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「……それで? マリエル様、あなた本当に帰らなくてよろしいの?」
私は、キッチンの隅っこで一生懸命に皿を磨いているマリエル様に、温かいお茶を差し出しました。
かつては「婚約者を奪い合ったライバル」という構図だったはずですが、今の彼女にはそんな覇気は微塵もありません。
「帰りたくありません……。あの王宮は、今や地獄ですわ。アイーナ様がいなくなった途端、書類の山は崩れ、レオン様は一日中『アイーナの愛は深い』と独り言を仰っているんですもの。怖すぎますわ!」
マリエル様は、涙で潤んだ目で私を見上げました。
「それに私、公爵令嬢に嫌がらせをされる悲劇のヒロインになりたかっただけで、実際に王妃教育を受けたいなんて一言も言っていません! あんなの、人間がやる修行ではありませんわ!」
「あら、お分かりいただけて光栄です。あの教育スケジュールを組んだ担当者は、十中八九、人の心がない悪魔だと私は思っておりますの」
私は営業用スマイルを、少しだけ「共感」の温度に変えて頷きました。
隣で煮込みの残りをお代わりしていたギルバート様が、無愛想に口を開きます。
「……アステリアの王太子は、それほどまでに無能なのか。アイーナ、貴様が全てを肩代わりしていたというのは、比喩ではなかったのだな」
「ええ、ギルバート様。彼は『王子様として美しく振る舞う』こと以外、ほとんど興味がありませんでしたの。予算書の計算も、外交官への根回しも、全て私が『愛の証』として処理してきました」
「……それがなくなった今、国政が滞るのは必然か」
ギルバート様が、少しだけ憐れむような目でマリエル様を見ました。
「アイーナ様! お願いです、私をここで雇ってください! お皿洗いでも、床掃除でも、モツの下処理でも何でもしますわ!」
マリエル様が私のスカートに縋り付いてきました。
「……お嬢様。これ、どうします? 公爵家で男爵令嬢をメイドとして雇うのは、外交問題に発展しかねませんが」
サーシャが困り顔で尋ねてきます。
私はしばし考え、いつもの完璧な笑顔で答えました。
「いいじゃありませんか。マリエル様はレオン殿下の『お気に入り』。彼女がここにいる限り、殿下は我が家を攻める大義名分を失いますわ。……という建前で、単純に労働力として歓迎しましょう」
「アイーナ様……! ありがとうございます!」
「ただし、マリエル様。私の家では、自分のことは自分でするのがルールです。お姫様扱いは期待しないでくださいね?」
「はい! 喜んで!」
まさか、マリエル様から私の決め台詞を聞くことになるとは思いませんでした。
こうして、我が家には「逃げてきたヒロイン」という奇妙な同居人が増えたのです。
「……さて。マリエル様も落ち着いたところで、次は私の『自由計画』の第二段階に移りましょうか」
「第二段階、ですか?」
ギルバート様が、興味深そうに眉を上げました。
「ええ。実は私、ずっとやってみたかったことがあるんです。……『副業』というものを!」
「「ふくぎょう……?」」
マリエル様とギルバート様の声が重なりました。
「公爵令嬢という立場上、これまでは自分の名前で商売をすることは禁じられていました。ですが、今の私は自由。この『最強の営業スマイル』と『王宮仕込みの管理能力』を活かして、町の困っている商会をコンサルティングして回るのです!」
「こんさるてぃんぐ……?」
「簡単に言えば、口を出して儲けさせる仕事ですわ」
私は懐から、昨日調査したばかりの「赤字続きのパン屋リスト」を取り出しました。
「アイーナ……貴様、本当に休むという概念がないのだな。自由になったのなら、もっと優雅に過ごせばよかろう」
ギルバート様が呆れたように笑いました。
「ギルバート様、私にとっての『優雅』とは、自分の力で状況を支配し、利益を生むことですの。……ところで、ギルバート様の国では、どのようなパンが流行っていますの?」
「……私の国か? あちらでは、保存性の高い堅焼きのパンが主流だ。だが、最近は貴族の間で柔らかい食感のものも求められているらしい」
「保存性と柔らかさの両立……。素晴らしいマーケットのヒントをありがとうございます!」
私はメモを取ると、立ち上がりました。
「さあ、マリエル様! お皿洗いが終わったら、市場調査に付き合っていただきますわよ。変装の準備をしてちょうだい!」
「ええっ!? 今からですか!? まだお茶も飲んでいないのに!」
「失業者に休息はありません。さあ、働かざる者、煮込み食うべからずです!」
私は泣き言を言うマリエル様を引きずり、意気揚々と部屋を出ていきました。
残されたギルバート様は、冷めたお茶を飲み干し、ふっと短く笑いました。
「……全く。退屈させない女だ」
彼はそう呟くと、彼女が落としていった「副業計画書」をそっと拾い上げ、その緻密な数字の羅列に驚愕するのでした。
一方。王宮。
「……マリエルも、アイーナのところへ行っただと?」
レオン殿下は、暗い部屋で一人、水晶玉を見つめていました。
「なるほど。アイーナめ、マリエルを人質に取って、私に『迎えに来い』と合図を送っているのだな……! 待っていろアイーナ、今度は最強の騎士団を連れて、お前を奪還しに行ってやる!」
……殿下の妄想は、ついに国家規模の軍事行動へと発展しようとしていました。
