銀杖と騎士

三島 至

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【第一章】一度目のアレイル

ロッドエリアの使者②

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 ヴィティア――王妃の愛称であろう。愛おしむように彼女を呼んだ声の正体について、考えたくもないが、アレイルは直感で分かってしまった。
 最悪の状況を想像して、息を殺して会話を盗み聞く。侵入者は王妃と親しい間柄で、声からしてある程度年嵩の男性だ。
 王妃はロッドエリア出身のためか、ナイトカリス国内に付き合いのある友人は居ない。
 幽閉されてからの数年間、王妃と交流があった人間といえば、娘のフィリアンティスカと、監視役と世話係だけである。
 幽閉されるよりも前にしても、夫である国王や息子である王子達を除くと、愛称で呼ばれるほど深い関係の相手は居ないはずだ。
 部屋の中に居る何者かの声は、ナイトカリス王家の誰とも一致しない。
 第二王子セティユークの声はアレイルも知らないのだが、フィリアンティスカと同い年の彼はこんな深みのある声を発しはしないだろう。

 いくら前提を並べたてた所で、何よりもはっきりとした事実がある。声の主はこう言った、「ロッドエリアに帰ろう」と。
 ロッドエリアの使者が来るのはまだ先だ。そもそも罪の塔へ入る事が許可される筈がない。ならばここに居る者は、正規の手続きを取っていないという事になる。
 この罪の塔には、元々何の仕掛けも無い。飛び降りられる高さでは無いし、鍵も掛かってはいるが、魔術師にとっては意味をなさないものだ。
 並み以上の魔術師である王妃であれば、大人しく幽閉されずとも、簡単に逃げ出す事が出来る。つまり、アレイルがそうであったように、侵入も容易いのである。

『私は帰らないわ。フィリアンティスカに会えなくなるもの』

 王妃が冷静な声で返事をするのが聞こえてきた。どうやら意識ははっきりとしているらしい。眠らせて強引に攫う訳では無いようだ。

『そこに居る娘の事か?』
『そうよ。私の娘。可愛いでしょう』
『なら、娘も連れて行けば良い』
『駄目よ、フィリアンティスカはこの国に婚約者がいるのよ』

 男の発言から、フィリアンティスカも一緒にいることが分かった。
 会話の内容が不穏である。婚約者とはアレイルの事だ。下手をすれば、大事な婚約者まで連れていかれてしまう。

『ヴィティア、このままでは一生を牢で過ごす事になるぞ。ナイトカリスは駄目だ、お前を解放する気など微塵も無い。私はこの国に、もう何の期待もしない』

 アレイル自身を責められたような気持ちになった。
 ロッドエリア側は分かっているのだ。いくら訴えようとも、王妃の待遇が改善される事は無い事を。
 では、使者の件は何だったのか。――もう何の期待もしない、と言うのであれば、何の為に話し合いの場を設けたのか。
 最近何かにつけて思い出す、ダグラスの意味深な声が脳内で蘇った。彼はやはり、何か感づいていたのではないだろうか――
 不吉な想像がどんどん膨れ上がっていく。

『……やめて下さい』

 毎日思い返さない事は無い、聞きなれたフィリアンティスカの声がした。いつもより少し高い声に、彼女が緊張しているのだと知る。

『母を、連れて行かないで下さい……』

 微かな靴音と、布が擦れる音と共に、か細い懇願が聞こえる。連れて行かせまいと、フィリアンティスカが母の腕を引いたのかもしれない。
『勘違いするな』、王妃に話し掛ける時とは打って変わって、男の声が冷たくなる。『私が大切なのはヴィティアだけだ。本来であれば、お前など捨て置く』

『数年間、ただヴィティアを閉じ込めたままにしておいた無能が、私に意見出来るなどと思わない事だ』
『ちょっとお兄様、フィリアンティスカを脅かさないで』
『……ヴィティア、お前は昔からそうだ。優し過ぎて自分を犠牲にする。そもそも、この娘を助けたがために、お前はこんな目に合っているのだぞ。……こんな所に嫁がせるのでは無かった。娘を助けた母親を牢に放り込むような国に、大事な妹を置いてはおけない』

