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「……月が綺麗ね」
約束の期限である三日目の夜。
私は自室のバルコニーに出て、満月を見上げていた。
手には冷えたシャンパン。
風は穏やかで、虫の声だけが聞こえる。
逃亡準備は……していない。
トランクは部屋の隅に置かれたままだ。
「……はあ。私としたことが、焼きが回ったわね」
ここ数日、私は真剣にシミュレーションをした。
このまま逃げ出して、他国で一から生活基盤を築くコスト。
対して、ここに留まり、国家予算の半分とイケメン皇帝を手に入れるリターン。
どう計算しても、後者が圧倒的にお得なのだ。
悔しいけれど、私の脳内そろばんは正直だ。
「……それに、あの男も意外と悪くないし」
独り言を呟いた瞬間、背後から気配がした。
「誰が悪くないって?」
「ひゃっ!?」
私は飛び上がり、シャンパンをこぼしそうになった。
振り返ると、バルコニーの手すりにアレクシスが座っていた。
いつもの軍服ではなく、ラフなシャツ姿だ。
月光に照らされたその姿は、無駄に絵になっていて腹が立つ。
「……不法侵入よ。ここは私の『聖域』に指定したはずだけど?」
「まだ法案は施行されていない。サインがまだだからな」
アレクシスは軽やかに飛び降り、私の隣に立った。
「期限だぞ、ミリオネ。腱鞘炎は治ったか?」
「……一進一退ね。まだペンを持つと震えるわ」
「嘘をつけ。さっき夕食で、ナイフとフォークを高速で操っていただろう」
「あれはリハビリよ」
私がそっぽを向くと、アレクシスはクスクスと笑った。
そして、私の手からグラスを取り上げ、一口飲んだ。
「……間接キスよ」
「今更だろう。……で? 答えは?」
彼は手すりに背を預け、私を見下ろした。
その瞳は、いつになく真剣で、そして少しだけ不安そうに見えた。
私はため息をついた。
「……ねえ、アレク。一つだけ確認させて」
「なんだ」
「本当に私でいいの? もっと可愛げのある、素直な令嬢なんて山ほどいるでしょ? 私と結婚したら、毎日罵倒されるわよ? 『邪魔』『臭い』『死ね』って言われ続けるのよ?」
私は脅すように言った。
普通の男なら、ここで「それはちょっと……」と引くはずだ。
しかし、アレクシスはきょとんとした顔をした後、真顔で答えた。
「それがいいんだ」
「……は?」
「最近、君の悪態がないと、どうも調子が出なくてな。君に『死ね』と言われると、『ああ、今日も生きているな』と実感できる」
「……」
私は絶句した。
「……あなた、ドMなの?」
「君限定だ」
彼は即答した。
「他の人間に言われたら即刻処刑だが、君の毒舌には愛がある(※ありません)。君の冷ややかな視線は、私を奮い立たせるガソリンだ」
「……重症ね。医者に見せた方がいいわ」
「医者でも治せない。特効薬は君だけだ」
アレクシスが一歩近づく。
私は後ずさりしようとしたが、背中はすでに手すりだ。
「逃げ場はないぞ」
彼は私の頬に手を添えた。
その手は熱く、震えるほど優しい。
「ミリオネ。私は君の有能さを愛している。だがそれ以上に、君という人間そのものが欲しい」
「……」
「君が隣にいない人生など、退屈で死んでしまいそうだ。……私を助けると思って、サインしてくれないか?」
狡い。
「助けると思って」なんて言われたら、断れないじゃない。
私は観念した。
完敗だ。
論理でも、感情でも、彼に勝てる要素が一つもない。
「……はあ」
私は大きく、長く息を吐き出した。
「……高くつくわよ?」
「覚悟の上だ」
「毎日マンゴーを取り寄せるわよ?」
「農園ごと買収済みだ」
「朝は昼まで寝るわよ?」
「一緒に寝よう」