私は、キッチンの隅っこで一生懸命に皿を磨いているマリエル様に、温かいお茶を差し出しました。
かつては「婚約者を奪い合ったライバル」という構図だったはずですが、今の彼女にはそんな覇気は微塵もありません。
「帰りたくありません……。あの王宮は、今や地獄ですわ。アイーナ様がいなくなった途端、書類の山は崩れ、レオン様は一日中『アイーナの愛は深い』と独り言を仰っているんですもの。怖すぎますわ!」
マリエル様は、涙で潤んだ目で私を見上げました。
「それに私、公爵令嬢に嫌がらせをされる悲劇のヒロインになりたかっただけで、実際に王妃教育を受けたいなんて一言も言っていません! あんなの、人間がやる修行ではありませんわ!」
「あら、お分かりいただけて光栄です。あの教育スケジュールを組んだ担当者は、十中八九、人の心がない悪魔だと私は思っておりますの」
私は営業用スマイルを、少しだけ「共感」の温度に変えて頷きました。
隣で煮込みの残りをお代わりしていたギルバート様が、無愛想に口を開きます。
「……アステリアの王太子は、それほどまでに無能なのか。アイーナ、貴様が全てを肩代わりしていたというのは、比喩ではなかったのだな」
「ええ、ギルバート様。彼は『王子様として美しく振る舞う』こと以外、ほとんど興味がありませんでしたの。予算書の計算も、外交官への根回しも、全て私が『愛の証』として処理してきました」
「……それがなくなった今、国政が滞るのは必然か」
ギルバート様が、少しだけ憐れむような目でマリエル様を見ました。
「アイーナ様! お願いです、私をここで雇ってください! お皿洗いでも、床掃除でも、モツの下処理でも何でもしますわ!」
マリエル様が私のスカートに縋り付いてきました。
「……お嬢様。これ、どうします? 公爵家で男爵令嬢をメイドとして雇うのは、外交問題に発展しかねませんが」
サーシャが困り顔で尋ねてきます。
私はしばし考え、いつもの完璧な笑顔で答えました。
「いいじゃありませんか。マリエル様はレオン殿下の『お気に入り』。彼女がここにいる限り、殿下は我が家を攻める大義名分を失いますわ。……という建前で、単純に労働力として歓迎しましょう」
「アイーナ様……! ありがとうございます!」
「ただし、マリエル様。私の家では、自分のことは自分でするのがルールです。お姫様扱いは期待しないでくださいね?」
「はい! 喜んで!」
まさか、マリエル様から私の決め台詞を聞くことになるとは思いませんでした。
こうして、我が家には「逃げてきたヒロイン」という奇妙な同居人が増えたのです。
「……さて。マリエル様も落ち着いたところで、次は私の『自由計画』の第二段階に移りましょうか」
「第二段階、ですか?」
ギルバート様が、興味深そうに眉を上げました。
「ええ。実は私、ずっとやってみたかったことがあるんです。……『副業』というものを!」
「「ふくぎょう……?」」
マリエル様とギルバート様の声が重なりました。
「公爵令嬢という立場上、これまでは自分の名前で商売をすることは禁じられていました。ですが、今の私は自由。この『最強の営業スマイル』と『王宮仕込みの管理能力』を活かして、町の困っている商会をコンサルティングして回るのです!」
「こんさるてぃんぐ……?」
「簡単に言えば、口を出して儲けさせる仕事ですわ」
私は懐から、昨日調査したばかりの「赤字続きのパン屋リスト」を取り出しました。
「アイーナ……貴様、本当に休むという概念がないのだな。自由になったのなら、もっと優雅に過ごせばよかろう」
ギルバート様が呆れたように笑いました。
「ギルバート様、私にとっての『優雅』とは、自分の力で状況を支配し、利益を生むことですの。……ところで、ギルバート様の国では、どのようなパンが流行っていますの?」
「……私の国か? あちらでは、保存性の高い堅焼きのパンが主流だ。だが、最近は貴族の間で柔らかい食感のものも求められているらしい」
「保存性と柔らかさの両立……。素晴らしいマーケットのヒントをありがとうございます!」
私はメモを取ると、立ち上がりました。
「さあ、マリエル様! お皿洗いが終わったら、市場調査に付き合っていただきますわよ。変装の準備をしてちょうだい!」
「ええっ!? 今からですか!? まだお茶も飲んでいないのに!」
「失業者に休息はありません。さあ、働かざる者、煮込み食うべからずです!」
私は泣き言を言うマリエル様を引きずり、意気揚々と部屋を出ていきました。
残されたギルバート様は、冷めたお茶を飲み干し、ふっと短く笑いました。
「……全く。退屈させない女だ」
彼はそう呟くと、彼女が落としていった「副業計画書」をそっと拾い上げ、その緻密な数字の羅列に驚愕するのでした。
一方。王宮。
「……マリエルも、アイーナのところへ行っただと?」
レオン殿下は、暗い部屋で一人、水晶玉を見つめていました。
「なるほど。アイーナめ、マリエルを人質に取って、私に『迎えに来い』と合図を送っているのだな……! 待っていろアイーナ、今度は最強の騎士団を連れて、お前を奪還しに行ってやる!」
……殿下の妄想は、ついに国家規模の軍事行動へと発展しようとしていました。
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