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「……アイーナ様。本気でこの、今にも崩れそうな建物を立て直すおつもりですか?」
変装用の地味なローブに身を包んだマリエル様が、不安そうに目の前の店を見上げました。
看板には薄れた文字で『ベーカリー・モグモグ』とあります。
客影はゼロ。棚に並んでいるのは、石器時代の武器かと思うほどカチカチに硬そうな黒パンだけです。
「ええ、本気ですわ。マリエル様、ビジネスの基本は『底値で買って高値で売る』こと。この死に体のお店が、私の手で大行列店に変わる様を見たくありませんこと?」
私は営業用スマイルをバッチリ決め、景気よく店のドアを蹴り……いえ、丁寧にお開けしました。
「ごめんください! 経営難に喘ぐ店主に、救いの神が降臨しましたわよ!」
店内には、粉まみれで力なく座り込む老店主が一人。
「……救いの神? あんた、冷やかしなら帰ってくれ。うちはもう、明日にも店を畳むつもりなんだ……」
「あら、それは好都合ですわ。では、今日中に私の指示に従ってください。もし明日、売上が今の十倍にならなかったら、私は黙って立ち去りましょう」
私は流れるような動作で、持参した『パン屋改革案』をカウンターに叩きつけました。
「アイーナ。貴様、いつの間にこんな図面まで書いたんだ」
いつの間にか私の背後に立っていたギルバート様が、呆れたように、しかしどこか感心した様子で呟きました。
「昨夜、モツを煮込んでいる間に書きましたの。ギルバート様、せっかくですからあなたも手伝ってくださいな」
「……私は隣国の公爵だぞ。なぜパン屋の立て直しに……」
「あら、騎士団の兵站管理とパン屋の在庫管理、本質は同じですわ。それとも、私の『お願い』は聞いていただけませんか?」
私は首を少し傾け、これ以上ないほど可憐(かつ計算高い)な笑顔を作りました。
ギルバート様は一瞬、言葉を失ったように私を見つめ……。
「……っ。チッ。……何をすればいい」
「交渉成立ですわね! ではマリエル様は店の掃除を、ギルバート様は小麦粉の搬入をお願いします! 店主さんは、私の言う通りにパンの配合を変えてください!」
「アイーナ様! 私、お掃除なんてしたことありません!」
「あら、お皿洗いをマスターしたあなたなら余裕ですわ。さあ、動いて!」
私の指揮のもと、静まり返っていた店内に活気が戻り始めました。
私が目をつけたのは、ギルバート様の国で流行っているという「柔らかい食感」と、アステリア王国の「濃厚な乳製品」の融合です。
「店主さん、この生地にたっぷりバターと砂糖を練り込んでください。そして中には、カスタードクリームを。……名付けて『王妃の休息パン』ですわ!」
「王妃……? そんな恐れ多い名前、大丈夫か?」
「大丈夫ですわ。今の王宮に本物の王妃はいませんし、元・未来の王妃である私が許可します!」
焼き上がったパンの甘い香りが、店内に充満しました。
マリエル様がゴクリと喉を鳴らし、ギルバート様の視線もパンに釘付けになっています。
「……ほう。この香りは……」
「さあ、試食タイムです! ギルバート様、どうぞ」
私が差し出したクリームパンを、ギルバート様は警戒するように一口……。
その瞬間、冷徹な騎士団長の顔が、ふにゃりと崩れました。
「…………甘い。だが、止まらん。……これは、悪魔の食べ物か?」
「うふふ、ギルバート様。あなた、もしや相当な甘党ですわね?」
「……いや、そんなことはない。断じて……。……もう一つ、もらおう」
「正直でよろしい! さあ、この『甘党の騎士様をも陥落させるパン』を売りに、外へ宣伝に行きますわよ!」
私は店先に立ち、道ゆく人々に向かって最高の営業スマイルを振り撒きました。
「皆様、注目! 本日からこの『ベーカリー・モグモグ』は、あなたの人生を甘く彩る『幸せのパン屋』へと生まれ変わりましたわ! 今なら、隣国の超イケメン騎士様(ギルバート様)が笑顔で……いえ、無愛想にパンを袋に詰めて差し上げます!」