 やはり予感は的中していた。まさかとは思ったが、今王妃と話しているのは、ロッドエリアの王族……二人いる王妃の兄の内、どちらかだ。即ち、国王か、王弟という事である。
 侵入者があまりの大物だったため、アレイルの背中に冷や汗が滲む。
 その上、こちら側の事情は全て筒抜けらしい。彼はどのような手段で国を越えてきたのだろう。ナイトカリス側は全く気付いていない。内通者がいる可能性も否定出来なかった。
 特殊な方法――魔術のみで来たのだとすれば、ロッドエリアにも相当の使い手がいるという事になる。ヴァレルが簡単そうに使う転移魔術は、行使するのに必要である膨大な魔力量と高い難易度から、使い手が限られているのだ。
 この部屋にいる本人が、その使い手だとしたら――準備も無いアレイルだけで、対処出来るか分からない。応援を呼べたとしても、そもそもナイトカリスにはロッドエリアに対抗できるほど魔術師は居ない。

(だから言ったんだ、魔術師育てましょうよ、って)

 今考えても仕方のない恨み言を内心で呟きながら、アレイルは気付かれないように魔術を展開する。

(このまま王妃が連れ去られたらどうなる? そんなの決まっている、戦争だ。大事なものは取り返したんだから、ロッドエリアにはもう怖いものなんて無い)

 ロッドエリアからの侵入者による魔術を上書きする。無効化する。静まり返っていた部屋の外に、少しずつ音が戻ってきた。監視が戻ってきたのか、階下から物音がする。

(では戦争になったらどうなる? 今まで何度も会議で言ってきただろう、俺達には対抗する手段なんてないんだ。今の騎士隊では駄目だ。今戦争になったら、ナイトカリスは確実に――)

『……なんだ?』

 異変に気付かれたらしい。男が怪訝そうな声を出した。アレイルは扉に手を当てるのを止めて、最上階へ続く階段の陰に身を隠す。
 透過の魔術は解いたが、男が行使した『人を寄せ付けない』『部屋の中の様子を窺えない』といった効果がある魔術も完全に消し去ったため、耳をそばだてれば階下の音も拾える状態だ。元々塔内は音が響きやすい。部屋の外が騒がしくなれば、密談を続ける事も出来なくなるだろう。
 まだ話し合いの途中である。王妃が頷かなければ、ひとまず退いてくれないだろうか……そんな楽観的過ぎる策しか浮かばなかった。
 王族一人が乗り込んできているのだ、何の準備もしていないはずが無いのに。
 すぐにでも攻め入る用意があると考えるのが普通だ。その場凌ぎをした所で、もう無駄かもしれない。

『お兄様、魔術が解けたわよ。今日の所は取りあえず帰ってくれる?』
『お前がやったのか、ヴィティア』
『……フィリアンティスカも、王宮に帰りなさい』
『ヴィティア!』

 王妃が上手く宥めようとしてくれている。彼女はこちら側だ。酷い扱いを受けても、王妃はナイトカリスの事を考えている。
 魔術の行使者を明言しない事で、話を逸らそうともしていた。部屋のすぐ外に敵がいると分かれば、男を刺激してしまうからだろう。
 いいぞ、そのまま帰ってくれ――アレイルは気を張りつめたまま祈った。

『今日の所も何も――――最後通告など、とうに終わっているのだ。先の会談は、お前を取り戻すまでの時間稼ぎに過ぎない』

 みしり……何かがひび割れる重い音が、何処かから伝わってくる。
 野生の動物が大群で押し寄せてくるような、早鐘を打ち鳴らすような――苦しい圧迫感がアレイルを襲った。
 息を詰めた瞬間。