「……もうっ!」
私は彼の手を振り払い、その胸に飛び込んだ。
「分かったわよ! 負け! 私の負け! 結婚してあげるわよ!」
「……本当か?」
「ええ。ただし! クーリングオフ期間を設けること! 一週間以内に私が『やっぱり無理』って言ったら白紙に戻すからね!」
「一週間あれば十分だ。君を骨抜きにしてみせる」
アレクシスは私を強く抱きしめた。
痛いくらいの力。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ、安心感で体が溶けそうだ。
「……覚悟しておきなさいよ、アレク。私は国母になっても、絶対に猫を被ったりしないから」
「望むところだ。そのままの君でいてくれ」
「国が滅びても知らないからね」
「君となら、滅びるのも一興だ」
「……馬鹿な男」
私は彼の背中に手を回し、少しだけ爪を立てた。
「……ま、悪くない選択だとは思うわ。投資先としてはね」
「素直じゃないな」
「うるさい」
月明かりの下。
私たちの影が一つに重なる。
ロマンチックな雰囲気……かと思いきや、私の頭の中はすでに「結婚式の予算」と「披露宴の料理メニュー」の計算でフル回転していた。
(海龍のステーキは必須として、デザートはビュッフェ形式にして……引き出物は実用的な現金給付がいいかしら……)
「……ミリオネ。今、金の計算をしていただろう」
「あら、バレた?」
「君の目が『¥』マークになっていた」
「失礼ね。これからの生活設計よ」
アレクシスは呆れたように笑い、そしてゆっくりと顔を近づけてきた。
「計算は後だ。今は……これを受け取ってくれ」
唇が触れる。
甘くて、少し強い口づけ。
計算機が止まる。
思考が真っ白になる。
(……うん、まあ……これ(キス)の対価としては、悪くない条件ね……)
私は目を閉じ、彼の熱を受け入れた。
こうして、史上最も計算高く、かつ最も不敬な「悪役令嬢皇后」が誕生することになったのだった。
約束の期限である三日目の夜。
私は自室のバルコニーに出て、満月を見上げていた。
手には冷えたシャンパン。
風は穏やかで、虫の声だけが聞こえる。
逃亡準備は……していない。
トランクは部屋の隅に置かれたままだ。
「……はあ。私としたことが、焼きが回ったわね」
ここ数日、私は真剣にシミュレーションをした。
このまま逃げ出して、他国で一から生活基盤を築くコスト。
対して、ここに留まり、国家予算の半分とイケメン皇帝を手に入れるリターン。
どう計算しても、後者が圧倒的にお得なのだ。
悔しいけれど、私の脳内そろばんは正直だ。
「……それに、あの男も意外と悪くないし」
独り言を呟いた瞬間、背後から気配がした。
「誰が悪くないって?」
「ひゃっ!?」
私は飛び上がり、シャンパンをこぼしそうになった。
振り返ると、バルコニーの手すりにアレクシスが座っていた。
いつもの軍服ではなく、ラフなシャツ姿だ。
月光に照らされたその姿は、無駄に絵になっていて腹が立つ。
「……不法侵入よ。ここは私の『聖域』に指定したはずだけど?」
「まだ法案は施行されていない。サインがまだだからな」
アレクシスは軽やかに飛び降り、私の隣に立った。
「期限だぞ、ミリオネ。腱鞘炎は治ったか?」
「……一進一退ね。まだペンを持つと震えるわ」
「嘘をつけ。さっき夕食で、ナイフとフォークを高速で操っていただろう」
「あれはリハビリよ」
私がそっぽを向くと、アレクシスはクスクスと笑った。
そして、私の手からグラスを取り上げ、一口飲んだ。
「……間接キスよ」
「今更だろう。……で? 答えは?」
彼は手すりに背を預け、私を見下ろした。
その瞳は、いつになく真剣で、そして少しだけ不安そうに見えた。
