婚約破棄された悪役令嬢ですが、ノーダメージです!

猫宮かろん

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「いやだぁぁぁ! もう腕が上がらないよぉぉぉ!」

爽やかな朝の『喫茶・マッスル』に、似つかわしくない悲鳴が響き渡った。

厨房の洗い場。
そこにいるのは、かつて絹の服を着ていた元王太子、現在は「新人バイトA」ことジュリアンだ。
彼は山のように積まれた汚れた皿(昨夜の宴会の残骸)と格闘していた。

「おい新人! 手が止まってるぞ!」

監視役のガンツが、ジュリアンの背中をビシッと叩く。

「ひぃっ! だ、だって……こんな量、一人で洗うなんて無理だよ! 洗剤で手が荒れちゃう!」

「甘ったれんな! 皿洗いこそが『前腕筋群』を鍛える最高のトレーニングなんだよ! 一枚洗うごとに手首のスナップを効かせろ! こうだ!」

ガンツが見本を見せる。
キュキュッ! という高速回転音と共に、皿が一瞬でピカピカになった。
無駄にキレのある動きだ。

「さあやってみろ! 目標は一分間に十枚だ!」

「む、無理無理無理ぃぃ!」

泣きながらスポンジを握るジュリアン。
私はその様子をカウンターから優雅に眺めながら、モーニングコーヒー(プロテイン入り)を飲んでいた。

「ふふふ、いい悲鳴ね。肺活量が鍛えられている証拠だわ」

「……あいつ、本当に使い物になるのか?」

隣で新聞を読んでいたクロード様が、呆れたように呟く。
彼は当たり前のように開店前から店に居座り、私の隣でくつろいでいる。
婚約したことで、完全に「身内」の顔だ。

「なりますわよ。今はただの『贅肉の塊』ですけれど、半年もすれば立派な細マッチョくらいには」

「……気が長いな」

「人材育成は忍耐ですもの。……さて、クロード様」

私はカップを置き、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

「婚約の件ですが、正式な手続きの前に、こちらの『合意書』にサインをお願いできますか?」

「合意書?」

クロード様が眉をひそめる。
貴族間の結婚には契約がつきものだが、私が差し出したのは通常のものとは少し違う。

「私たちが円満な家庭(ジム)を築くための、重要な条件ですわ」

私は羊皮紙を広げた。
そこには、昨夜徹夜で考えた条文がびっしりと書かれている。

『第一条:マーヤ・ベルンシュタイン(以下、甲)は、公爵夫人となった後も、カフェ経営及び筋肉鑑賞の権利を永続的に保有する』

「……まあ、これは昨夜言った通りだ。問題ない」

クロード様が頷く。

『第二条:クロード・ヴァン・ハイゼン(以下、乙)は、甲に対し、一日一回以上の「筋肉チェック(触診含む)」を許可しなければならない』

「……毎日か?」

「ええ。筋肉のコンディションは日々変化しますから。健康管理の一環です」

「……分かった。ただし、人前では控えてくれ」

『第三条:乙は、甲が考案した新メニュー(主にプロテイン系)の試食を拒否してはならない。たとえ味がドロドロの沼のようであっても』

「待て。最後の一文が不穏すぎる」

クロード様の顔が引きつった。

「安心してください。味は保証しますわ(栄養価的な意味で)。……それに、私の料理を食べていれば、今の筋肉量を維持できますもの」

「……むう。君のミルクが美味いのは認めるが」

『第四条:夫婦喧嘩をした際は、口論ではなく「スクワット対決」または「アームレスリング」にて勝敗を決することとする』

「……物理か」

「言葉の暴力は心を傷つけますが、筋トレは体を健康にしますから。平和的解決策ですわ」

私はニッコリと微笑んだ。
なんて合理的な契約書だろう。

クロード様はしばらく羊皮紙を睨んでいたが、やがて諦めたように(あるいは楽しそうに)ペンを取った。

「……いいだろう。全て受諾する」