「おい、アイーナ! 私を客寄せパンダにするな!」
「黙ってパンを詰めてください、公爵様。それが煮込みのお代というものですわ!」
アイーナの圧倒的な商才と、ギルバートの(不本意な)ビジュアル担当、そしてマリエルの「なんか頑張っている健気な娘」感。
三つの力が合わさり、店には瞬く間に長蛇の列が出来上がりました。
夕暮れ時。
「……完売ですわ! 店主さん、今日の売上を見てくださいな」
「お、おぉ……。信じられん。一生分の金貨を見た気分だ……。あんた、本当に神様だ!」
「いいえ、ただの失業者です。さて、私のコンサル料は売上の二割。……しっかりいただきますわね?」
私はちゃっかりと報酬を懐に収め、満足げに背伸びをしました。
「……アイーナ。貴様は本当に、どこにいても生きていける女だな」
ギルバート様が、パン粉のついた手で私の頭を乱雑に撫でました。
「当然ですわ。誰かの庇護がなければ笑えないなんて、そんなの退屈ですもの。……ねえ、ギルバート様。次は、隣国の特産品を使ったビジネスなんてどうかしら?」
「……また私を巻き込む気か。……まあ、悪くないが」
二人の間に、ほんの少しだけ温かい空気が流れた……その時。
「見つけたぞ、アイーナ!! そして不浄なる隣国の騎士め!」
……またしても。
夕闇を裂いて、黄金の鎧に身を包んだレオン殿下が、今度は数十人の近衛騎士を引き連れて現れました。
「アイーナ! パン屋に身をやつし、男と甘いパンを貪るなど……。さては、私へのあてつけだな!? 『私がいなくて食欲が止まらないの』という不器用なサイン、受け取ったぞ!」
「………………お帰りください」
私の営業スマイルが、ついに「無」になりました。
「行くぞ! アイーナ奪還作戦、開始だ! ……あ、そのパン、一つ残っていないか? いい匂いだな」
「ありませんわ!!」
レオン殿下の空気の読めなさは、もはや天災の域に達していました。
変装用の地味なローブに身を包んだマリエル様が、不安そうに目の前の店を見上げました。
看板には薄れた文字で『ベーカリー・モグモグ』とあります。
客影はゼロ。棚に並んでいるのは、石器時代の武器かと思うほどカチカチに硬そうな黒パンだけです。
「ええ、本気ですわ。マリエル様、ビジネスの基本は『底値で買って高値で売る』こと。この死に体のお店が、私の手で大行列店に変わる様を見たくありませんこと?」
私は営業用スマイルをバッチリ決め、景気よく店のドアを蹴り……いえ、丁寧にお開けしました。
「ごめんください! 経営難に喘ぐ店主に、救いの神が降臨しましたわよ!」
店内には、粉まみれで力なく座り込む老店主が一人。
「……救いの神? あんた、冷やかしなら帰ってくれ。うちはもう、明日にも店を畳むつもりなんだ……」
「あら、それは好都合ですわ。では、今日中に私の指示に従ってください。もし明日、売上が今の十倍にならなかったら、私は黙って立ち去りましょう」
私は流れるような動作で、持参した『パン屋改革案』をカウンターに叩きつけました。
「アイーナ。貴様、いつの間にこんな図面まで書いたんだ」
いつの間にか私の背後に立っていたギルバート様が、呆れたように、しかしどこか感心した様子で呟きました。
「昨夜、モツを煮込んでいる間に書きましたの。ギルバート様、せっかくですからあなたも手伝ってくださいな」
「……私は隣国の公爵だぞ。なぜパン屋の立て直しに……」
「あら、騎士団の兵站管理とパン屋の在庫管理、本質は同じですわ。それとも、私の『お願い』は聞いていただけませんか?」
私は首を少し傾け、これ以上ないほど可憐(かつ計算高い)な笑顔を作りました。
ギルバート様は一瞬、言葉を失ったように私を見つめ……。
「……っ。チッ。……何をすればいい」
「交渉成立ですわね! ではマリエル様は店の掃除を、ギルバート様は小麦粉の搬入をお願いします! 店主さんは、私の言う通りにパンの配合を変えてください!」