私はため息をついた。
「……ねえ、アレク。一つだけ確認させて」
「なんだ」
「本当に私でいいの? もっと可愛げのある、素直な令嬢なんて山ほどいるでしょ? 私と結婚したら、毎日罵倒されるわよ? 『邪魔』『臭い』『死ね』って言われ続けるのよ?」
私は脅すように言った。
普通の男なら、ここで「それはちょっと……」と引くはずだ。
しかし、アレクシスはきょとんとした顔をした後、真顔で答えた。
「それがいいんだ」
「……は?」
「最近、君の悪態がないと、どうも調子が出なくてな。君に『死ね』と言われると、『ああ、今日も生きているな』と実感できる」
「……」
私は絶句した。
「……あなた、ドMなの?」
「君限定だ」
彼は即答した。
「他の人間に言われたら即刻処刑だが、君の毒舌には愛がある(※ありません)。君の冷ややかな視線は、私を奮い立たせるガソリンだ」
「……重症ね。医者に見せた方がいいわ」
「医者でも治せない。特効薬は君だけだ」
アレクシスが一歩近づく。
私は後ずさりしようとしたが、背中はすでに手すりだ。
「逃げ場はないぞ」
彼は私の頬に手を添えた。
その手は熱く、震えるほど優しい。
「ミリオネ。私は君の有能さを愛している。だがそれ以上に、君という人間そのものが欲しい」
「……」
「君が隣にいない人生など、退屈で死んでしまいそうだ。……私を助けると思って、サインしてくれないか?」
狡い。
「助けると思って」なんて言われたら、断れないじゃない。
私は観念した。
完敗だ。
論理でも、感情でも、彼に勝てる要素が一つもない。
「……はあ」
私は大きく、長く息を吐き出した。
「……高くつくわよ?」
「覚悟の上だ」
「毎日マンゴーを取り寄せるわよ?」
「農園ごと買収済みだ」
「朝は昼まで寝るわよ?」
「一緒に寝よう」
「……もうっ!」
私は彼の手を振り払い、その胸に飛び込んだ。
「分かったわよ! 負け! 私の負け! 結婚してあげるわよ!」
「……本当か?」
「ええ。ただし! クーリングオフ期間を設けること! 一週間以内に私が『やっぱり無理』って言ったら白紙に戻すからね!」
「一週間あれば十分だ。君を骨抜きにしてみせる」
アレクシスは私を強く抱きしめた。
痛いくらいの力。
でも、不思議と嫌じゃない。
むしろ、安心感で体が溶けそうだ。
「……覚悟しておきなさいよ、アレク。私は国母になっても、絶対に猫を被ったりしないから」
「望むところだ。そのままの君でいてくれ」
「国が滅びても知らないからね」
「君となら、滅びるのも一興だ」
「……馬鹿な男」
私は彼の背中に手を回し、少しだけ爪を立てた。
「……ま、悪くない選択だとは思うわ。投資先としてはね」
「素直じゃないな」
「うるさい」
月明かりの下。
私たちの影が一つに重なる。
ロマンチックな雰囲気……かと思いきや、私の頭の中はすでに「結婚式の予算」と「披露宴の料理メニュー」の計算でフル回転していた。
(海龍のステーキは必須として、デザートはビュッフェ形式にして……引き出物は実用的な現金給付がいいかしら……)
「……ミリオネ。今、金の計算をしていただろう」
「あら、バレた?」
「君の目が『¥』マークになっていた」
「失礼ね。これからの生活設計よ」
アレクシスは呆れたように笑い、そしてゆっくりと顔を近づけてきた。
「計算は後だ。今は……これを受け取ってくれ」
唇が触れる。
甘くて、少し強い口づけ。
計算機が止まる。
思考が真っ白になる。
(……うん、まあ……これ(キス)の対価としては、悪くない条件ね……)
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