橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第一章

1.

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【愛莉side】

「おはよう、愛莉あいり
「おはようお兄ちゃん」

 とある金曜日の朝。自宅の洗面台で髪を梳かしていると、お兄ちゃんがあたしに声をかけてきた。今日からあたしは学校に行く。学校の場所は昨日のうちに調べておいたから平気なはずだ。
 田名坂たなさか高校。偏差値は割と低い。つまり馬鹿高校。あたしはそこの、二年三組の生徒らしい。

「本当に送っていかなくて大丈夫?」
「うん。クラスはわかるし、困ったことがあったら先生が助けてくれるんでしょ?」
「なにかあったらすぐ連絡して」
「もう、わかったってば」

 お兄ちゃん昔は普通だったんだけど、色々あって、本当に色々あって、いまでは実はシスコンなんじゃと疑うくらい、あたしに対して過保護になっちゃったんだよね。
 身支度を整えたあたしは、玄関でスリッパから黒いローファーに履き替えるとお兄ちゃんに、「いってきます」と言ってからドアを開けた。
 大丈夫。このまままっすぐ進んで三つ目の信号を左に曲がって、坂を上っていけば学校に着く。今日は午前中で授業がおわるし、明日は土曜日だから学校に行かないで済むもんね。楽勝楽勝。
 辺りを見回すと同じ制服の子がちらほらといて、あたしみたいに一人で登校している子もいれば、友達と一緒に登校している子もいた。
 学校の前に着くと足が止まった。
 大丈夫、怖いのは最初だけ。
 下駄箱で靴を履き替えると、階段で二階へと向かう。三組は一番奥の教室だ。
 別に後ろのドアから入ってもいいよね。
 ガラッとドアを開けると、一斉に皆の視線がこちらに集まった。

「……お、おはようござい、ます」

 静まり返る教室で、あたしの声だけが響いていた。沈黙がほんの数秒続く。たった数秒の沈黙が、まるで永遠のように感じられた頃。

「誰?」

 窓際の一番後ろの席に座っている女の子が、この場の空気を動かした。
 なんていうか、「あたしはおはようございます」って言ったのに、「誰?」って返すのは失礼じゃない?
 いや、それだけであの女の子を悪者にするには性急すぎる。もしかしたらたんにあたしがクラスを間違えたのかもしれないし。
 そう思ったあたしは、この教室のクラスプレートを確認した。

「あ、あの、やっぱりこのクラスで合ってるみたい」
「……なにそれ。わざと?」
「え?」
「あんたの席はぁ、あたしのまぁえ♡」
「え……あ、ありがとう」

 よかった、てっきり教室を間違えたんだと思っちゃった。
 初対面の女の子にいきなりあんたと呼ばれたことなど気にも留めずに席に着くと、椅子に大きな衝撃がきて思わず肩が震えてしまう。

「ひゃっ」
「ごめんねぇ、足が当たっちゃったぁ」

 うん、これは流石にわかるよ。この子、わざとあたしの椅子を蹴ったんだ。周りの人達もクスクス笑っている。これが日常。これがあたし、橋本愛莉の立ち位置なんだ。
 一日過ごしてみてわかったこと。
 まず、あたしの後ろの席に座っている女の子の名前は坂上流さかがみるう。肩くらいまである髪がくるくると緩く巻かれていて、光に当たるとほんのり茶髪にみえる綺麗な子。ギャルとまではいかないけど、クラスの中では派手な見た目の女の子という印象だ。
 次にわかったのは、坂上流はぼっちだということ。これにはちゃんとした根拠があって、授業と授業の合間の休み時間になっても誰も彼女に近づこうとしないし、彼女も一人で平気そうだから。
 あたしはぼっちに馬鹿にされたんだ。そう思うとなんだかお腹の辺りがもやもやした。
 だってそうでしょう。クラスで一番自分が可愛いみたいな顔した奴が、さも自分は一軍にいますみたいな態度で接してきたくせに、その実《じつ》一人で粋がっていただけなんだから。
 だけど、そんなあたしの浅はかな考え方がそもそもの間違いだったんだとわかる出来事が起こってしまう。
 それは、四時間目のおわりを告げるチャイムが鳴った頃。教科書を鞄の中に仕舞っていると、突然教室の後ろのドアが開いた時のことだった。

