かあったらすぐ連絡すんだぞ?』
「はい」
そう返事をして電話を切った。
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