オネエなおにいちゃん

三島 至

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 母の務め先は、白い病院。一度連れられて行った事がある。敏子は母と一緒でなくても、一人で病院へ行けた。バスだって、電車だって、一人で乗れる。小学生の敏子にとって、病院へ行くのはちょうどいい冒険だった。
 初めて行った時、病院で偶然居合わせた患者の女性と少し親しくなった。跳ねる尻尾みたいな髪と、にかっと笑う表情が印象的な人だった。
 その時は母と一緒だった。家に帰ってから、母に、「あのおばちゃんと同じ髪型にして!」とよくねだるようになったのだ。

「トーサカのおばちゃん、こんにちは」

 彼女に教えてもらった病室を訪ねる。
 母には内緒だ。
 敏子は母を介さずに、一人でこの女性と会いたかった。

「こんにちは、敏子ちゃん」

『トーサカさん』はにかっと笑って、敏子を手招きで呼び寄せた。

「今日は一人なの?」

 そう聞いたのは敏子だ。トーサカさんの病室には、たまに小さい男の子や、大人のおばさんが見舞いに来る。恐らく身内であろうその人達が居る時は、敏子は病室へ近寄らないようにしていた。
『トーサカさん』は敏子が遠慮している事に気付いている。

「ええ、今日は誰もいないわ。だから安心して入ってきていいわよ」

 病室は個室ではなく、四人部屋だったが、空のベッドがあるだけで、入院患者は『トーサカさん』以外居なかった。だが敏子の記憶では、前回来た時には他にも人が居たはずである。

「前ここに居た人は?」

 敏子は何となく分かっていたが、違うといいなと思って聞いた。
『トーサカさん』は、あの明るい笑い方では無く、少し悲しそうに微笑んだので、敏子はそれの意味する所が分かった。

(あのおばあさん、死んじゃったんだ……)

 亡くなる前、『トーサカさん』と同室のお婆さんは、母に内緒で他人の病室を訪れる敏子に、飴玉をくれた。
 勝手に人の病室に入るのは、本当は悪い事だと知っていたが、お婆さんは敏子を叱らなかった。敏子が来ると嬉しそうにしてくれた。


 敏子は『トーサカさん』のベッドに近づき、膝へ擦り寄った。

「ねえ、トーサカのおばちゃん、今日も髪しばってくれる?」

 手首に通してあったヘアゴムを見せて、『トーサカさん』にお願いする。
 敏子も多少の遠慮は知っているが、こうすると『トーサカさん』も少し嬉しそうなのだ。
 彼女は笑いながら、ヘアゴムに手を伸ばした。

「いいわよ。私と同じやつでいいの?」

「うん! ポニーテールね!」

「あら、覚えたのね」

『トーサカさん』はくすくすと笑う。
 敏子は髪が上に引っ張られるのを面白く思いながら、釣られて頭を動かしてしまう。「じっとしていてね」と、頭を、がしっと捕まれてしまった。
 そんなやり取りも楽しいと思う。敏子はにこにこしながら、「はあい」と返事をした。

「最近、お母さん、髪結んでくれないんだ……」

 今度は大人しく髪を引っ張られながら、ぽつりと溢す。

「お父さんとお母さんが、喧嘩ばかりしているの、私のせいなの……」

 しばった髪がたわんでしまうため、敏子は俯きそうになるのを我慢した。
 両親の不仲の原因を作ったのは自分だと思っている。大好きな妹にも嫌われてしまい、家は居心地が悪い。
『トーサカさん』は敏子の髪を梳かしながら、「敏子ちゃんは人懐っこいわよね」と全然関係の無い話題を振ってくる。
 彼女なりに励まそうとしているのかもしれない。

「唯都とは大違い。あの子、人見知りっぽいのよねえ」

「ゆいと?」

「おばちゃんの息子よ。私のせいで、学校で嫌な目に合わせちゃってね……少し心配なの。良かったら敏子ちゃん、いつか唯都と会う事があったら、仲良くしてくれる? 敏子ちゃんが、そうしてもいいかなと、思ってくれたらだけど」

「その子かわいい?」

「唯都はねえ~、親の贔屓目かもしれないけど、可愛いわよ~。思わず女の子の服を着せちゃうくら……何でもないわ」

 敏子の脳裏には、転校する前の小学校で、初めて同じクラスになった男の子の姿が映っていた。
 女の子のように可愛らしい見た目で、女の子みたいな喋り方をして、他の男子に「変だぞ」と言われていた。彼も確か、『ゆいと』という名前だったはずだ。
 自分の喋り方を指摘された後は、泣きそうなのを我慢していて、極端に喋らなくなってしまった子だ。
 とても可愛い子だった。敏子は彼と席も近くて、是非話しかけたいと思っていたのに、他の男子のせいで彼は常に俯いて、「話しかけるな」という壁を作ってしまっていた。
 仲良くなる前に、敏子は転校しなければいけなくなった。

『トーサカさん』の息子は、同じ名前で、しかも可愛いと言う。何だか奇妙な縁を感じた。

「いいよ。ゆいと君と友達になる」

「ゆいと」と仲良くなれば、『トーサカさん』とももっと仲良くなれるかもしれない。そんな考えもあった。
 敏子は彼女が好きだ。
 気分次第で冷たくなる実の母とはまた違う存在だった。
 彼女とは他人だから、過度な期待をせずに済む。
 実の母親に対するように、自分の全部を見てくれないと嫌だという気持ちにはならない。
 あくまで他人だから、それが当たり前では無いから、親切にされると、すごく嬉しいのだ。

「だからおばちゃん、長生きしてね……」

 その代わり、と言うように、日に日に痩せていく『トーサカさん』に頼み事をする。
 彼女がもう長くない事は、敏子も薄々気が付いていた。

「頑張るわ」





 数ヶ月後、『トーサカさん』の居た病室は空になった。
 敏子はもう何も無い病室に、意味も無く向かう。
 いつか居なくなる事は分かっていたが、どうしたって悲しかった。彼女の残り香のような、思い出の欠片のような物を探さずには居られなかった。

 誰も居ないはずの病室から、物音が聞こえてくる。
 敏子は開いた扉の隙間から、そっと中を覗き込んだ。
 そこには、小学生くらいの男の子が立っている。
 敏子と同い年ぐらいの後ろ姿だ。
 音は立てなかったはずだが、何かを感じたのか、艶やかな黒い髪が振り返る。
 目が合ったのは、見た事のある顔だった。

(トーサカのおばちゃんが言っていた「ゆいと」君って、唯都君の事だったんだ……)

 彼がこの病室に居る理由は、他には浮かばなかった。
 母親を亡くした唯都は、無感情な瞳で敏子を見返す。
 彼は何も告げずに、敏子の横を通り過ぎた。

 彼の髪から、『トーサカさん』の香りがする。
 今度こそ誰も居なくなった病室では、開いた窓から入り込んだ風がカーテンを揺らしていた。

『トーサカさん』との約束だ。
 今度は、彼と友達になろう。

 大好きな人の欠片を追うように、敏子も病室を後にした。


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