「なんだ小長井こながい、いまきたのか」

 先生に小長井と呼ばれた女の子は、ショートヘアがよく似合う小顔の綺麗な人だった。

「坂道でみかん落として困ってるお婆さんがいたんでぇ、助けてたら遅刻しましたぁ」

 嘘だと思った。今時、坂道でみかんを落として困っているお婆さんなんていないでしょう。仮にその話しが本当だったとしても、みかんを拾ってあげるのにそんなに時間がかかるわけがない。そんな見え透いた嘘、担任が許してくれるわけがないんだよ。

「そうか。まあいい、座りなさい」

 いや、あった。

「おはよぉ果歩かほ♡ 今日はこないかと思ったぞ♡」
「おはよ流。んふふ、流に会いたくてきたよぉ」

 なんだ、全然ぼっちじゃなかったじゃん。小長井果歩って人が坂上流の友達なんだ。
 まじまじと小長井さんのことをみつめていると、ふと目が合ったのでギクリとする。

 「あれ? 愛莉じゃん。なんか久しぶりぃ」

 え、どうしてあたしが小長井さんに愛莉って呼ばれているんだろう。
 想像もしていなかった反応に、一瞬で頭の中が真っ白になった。その所為で反応が遅れてしまう。

「あ……えっと……」
「なんだよ愛莉、今日すっぴんじゃん。寝坊でもしたぁ?」

 ちょ、ちょっと、距離が近いって。わざわざこっちにこなくていいから。
 小長井さんがあたしの席まできてじいっとみてる。普段のあたしはすっぴんじゃないのだろうか。そんなこと、お兄ちゃんは一言も教えてくれなかったのに。

「ね、寝坊は……してない……よ?」
「え、なにその喋り方」
「え?」
「お前ほんとに愛莉なのぉ? なんか別人みたいできもいんだけどぉ」

 別人みたいとか言われたって、普段はどんな人と一緒にいるとか、どんな喋り方をするとか、そんなのなにも知らないもん。
 ていうか先生も黙ってないでなんとか言ってよ。あたし、きもいとか言われてるんだけど。

「あ、あたし……事故に遭って……記憶が……」
「……は?」

 そう、あたしは事故に遭って記憶をなくしている。だから昔のことは勿論、自分のことすらなにも覚えちゃいないんだ。
 チャイムが鳴って、すぐに教室を飛びだした。早くこの濁った空間から逃げたくて、廊下を、階段を、坂道を、走った。
 事故に遭ったって言ったのに、あたしがこうなったのはあたしの所為じゃないのに。
 小長井さんのあたしをみる目が怖かった。あたしをみてそれでも、「冗談でしょ?」とでも言いたげな目が怖かった。
 あたしが冗談で学校を三ヶ月も休むわけないじゃん。あたしだって、起きたら知らない人が周りに沢山いて怖かった。あたしだって、学校にくるのが怖かった。
 この学校でのあたしはどんな子だったの?
 誰とどんな会話をして、どんなふうに過ごしていたの?
 早く帰ってお兄ちゃんに会いたいよ。あたしが不安に押し潰されそうな時に、此処があたしの帰る場所だよと教えてくれたお兄ちゃんに。

「ただいまぁ」
「おかえり、愛莉。あれ、もしかして走ってきた?」
「うん、ちょっと、走りたかったから」

 大丈夫、お兄ちゃんにはばれてない。お兄ちゃんだって忙しいんだから、心配かけないようにしなくちゃね。

「お兄ちゃん、あたし帰ってきたし、バイト行ってきてもいいよ?」
「うん。でも、今日はいいよ」

 うちにはあまり家に帰ってこないお母さんと、離婚して疎遠になったお父さんと、中学生の妹がいる。病室で目が覚めた時に傍にいたのはお兄ちゃんで、妹は部屋からなかなかでてこないから、退院してからまだちゃんと会話をしたことがないんだよね。
 お兄ちゃんは普段はバイトをしていて、あたしが事故に遭ってからはずっと家にいてくれたけど、明日からまたバイトに行くみたい。確か近くの喫茶店で働いてるって言ってたっけ。今度遊びに行こうかな。
 今日はなんだか疲れちゃったから、お風呂に入浴剤を入れちゃおう。そのくらいの贅沢はいいよね。
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