『ロッドエリアは、ナイトカリスを見限っている。もう遅いのだよ、ヴィティア』

 大き過ぎる衝撃に、アレイルは立っていられなくなった。
 精神的にではない。足元がぐらりと揺れて、ガラガラと石の塔が崩壊する音に、耳が詰まったような感覚がする。
 壁に手をつきながら振動に耐え、何とか王妃の部屋を見ると、壁が半壊して、中の様子が見えるようになっていた。
 そこに立っていた老年の男は、身の丈ほどもある、太く大きな杖を床に打ち付けていた。
 杖の先が発光している。彼が魔術を使ったのだ。
 罪の塔の崩壊はまだ止まない。

 悲鳴が聞こえた。フィリアンティスカの声だった。アレイルは必死で視線を巡らせ、彼女の姿を探す。まだぐらぐらと揺れる不安定な床の上に、フィリアンティスカはへたりこんでいた。すぐ隣に王妃も立てない様子で座り込んでいる。
 石の床に亀裂が走る。線は徐々に、フィリアンティスカの足元へと向かっていた。
 危ない――アレイルの喉から声が出る寸前で、男は王妃の手を取って抱き寄せた。「ヴィティア、危ないよ」
 しかし男は、フィリアンティスカを冷たく見下ろし、「お前が居なければ、ヴィティアがこの国にこだわる理由も無いのだろう。助ける義理は無い」無駄によく通る声で吐き捨てた。興味を失ったように。
 石の床が割れる。
 アレイルの目の前で、フィリアンティスカが宙に投げ出された。
 割れ目と共にフィリアンティスカが落ちていくのを、ロッドエリアの男は無感情の目で見ている。
 今度は王妃が悲鳴を上げた。意味を持たない叫び声は、フィリアンティスカの体を浮かせてはくれなかった。

「――――姫様!!」

 アレイルは発動したままの浮遊魔術で、思い切り空を駆けた。
 耳の奥が焼けるように熱い。何も考えていなかった。何よりも誰よりも早く、あの方を助けるのだと、体が勝手に動きだしていた。
 姿を見られてはいけないなどと考えている余裕は無かった。
 落ちていく王女は、恐怖で体を硬直させていた。波打つ長い黒髪が風に舞う。自分の置かれた状況についてか、それとも突然現れたアレイルについてか、表情は驚愕したもので、その青い瞳を、目いっぱい見開いていた。
 伸ばしたアレイルの手が、フィリアンティスカの腰を掴む。ずしりとした重みを感じた時、アレイルは決して離すまいと彼女を強く抱きしめた。
 空に居るのに、床を踏む感覚がある。魔術の効果で、アレイルは宙に浮いていた。
 フィリアンティスカを横抱きにして、彼女の顔や体を見る。ドレスには、引っかけて破れた個所があったが、大きな怪我は無いようだ。だが服に隠れて見えない打撲はあるかもしれない。

「姫様、痛むところは」

 心臓が鳴りやまない。抱きしめたまま問いかけるが、フィリアンティスカは茫然として、「な、なん、なんで」と上手く返事が出来ないでいる。

「……ほう、魔術師か」

 こちらの緊張を他所に、落ち着いた調子の、先ほどから嫌になるほど聞いた重々しい声が降ってきた。
 フィリアンティスカを、見捨てた男――
 ――アレイルは思わず睨み付けるように、恨みを込めてロッドエリアの男を見返した。
 白髪を蓄えた、背の高い男だ。歳の割に、しゃんと立っている。王妃を支える腕も足も、頼りない所は無い。鋭い目付きが威圧的なのは、為政者ゆえだろうか。纏う空気が重々しい。男の太く強い足の周りは崩れる事なく、発光する杖が安定して男を守っていた。

「浮遊魔術をそこまで安定させられる奴は、ロッドエリアにもそう居ない。……なるほど。私の魔術を打ち消したのもお前だな?」

 一瞬で見破られ、アレイルは危険な男の前に姿を現してしまった事を自覚する。
 男に抱えられた王妃も険しい顔をしているが、彼女はフィリアンティスカの無事を目で確かめて、安堵の息を吐いていた。

