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涼暮つき

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第七章 青野日南子の場合

青野日南子の場合⑦

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 今更ながら、随分大胆なことを言ってしまったと思う。自分から彼の家に、しかも両親が居る日に、彼の部屋に泊まりたいなどと──。
 そもそもそういう予定ではなかった日南子に、何の準備もなく、巽が洗面台の扉の奥から、試供品の洗顔料やら新品の歯ブラシやらを引っ張り出してくれた。もちろん着替えも巽が用意してくれ、日南子は洗面所で着替えなどを済ませて二階の巽の部屋に向かう。
 心なしか手が震えているのはやはり緊張からか。
「……入って大丈夫ですか?」
 階段を昇り切ったところにある巽の部屋の前で襖越しに声を掛けると「ああ。いいよ」彼がそう返事をした。
 部屋に入って襖を閉めると、巽がすでにベッドの上にいて手にしたスマホを置いて顔を上げた。
 風呂上がりの巽からほのかなシャンプーの香りがし、その香りが部屋に広がっている。まだ完全に乾き切っていない髪が、ボサボサなのもまた新鮮だ。
「んじゃ、寝るか。端寒いから、青ちゃん奥行きな」
「……はい」
 巽に促されおずおずとベッドの奥側に腰を落とし、布団を腰の辺りまで引き上げると、巽がクスと笑い日南子をじっと見つめた。
「え? ……な、なんですか?」
「心配しなくてもなんもしねーよ」
 やはり緊張を見破られていた。
 少しでも彼と一緒にいたくて泊まると言ったものの、一緒に寝るということはそういう事なの? いや、でも、ご両親もいるしそんなことは……! とさっきから頭の中でグルグル考え込んでいた。
「今日は特に、親隣にいるしな」
 ニッと笑った巽には、きっと何もかも見透かされているのだろう。
「ほら。固まってないで、ベッド入んな。……ちょい狭いのは勘弁な」
 巽に少し強引にベッドに押し込まれ、しっかりと首元まで布団を掛けられた。巽が満足そうに笑って部屋の電気を消すと、日南子のすぐ隣に横たわる。
 触れる肩と肩。心臓がドッドッドッ、と早くなる。いまになって後悔。このままじゃ朝まで心臓が持たないかもしれない。
「風呂、結局入んなかったのか?」
「あ、はい。……明日帰ってシャワー浴びてから出勤しようと、」
「明日、何時?」
「九時半のバスに乗ります」
「ん」
 巽は普段と変わりなく、こんな状況にも特に動揺している様子はない。
 当たり前のかもしれない。巽が今まで付き合ってきた女性は一人や二人ではないかもしれないし、日南子に比べたらそれなりに経験も豊富だ。こんなことくらいで動揺などしないのだろう。
 ただ一方的にドキドキしている自分が、随分子供みたいに思える。暗闇の中、巽の気配だけに神経が集中する。
 彼はどんなふうに、過去の女性たちを抱いたのだろう……そんな事を考えると、少し胸が締め付けられる。バカみたいだ。今、彼の隣にいるのは自分なのに。過去の彼に妬いたりするのは無意味な事だ。
「……寒くない?」
「──え、あ、……はい。巽さんが温かいから」
 風呂上がりの熱を持った彼の身体が、ベッドの中の温度を上げてくれている。
「ああ。風呂あがりだからか」
 そう言った巽が身体の向きを変え、日南子を後ろから抱きかかえるようにして腕の中に入れた。日南子の小さな身体は巽の身体にすっぽりと包まれてしまった。
「……た、巽さん?」
「嫌?」
「……嫌じゃ、ないです」
 けれど、心臓がドクドクとうるさくてとても眠れそうにない。
 心臓だけはバカみたいにドキドキしているのに、身体中になんともいえない幸福感が湧きあがる。ぴったりを触れ合う身体。好きな人に触れられることが、好きな人の腕の中に居ることがこんなにも温かくて幸せな事だとは。
 首筋に巽の温かい息が掛かるたび、身体の奥がゾワゾワとする。
 そのゾワゾワに小さく身をよじると、巽が日南子の肩を抱き、その身体の向きを変えさせた。
 薄暗い部屋の中、目の前に普段している眼鏡を外した巽の顔がある。
 それはもう、ほんの少し動けば触れられるほどの近さに。
「……眼鏡ない顔、初めて見ました」
「ははっ。変か?」
「ううん。新鮮です」
 そう答えて指で彼の顔に触れた。額、眉、目尻の皺をゆっくりとなぞり、鼻、それから唇に触れる。その指の動きを巽が目で追っているのがわかる。それから顎髭に触れた。ザラザラとした感触を楽しむように指を動かすと巽が戸惑いがちに訊ねた。
「……髭、嫌じゃねぇの?」
「気持ちいいですよ?」
 そっと指を離すと、巽の顔がふいに近づいて、そのまま唇を塞がれた。彼の舌が少し強引に日南子の口をこじ開け滑り込む。熱を持った巽の舌が日南子の舌に絡むと身体をゾクゾクとした感覚が走り抜けた。
 未知の感覚。未知の感情。生々しいこの感覚が気持ちいいとか、もっとこうしていたいとか。初めての感覚が、感情が手に負えない──。
 長い長いキスの後、そっと唇を離すと巽が少し困ったような顔をして日南子を見つめた。
「コラ。拒否してくんねーと、止まんなくなんだろ。逆に煽ってどーすんだ」
「……だって」
 止まらない。その気持ちは痛いほど分かった。日南子自身も同じように感じていた。
 けれど、このまま暴走してはいけないのも分かる。彼のご両親が隣の部屋にいるこの状況では、やはりそういうわけにもいかない。
「マジ、寝る」
 まるで自分に言い聞かせるように巽があえて声に出して言った。心なしか少し声が拗ねているように聞こえるのは気のせいだろうか。
「……このまま腕に入れてもらっててもいいですか?」
 離れたくなくてそう言うと、巽が照れた顔を歪め、額に手を当てて「あー、クソ」と小さく呟いた。
「……ああ。なんだこの生殺し感」
 そう言って巽が日南子をもう一度しっかりと腕に入れ直した。日南子はそんな巽にもう一度触れるだけのキスを落とすと、彼が大きく目を見開いた。
「青ちゃん……俺煽って楽しんでんの?」
 ほとほと困ったように弱々しい声を出す巽の意外な顔に、日南子はなんだか可笑しな気持ちになる。
 触れたい気持ちを抑えられないのは、自分だけじゃないと思うと嬉しさが込み上げる。いつの間にか変なドキドキは消えていた。
「……そんなわけないじゃないですか」
「青ちゃん」
「なんですか?」
「ちゃんと大事にしてぇから。……だから今日はこれ以上可愛いことやらかさないでくれよ、マジ」
「……かわいいことなんてしてません」
「無自覚かよ。……してんだよ。俺にとっては」
「だから、何がですか?」
「もういい。ホント寝る」
 巽がふてくされたような声を出して、日南子の身体を包み込む。大人だと思っていた彼の、見たこともない子供っぽい顔。
 もっともっと増えるといい。まだ知らない彼の顔をもっと見たい──。
「……おやすみなさい」
 満たされる。この人の腕の中は。
「ああ。おやすみ」
 耳元で響く巽の低い声に心から安心する。
 一日の最後にこうして言葉を交わす相手が、この先ずっと彼でありますように──。
 そんなことを願いながら、日南子は背中に伝わる温かな彼の体温に幸せを感じそのままそっと目を閉じた。
 




  

 
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