「アイーナ様! 私、お掃除なんてしたことありません!」
「あら、お皿洗いをマスターしたあなたなら余裕ですわ。さあ、動いて!」
私の指揮のもと、静まり返っていた店内に活気が戻り始めました。
私が目をつけたのは、ギルバート様の国で流行っているという「柔らかい食感」と、アステリア王国の「濃厚な乳製品」の融合です。
「店主さん、この生地にたっぷりバターと砂糖を練り込んでください。そして中には、カスタードクリームを。……名付けて『王妃の休息パン』ですわ!」
「王妃……? そんな恐れ多い名前、大丈夫か?」
「大丈夫ですわ。今の王宮に本物の王妃はいませんし、元・未来の王妃である私が許可します!」
焼き上がったパンの甘い香りが、店内に充満しました。
マリエル様がゴクリと喉を鳴らし、ギルバート様の視線もパンに釘付けになっています。
「……ほう。この香りは……」
「さあ、試食タイムです! ギルバート様、どうぞ」
私が差し出したクリームパンを、ギルバート様は警戒するように一口……。
その瞬間、冷徹な騎士団長の顔が、ふにゃりと崩れました。
「…………甘い。だが、止まらん。……これは、悪魔の食べ物か?」
「うふふ、ギルバート様。あなた、もしや相当な甘党ですわね?」
「……いや、そんなことはない。断じて……。……もう一つ、もらおう」
「正直でよろしい! さあ、この『甘党の騎士様をも陥落させるパン』を売りに、外へ宣伝に行きますわよ!」
私は店先に立ち、道ゆく人々に向かって最高の営業スマイルを振り撒きました。
「皆様、注目! 本日からこの『ベーカリー・モグモグ』は、あなたの人生を甘く彩る『幸せのパン屋』へと生まれ変わりましたわ! 今なら、隣国の超イケメン騎士様(ギルバート様)が笑顔で……いえ、無愛想にパンを袋に詰めて差し上げます!」
「おい、アイーナ! 私を客寄せパンダにするな!」
「黙ってパンを詰めてください、公爵様。それが煮込みのお代というものですわ!」
アイーナの圧倒的な商才と、ギルバートの(不本意な)ビジュアル担当、そしてマリエルの「なんか頑張っている健気な娘」感。
三つの力が合わさり、店には瞬く間に長蛇の列が出来上がりました。
夕暮れ時。
「……完売ですわ! 店主さん、今日の売上を見てくださいな」
「お、おぉ……。信じられん。一生分の金貨を見た気分だ……。あんた、本当に神様だ!」
「いいえ、ただの失業者です。さて、私のコンサル料は売上の二割。……しっかりいただきますわね?」
私はちゃっかりと報酬を懐に収め、満足げに背伸びをしました。
「……アイーナ。貴様は本当に、どこにいても生きていける女だな」
ギルバート様が、パン粉のついた手で私の頭を乱雑に撫でました。
「当然ですわ。誰かの庇護がなければ笑えないなんて、そんなの退屈ですもの。……ねえ、ギルバート様。次は、隣国の特産品を使ったビジネスなんてどうかしら?」
「……また私を巻き込む気か。……まあ、悪くないが」
二人の間に、ほんの少しだけ温かい空気が流れた……その時。
「見つけたぞ、アイーナ!! そして不浄なる隣国の騎士め!」
……またしても。
夕闇を裂いて、黄金の鎧に身を包んだレオン殿下が、今度は数十人の近衛騎士を引き連れて現れました。
「アイーナ! パン屋に身をやつし、男と甘いパンを貪るなど……。さては、私へのあてつけだな!? 『私がいなくて食欲が止まらないの』という不器用なサイン、受け取ったぞ!」
「………………お帰りください」
私の営業スマイルが、ついに「無」になりました。
「行くぞ! アイーナ奪還作戦、開始だ! ……あ、そのパン、一つ残っていないか? いい匂いだな」
「ありませんわ!!」
レオン殿下の空気の読めなさは、もはや天災の域に達していました。
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