「ありがとうございます! これで私たちは『最強のパートナー』ですわね!」

さらさらとサインが書き込まれる。
これで契約成立だ。
私はご機嫌で書類を回収した。

その時、厨房からガシャーン! と盛大な音がした。

「ああっ! また割りやがったな!」

「わ、わざとじゃないんだ! 手が滑って……!」

ジュリアンが床に散らばった皿の破片の前で震えている。
私はため息をつき、カウンターを出て厨房へ向かった。

「新人くん。皿を一枚割るごとに、借金に『慰謝料』が上乗せされるシステムだと説明しましたわよね?」

「ひぃっ! ま、マーヤ……いや、店長! 許して! もう腕がプルプルして力が入らないんだ!」

ジュリアンが私の足元に縋り付く。
その手は白くふやけていて、確かに限界のようだ。

「……仕方ありませんわね」

私は慈悲深い女神のような顔で言った。

「皿洗いは一旦中止します」

「ほ、本当!? ありがとう!」

「ええ。腕が疲れたのなら、次は『足』を使いましょう」

「え?」

私は店の裏口を指差した。

「水汲みに行ってきてちょうだい。裏の井戸から、このバケツ二つに満タンにして」

渡したのは、鉄製の巨大なバケツだ。
水を入れたら一つ20キロはあるだろう。

「こ、これで水を……? 何往復?」

「店の手瓶がいっぱいになるまでよ。ざっと五十往復くらいかしら」

「ご、ごじゅう……!?」

「あ、ただ運ぶだけじゃダメよ。一歩ごとに深く腰を落とす『ランジ』の姿勢で歩くこと。そうすれば、お皿を割った分のペナルティはチャラにしてあげます」

「き、鬼だ……! 悪魔だぁぁ!」

ジュリアンは泣き叫びながら、ガンツに蹴飛ばされて裏口へと追い出されていった。

「ふふっ、いい悲鳴。……彼、意外と素質があるかもしれませんわね」

「どこの部分がだ?」

いつの間にか後ろに来ていたクロード様が尋ねる。

「根性ですわ。普通の軟弱な貴族なら、とっくに逃げ出しているか気絶していますもの。文句を言いながらも続けているのは、彼の中に眠る『ドMな才能』……いえ、『粘り強さ』がある証拠です」

「……君の教育方針はスパルタだな」

「愛の鞭ですわ」

私は振り返り、クロード様の胸板にトンと指を置いた。

「さて、私たちも忙しくなりますわよ。結婚式の準備に、公爵邸のリフォーム……やることが山積みです」

「リフォーム? 屋敷に不備でも?」

「ええ、大ありです。……昨日、少し拝見しましたけれど、貴方の屋敷には『トレーニングルーム』がありませんでしたわ」

「……普通はない」

「ありえません! 公爵たるもの、自宅にベンチプレス台の一つもないなんて! 庭のバラ園を潰して、青空ジムを作りましょう」

「バラ園を!? あれは先代が大切に……」

「バラよりもバーベルです。美しい花は一瞬で散りますが、筋肉は裏切りません」

私の力説に、クロード様は額を押さえた。

「……分かった。君の好きにしろ。ただし、母上の植えた一角だけは残してくれ」

「交渉成立ですわ。……ふふ、楽しみ!」

私の頭の中には、すでに公爵邸の改造計画図が出来上がっていた。
広大な庭には鉄棒と懸垂マシン。
廊下にはダンベルスタンド。
そして寝室の天井には、起き上がると同時に腹筋ができるロープを設置して……。

「マーヤ。顔が邪悪になっているぞ」

「あら、失礼な。希望に満ちた顔と言ってくださいな」

私はエプロンの紐を締め直し、気合を入れた。

「さあ、今日も開店の時間よ! ガンツ、新人の様子を見てきて! サボっていたらスクワット百回追加よ!」

「イエスマッスル!」

こうして、私の「公爵夫人」への道と、ジュリアンの「更生(筋肉)」への道が同時にスタートした。
前途多難?
いいえ、前途洋々だ。
私たちの前には、輝かしい筋肉の未来が待っているのだから。

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