橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第十章

70.

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 目を覚ますとあたしは玄関で倒れていた。こういう時、普通は病院で目を覚ますもんなんじゃないの?
 どうして意識をなくした場所からいちみりも動いてないのよ。
 身体を起こすと頭が痛い。そうだ、あたし頭を強く殴られたんだ。
 そういえば流は?
 玄関を開けたら外に流がいたはずだけど。
 あたしは立ち上がり、リビングへと向かっていく。

「流?」

 そこには流がいて、リビングの電気がついていた。

「流、電気はつけないでって言ったじゃん」

 反応はない。近づいてみると、流の手には包丁が握られていた。

「流? どうしたの?」

 よくみると流の身体は震えていて、呼吸も少し乱れている。いつも綺麗に整えられていた髪はボサボサで、視線はあたしに向いていない。
 それ、うちにあった包丁だよね。どうして流が持ってるの?
 流の視線の先を辿ってみる。そこには窓際に力なく倒れているお兄ちゃんがいた。

「おにい……ちゃん……?」

 お兄ちゃんのお腹の辺りが真っ赤に染まっている。
 ああそっか、きっと流が刺したんだ。お兄ちゃんがあたしを何度もぶん殴るから。
 大丈夫。ちょっと驚いたけど、これは正当防衛だよ。流はなにも悪くない。

「流」
「ち、違うの……こいつが愛莉を殴ったから、なにやってんだって言ったらあたしにまで殴りかかろうとしてくるから……っ」
「流、落ち着いて」
「外に逃げればよかったんだけど、愛莉をおいていけないし、咄嗟に中に逃げちゃって、そしたら揉み合いになって、このままじゃ殺されるって、思って、そしたらあたしが包丁で、包丁がっ」
「うん、わかってる。わかってるから。大丈夫」

 あたしは流ではなく、自分に言い聞かせるかのように復唱した。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 だってそうでしょう。そうでもしなきゃあたしは流に怒鳴ってしまいそうで、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうで。そうなればあたしと流の仲は悪くなって、そうなればあたしは本当に独りぼっちになってしまう。
 それは嫌。
 それは嫌。
 だからあたしはあたしにわからせるんだ。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 悪いのはお兄ちゃんの方。
 あたしはパニックで呼吸が荒くなっている流の背中をぽんぽんと優しく叩きながら、お兄ちゃんが死んじゃった事実をゆっくりと噛み締めていた。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 大丈夫。わかってる。落ち着いて。流は悪くない。
 ぐるぐる。
 ぐるぐる。
 ぐるぐる。
 ぐるぐる。
 もうどのくらい時間が経っただろうか。あたしの膝の上で泣き疲れて眠る流の顔をみながら、ぴくりとも動かないお兄ちゃんを黙ってみているだけの時間。
 あれは偽物だとわかっていても、あれはあたしを受け入れてくれたのだから、他にもきっとあたしを受け入れてくれるお兄ちゃんはいるはずだと、何処かで期待してしまう自分がいる。
 そんなの虚しいだけなのに。このままじゃあたしまで加賀さんみたくなっちゃうよ。
 本物のお兄ちゃんは何処にいるんだろう。やっぱりあの時、死んじゃったのかな。
 あの時、柚留ちゃんを探しに行ってそのまま。
 それともあの時、車に轢かれたお兄ちゃんも偽物だったのかな。だとしたらあたしのお兄ちゃんはいったい何処に行っちゃったの?
 だって藍子さんのところにいたお兄ちゃんはきっと、藍子さんのことが好きなんだ。あのお兄ちゃんが本物なんだって思いたいけど、あれだって本物かどうかわからない。本物のふりをした偽物かも。
 もうわかんないよ。お兄ちゃんは生きてるの?
 死んでるの?
 わかんない、わかんない。

「正当防衛なんです……」

 あたしはあのあとすぐに警察に連絡をした。お兄ちゃんに乱暴をされて、逃げようとしたら何度も殴られたので、流が……友達が助けてくれたのだと。
 警察の人はまたかと溜息を吐いた。聞けば橋本大樹という男性が、もう何人も遺体でみつかっているらしい。
 同姓同名ならまだしも姿形も瓜二つ。二人ならまだ双子で済ませられても、こうも何人もいては誤魔化せない。
 それは加賀さんが作った偽物で、なんて言えるわけもなく、あたしはなにも知らないふりをした。
 偽物とはいえ、お兄ちゃんを刺してしまった流は精神的に参ってしまい、これからカウンセリングを受けることになったとか。
 あたしもカウンセリングを勧められたけど、拷問みたく何時間も質問攻めされたくないと思い断った。
 引越すことを勧められて、お兄ちゃんとの思い出が消えてなくなるのは嫌だけど、お兄ちゃんとの思い出に縛られて生きるのも嫌だから、あたしは引越すことを決意した。
 学校は変わりたくないと言った。流や鹿児島さんと離れたくなかったから。
 これから環境がガラリと変わる。もう、柚留ちゃんとも別々に暮らすんだ。
 さようなら、柚留ちゃん。
 さようなら、お兄ちゃん。
 あたしはもうお兄ちゃんを探さないよ。もしも何処かでお兄ちゃんをみかけても、それが本物のお兄ちゃんだなんて思わない。
 あたしのお兄ちゃんはあの日死んだの。本当は違うかもしれないけど、そう思うことにするよ。そう思わなくちゃやっていけない。あたしの心が死んでしまう。あたしは生きるためにお兄ちゃんを捨てるの。大好きで、結婚したいくらい好きだったお兄ちゃん。いまでもそれは変わらない。

「幸せになってね、お兄ちゃん」

 あたしは家の前でにこりと笑うと、振り返ることなく背を向けて前へと歩きだした。
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