婚約破棄された悪役令嬢ですが、ノーダメージです!

猫宮かろん

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王都での騒動を終え、私たちは数日かけて鉱山街へと戻ってきた。

行きは怒りに燃える進軍だったが、帰りは勝利の凱旋パレードだ。
ただし、荷台には大量の戦利品(慰謝料で購入した最新のトレーニング器具)と、一人の「新しい従業員」が積まれている点が普通とは違うけれど。

「も、もう歩けないよぉ……。馬車に乗せてくれよぉ……」

荷台の後ろをトボトボと歩く、ボロボロの服を着た青年――元王太子ジュリアンが情けない声を上げる。

「甘えるな新人! これは足腰を鍛える『ウォーキング・ランジ』の代わりだ! 歩幅を広げて、大臀筋(お尻の筋肉)を意識しろ!」

荷台の上からガンツが檄を飛ばす。

「ひぃぃっ! 鬼だ! ここは地獄だぁぁ!」

ジュリアンの悲鳴をBGMに聞きながら、私たちの馬車は夕暮れの『喫茶・マッスル』に到着した。

「ただいま、私の愛しき城(ジム)よ!」

懐かしい鉄と汗の匂い。
私は大きく息を吸い込んだ。
王都の香水臭い空気より、ここの方が百倍落ち着く。

「さあ、みんな! 荷解きをして、明日の営業に備えるわよ! 新人は皿洗い場の掃除から始めなさい!」

「へ、へい……わかりました……」

ジュリアンが死んだ魚のような目で裏口へと消えていく。
彼にはこれから、たっぷりとしごかれてもらうとしよう。

   ◇

荷解きが一段落し、店員たちも寮へ戻った深夜。
店内には私とクロード様、二人だけが残っていた。

「……静かだな」

カウンター席に座るクロード様が、ポツリと呟く。
昼間の喧騒が嘘のように、静謐な空気が流れている。
ただ、冷蔵庫のモーター音だけがブーンと響いていた。

「ええ。……約束通り、プロテイン抜きの時間ですわ」

私はカウンターの中で、いつものシェイカーではなく、綺麗に磨かれたグラスを二つ取り出した。
中身は水だ。
今の私たちに、余計な味付けはいらない。

「マーヤ」

クロード様が私を真っ直ぐに見つめた。
そのアイスブルーの瞳は、戦場で敵を射抜く時よりも真剣で、そして少しだけ潤んでいるように見えた。

「王都での君は、見事だった」

「あら、クロード様こそ。あの肉体美、一生網膜に焼き付けておきますわ」

「……ふっ。君には敵わんな」

彼は小さく笑い、そしてスッと表情を引き締めた。
空気が変わる。
来る。
私の心臓が、スクワットの最高負荷時みたいにバクバクと鳴り始めた。

「単刀直入に言おう」

彼はカウンター越しに、私の手をそっと握った。
その手は大きく、タコだらけで、ゴツゴツしていて……最高に男らしい手だ。

「私は、君が好きだ」

「……っ!」

「最初は、変わった女だと思った。筋肉のことばかり話し、色気のかけらもない作業着で動き回る。……だが」

彼は親指で、私の手の甲を優しく撫でた。

「君のその強さに、惹かれたんだ。自分の足で立ち、何者にも屈せず、大切なものを守ろうとするその姿勢に。……私の『氷』を溶かしたのは、君のその熱量だ」

直球だった。
変化球なしの、剛速球の愛の言葉。
私の頬が熱くなるのが分かる。
扇で隠す余裕すらない。

「私も……」

私は震える声で返した。

「私も、クロード様のことが……大好きですわ」

「本当か?」

「ええ。最初は、ただの『最高級の筋肉素材』としか見ていませんでしたけれど」

「……正直だな」

「でも、今は違います。……いえ、違わなくはないですが」

私は慌てて言い直した。

「貴方のその筋肉だけでなく、不器用な優しさも、意外と甘党なところも、私を守ってくれる頼もしさも……全部ひっくるめて、お慕いしております」

「マーヤ……」

クロード様の顔がぱぁっと明るくなった。
まるで少年のような、無防備な笑顔。
破壊力が凄まじい。
私の理性が蒸発しそうだ。

「では、私の妻に……公爵夫人になってくれるか?」

彼が核心を突く。
プロポーズだ。
あの「勘違い」から始まった関係が、ついに本物の契約へ。

普通の令嬢なら、ここで泣いて喜んで「はい」と言うだろう。
でも、私はマーヤ・ベルンシュタイン。
ただ頷くだけの女ではない。

「……条件がございます」

「条件?」

クロード様がキョトンとする。

「はい。公爵夫人にはなりますが……この店の経営は続けさせていただきます。そして、今後も貴方の筋肉を最優先で鑑賞する権利(VIPパス)をください」

「……」

彼は一瞬呆気に取られたが、すぐに肩を震わせて笑い出した。

「くくっ……ははは! やはり君は面白い」

彼は私の手を強く握り返した。

「いいだろう。店も、筋肉も、全て君のものだ。……むしろ、私の方から頼みたいくらいだ。これからも、私にあの美味いミルク(プロテイン)を作ってくれ」

「ふふっ、交渉成立ですわね」

私たちはカウンター越しに見つめ合い、笑い合った。
ロマンチックなムードなのに、会話の内容は筋肉とプロテイン。
でも、それが私たちなのだ。

「では、契約の盃を交わしましょうか」

私はグラスを掲げた。

「ええ。……乾杯」

チンッ。
澄んだ音が響く。
私たちは水を飲み干した。
ただの水なのに、どんな高級なワインよりも甘く感じた。

「……さて」

飲み終えたクロード様が、急に立ち上がった。
そして、カウンターを回り込んで私の隣に来る。

「えっ、あの、クロード様?」

至近距離。
彼の体温と、男らしい匂いが包み込む。
見上げると、彼の顔がすぐそこにあった。

「契約には、印が必要だろう?」

「い、印って……拇印ですか? それともサイン?」

「いいや。……これだ」

彼は私の腰に手を回し、軽々と――それこそダンベルを持ち上げるように――私を抱き寄せた。
そして、そのまま唇を重ねてきた。

「んっ……!」

甘い。
プロテインよりも、プリンよりも甘いキス。
彼の厚い胸板が私に押し付けられ、その心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。

(ああっ、大胸筋の弾力が……! すごい密着感……!)

こんな時でも筋肉の感触を分析してしまう自分を殴りたいが、今はただ、この幸せに溺れることにした。

長いキスの後、彼はゆっくりと顔を離した。
その瞳は、とろけるように甘く私を見ていた。

「……これからもよろしく頼む。私の、可愛いマッスル・プリンセス」

「……もう、その呼び方はやめてくださいまし」

私は真っ赤になって彼の胸に顔を埋めた。
硬い。
安心する硬さだ。

こうして、私たちの関係は「店主と常連客」から「婚約者」へと進化した。
最強の筋肉カップルの誕生である。

だが、甘い時間はそう長くは続かない。
翌朝からはまた、ドタバタな日常が待っているのだ。
特に、あの元王太子(新人バイト)の教育という大仕事が。

「ふふふ……明日は『スクワット地獄』よ、ジュリアン」

クロード様の腕の中で、私は幸せそうに、しかし少しだけ黒い笑みを浮かべて呟いた。
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