「そう睨むな……。なんだ、こんな国にも、使えそうな者は居るではないか。お前、この国では生きにくかろう? ナイトカリスが滅んだ後は、ロッドエリアに来ると良い」

 ――――嫌いだ。
 本能的にそう思った。
 フィリアンティスカの命を軽んじた時点で、男の話に耳を傾けたくは無い。どうせ何を言った所で、この男は自分のしたい事を、今みたいに、思うまま行うに違いない。
 だがここが生命線だ。
 彼の気まぐれで、戦争を回避出来る可能性が、万に一つでもあれば――――

「なに、そう待たせはしない」

 アレイルの返事などどうでもいいとばかりに、男は勝手に話し続ける。一番優先すべき目的は果たしたからか、王妃が腕の中にいて、彼は上機嫌だった。

「王宮に攻め入ったのはとっくの前だ。もう制圧し終えるだろう」

 遠くで音が鳴った。今しがた聞いたものと、よく似た音だった。
「な、何?」フィリアンティスカが、怯えたようにアレイルの肩を振り返る。目線の先には王宮があるはずだ。

「戦争はもう始まった――いや、終わった。そこの魔術師、死にたくなければ、ナイトカリスの騎士共があらかた死ぬまで隠れていろ。優秀な魔術師ならば、ロッドエリアへ迎え入れてやってもいい」

 ロッドエリアの男は、大きな杖を強く床に打ち付けた。男の足元に、一際強い光が集まる。
 光の線が、男と王妃の周りを回った。
 転移魔術を発動している事がすぐに分かった。

「ヴィランティーナは連れて帰る」

「待って!」フィリアンティスカが、アレイルの腕の中から叫ぶ。「行っては嫌! 居なくならないで! お母様……!」

 フィリアンティスカの願いに、王妃は応えようとした。彼女は最後に、娘に向かって手を伸ばしていた。
 だが線が一周するころ、まるで最初から誰も居なかったように、二人は揃って姿を消してしまった。

 男が消えた直後、罪の塔は一気に崩落した。砂埃を避けようと、アレイルは王女を抱えたまま後ろへ飛ぶ。
 遠くからも崩壊の音が聞こえた。何が起こっているのか、目の前の無残な塔を見れば、王宮の状態も想像出来る。
 一番守りの固い王宮が、真っ先に落とされるなど――有り得ない。あってはならない。
 こちらには何の情報も無かった。
 つい先ほどまで、ただのうのうと、ロッドエリアからの使者を、どう言いくるめようかと考えていたのだ。

(何が、騎士の国だ……!)
 騎士といえど、所詮ただの人間だ。非力な人間が、人知を超えた魔術師達を前に、勝てる訳が無い。
(千年に一度の魔術師と呼ばれながら、この様は)
 いくら魔術に秀でていようと、国に対してアレイル一人では何も出来ない。
 人の事ばかり言いながら、自分とて平和に胡坐をかいて、堕落した騎士隊と国に染まっていた。
 国境を一瞬で越えて攻めてくる相手に、ナイトカリスは為すすべも無い。
 予兆は既に、あったというのに。
 ナイトカリスはもう駄目だ。だが騎士であるならば、剣を取り、王宮に向かわねばならない事は分かっていた。しかし、フィリアンティスカの側を離れたくはない。
(たとえ国が滅んでも、姫様だけは……)
 悪い考えが浮かぶ。そうだ、どうせもう駄目ならば、いっその事このまま――

「レイ、王宮へ向かって……」

 フィリアンティスカが鼻を鳴らした。アレイルの思惑を否定するように、強く抱きついてくる。

「どうにもならなくても……」

 続く言葉は掠れて、最後は聞こえなくなった。
 王女の立場や矜持を蔑にすることは出来ない。
 二人だけで逃げる事など、フィリアンティスカが許しはしないだろう。
 アレイルは、自分の中に一瞬芽生えた惰弱な願いを打ち消した。
 空中に立ったまま、右足を打ち付ける。床は存在しないが、固い物を叩く音がした。
 アレイルの足元が、円を描いて発光する。
 ――せめて最後まで、フィリアンティスカを守らなければ……
 自分の死期を思いながら、アレイルは素顔を晒したまま転移魔術を使った。


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